宮殿のメイドたち 1

「今日も恋してるわね、エイミー」


 同僚の姫付き侍女レディーズ・メイド、ジェーン・ホワイトがにやにやと口の端をあげながら、モップにもたれかかって言った。


「ほんと、すっかり春ねえ」

「ちょっと待って、私が?」


 冷水で痺れる指で、真っ白に漂白された布巾をぎゅっと力任せにしぼる。


「それ、本気でいってる? ジェーン。知っていると思うけど、メイドに恋をする暇などございません」

「それは、そうかもしれないけどね」


 少女たちは朝から晩までみな真面目に慎ましく働いている。が、所詮年頃の女子だ。

 新しい御客人はすでに噂の的になっていて、私がこうして同僚たちから冷やかされるのもこれが初めてではない。心外だとため息をつく私を肘で小突いて、ジェーンは訳知り顔で言った。


「ねぇ本当に大丈夫? 彼、貴族出身じゃないらしいけど、でもやっぱり私たちには不釣り合いよ。わかってる?」

「だから、もう。そんなんじゃないってば」


 あまりからかわないでよと、私は洗い終った布巾を盾にして顔を隠した。


 ──『恋』、だなんて。

 どんなに心の底から否定しても、そのとろりと甘美な響きは胸をときめかせる。意識しまいとすればするほど、頬が熱を持ってしまうし、誰かに聞かれてやしないかとドキドキする。この手の話題は、いざ自分に降りかかると、どう対処したらいいかわからないものだ。


 日々多くの紳士や淑女たちと接する王宮のメイドであるけど、件の新しい客人は格別に注目されていた。


 レイ・フローレンス。

 若干15歳で芸術文化勲章の受賞者となった天才少年。官選入賞作「花と宮殿」はみごと女王陛下のコレクション入りを果たし、彼はいま、画壇で最も脚光を浴びている人間といえる。

 美術大学を首席で卒業し、早くも専属の画廊と多くのパトロンが付き、彼の描く絵はツバメが飛ぶよりも早く売れていくという──。鳴り物入りでの宮廷入りだ。


「さすが専属メイドね、詳しいじゃない」

「……実は、前からファンだったって言ったら信じる? もちろん、作品のよ」

「ええ? さすがに嘘でしょ?」

「ほら、女学校の校外学習で、美術館ナショナル・ギャラリーに行ったのを覚えてる?」

「うーんどうだったかしら。遠すぎる記憶だわ」


「もう、ジェーンったら……。あのときに一目ぼれしたのよ。壁一面に描かれた風景画に……私の故郷の、『ウェーリの荒れた冷たい海』。船体に打ち付ける波の音が聞こえてきそうな、揺れる漁船が今にも津波に飲み込まれそうな迫力に、見入ってしまって。美しいなんてものじゃなかった、圧倒的で怖いくらいだったの。そしたら次の部屋の展示が『花と宮殿』でね。写実的で優美な作風でしょ。もうあのギャップが忘れられなくて」

「あれを子供時代に描いてしまうなんて、すごい才能よね。えーっ、じゃあ本当に心奪われちゃったってワケ?」

「作品に、よ」

「またまたぁ。あの人を前にして見惚れない女の子がいるかしら」


 そう、絵描きとしての才能だけではない。

 天は彼に二物をお与えになった。


 さらさらと流れる金糸の髪、春の晴天と同じ色の思慮深い瞳。すらりと背の高い秀麗な青年は、彼自身の描くどんな花より美しいと社交界でも評判だ。


 そんな彼の宮廷入りが決まったとき、誰がお世話を担当することになるのか、宮殿のメイドたちは大騒ぎだった。まさか自分が選ばれるとは思わず、妬みややっかみを恐れて素直に喜べなかったものだ。加えてフローレンスは女性嫌いを公言している。私のことだって最初は「女の使用人なんて必要ない」と言おうとしたらしい。

 本人の口から直接聞いたのだから間違いない。つまり惚れる前から負けているのだ、私は。


「あの方はね、下働きのメイドなんて全く眼中にないと思うわ。だって宮廷画家ってつまり、お忙しいジューリア女王陛下のお心を慰めるために、とびきり美しいモノを描くために招かれた人でしょう? 美しいもの以外見たくないって感じがあるのよね」


「ああ、たしかに。こう言っちゃなんだけど、不愛想ではあるわね、彼。大丈夫なの、エイミー?」


「まぁ確かにとっつきにくい人よ、フローレンス様は。でも他人に冷たいところも、あの美貌ならふさわしい気がするかも」

「わかるなー、ギャラリールームの美少年像なんて目じゃないわよね! 何より石膏像と違って動くしね、彼」

「おまけに喋るのよ」

「たとえばこうかしら。『そこの君、筆を』」

「やめてー、似てない……!」


 ひぃひぃ笑いながら、力の入らない手で布巾を絞り上げた。皺なく延ばして物干しロープにひっかける。これでようやく、四百室と三マイルの廊下がある巨大な宮殿の掃除は終了だ。


 次はお茶の時間イレブンジズ・ティーの準備。各部屋のカップを選んで、温めておく。そしてそのあとは洗濯ランドリーのヘルプに入って、汚水の片付け。そうこうしているうちに昼食の支度を始めなくてはいけないのだ。


 私たちのほかにも、湯を大量に沸かすためのキッチンメイドが数人いる。おしゃべりを聞いていた子たちが、目をきらきらさせて話の輪に入って来た。


 絶え間なく手を動かしながら、それと同じくらい会話も弾む。少女という生き物はいつだって誰かに憧れていて、淡くてカタチのない恋や愛の話がしたくてたまらないのかもしれない。


    


    

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