イ-1)正岡子規/鶏頭の十四五本

(記2021/3/16)

これは泡(あぶく)として初めての記事で緊張気味。誰でもそうか知れませんね。


近代俳句の創始者「正岡子規」は俳句をどう考えていたのかな?芭蕉は柳多留(やなぎだる)を別モノとしたのでなかった?一茶の句は蕉風らしかったのかしら?泡は芭蕉に倣って「俳句・川柳・狂句は異なるジャンル」と決めたいと思っている。だから次下の俳句はどのジャンルに入れるのか考えることになる。


●鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規


あなたも考えたことはお有りかも知れませんね?句を詠んだ人が俳句と決めたら俳句で、川柳と決めたら川柳になるのでしょうか?狂句と決めたら狂句でしょうか?その線引きは有るのかしら?無いのかしら?どっち付かずで好いのかしら?そして泡は「橋本多佳子さまの句は俳句です」と断定することになるのです。


たとえば「紙魚のあとひさしのひの字しの字かな」(しみのあと ひさしのひのじ しのじかな)。この句は俳句でしょうか?あるいは狂句?でしょうか? 「久(ひさし)」が仲よしだったら?川柳としてホノボノとした空気が溢れるかも知れませんね。だけど嫌いな奴だったら?その場合良識があれば笑えない‥でしょう?


詠みかた・読みかた次第で狂句になり・川柳になり・俳句になることはある。あるいは短詩として読まれることはある。クイズ用に作られたフレーズなら、泡としては「詩」と決めつけられない。だから句の主催者たる者は言葉づかいに慎重になって当たり前なのね。狂句は人を貶(けな)し・貶(おとし)め・誹謗(ひぼう)する句‥


泡はそう決めつけていないのよ。只、詩は言葉(=縁語)なの。好きと言えば愛。乙女と言えば花・華。木魂(こだま)と言えば山をイメージ出来るでしょ?同じように狂句の「狂」の字に正常状態よりは異常事態を想うのでないかな。それなら狂句をやってる句会は異常集団と思われるのを覚悟しなきゃならない。お言葉大切にね!


泡は鶏頭に牛後も想像する。鶏頭となるか?牛後となるか?小さな集団(≒句会)かマンモス集団か?俳句の句会にはどっちが好ましいかしら?子規の考えはどうか知らないけど、芭蕉の考えはどうか知らないけど、橋本多佳子さまはどうだったのかしら?句作りが教育の一環であればドッチが向いてるかしら?


鶏頭となって句会を作って引っぱれるヒトカドの人物を育てたいという想いを芭蕉が持っていても不思議でないと泡は思う。同じ想いを子規も持っていてちっとも不思議と思えない。「弟子たちを引っ張っていける実力者が14~15人は育っているに違いない」と期待したのかも。そして多佳子さまは子規の期待に応えた。


だけど事実は、子規の期待以上に応えた多佳子さまだったと泡は思ってるの。狭い俳句の世界だけでなく、日本の思想界に影響を及ぼす仕事をなさった橋本多佳子さまでないのかな。その称賛も橋本多佳子さまの矛盾丸を立派に使いこなす人格者が現れるまで「オアズケ」になりそうね。是「第三芸術」と言いたいな。


次回はその第三芸術について考えてみますね。そうそう、今回は橋本多佳子さまのお名前を出しましたけど、次回からは「宝剣匠さま」として出演していただきます。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る