ア-2)[ 序章 ]あ ・ うん 2.舌頭に千転-芭蕉

ここでは松尾芭蕉の言葉「句調はずんば舌頭に千転せよ」を考えてまいります。句調575が満足するものになっているか、まだまだなのか、そういったことは詠み手の裁量に委ねられますから個々人ごとに差異が見られて当然です。そういったことを踏まえたうえで芭蕉の詩心に触れて見ていきたい私なのです。


芭蕉の句は「有季定型」を基本とするようですが、言葉は時代につれて変るようですし、文法もどんどん変りますから文語体に親しめない人も現代は多い。そういった諸事情から川柳や狂句、狂歌あるいは自由律俳句、一行詩、英語俳句などの型が生れるのは時代の流れから已む得ないことに思われます。


未来にはどうなるか分りませんが、日本語は五七五調ととても相性がいいと思えますし、子供たちが言葉のイロハに慣れるのにも定型五七五は役立つように想います。日本語圏の誰とも通じあえる言葉づかいを身に着ける意味は大きいでしょう。すなわち、五七五のフレーズを作って舌頭に千転する遊び・鍛錬。


何ごとも楽しければ身に着く道理。言葉遊びのなかで子供たちは縁語に気づけて、学年が進めば言葉に季節感が具わることにも気づくでしょう。たとえば夏といえば暑い・水浴び・水鉄砲・向日葵の花などを想いうかべる想像力が身に着くし、雪といえば冬季を想像できて、知らぬまに豊かな感性が育っていく。


蕉風を広めようとした芭蕉の真意は私には分らないけれど、日本の未来を引継ぐ子供たちに豊かな感性を欲した芭蕉であれば疑うまでもなく当然有りえる。これは一行詩・短詩に限らず、散文詩や叙事詩、あるいは凡ての文章に通じる詩心だろうと私には想われる。人と人が心と心を通わせあうのに欠かせない詩心。


勿論ですが、舌頭に千転することで素敵な俳句が生れるなら更に素晴らしいと思うのです。私の文が誤解を招かないために述べるなら、千転することで「これは破調がいい」となる場合もあるでしょう。また、「ゴロは好いがこの文では詩心が失われる」と考えなおす機会を生むこともある筈です。


日本語の「詩」の意味は未だ確定してなくて、「言葉遊び=詩」と思っておられる人は多い。あまつさえ「誰かの陰口を叩く詩」があっても構わないという意識の人もいらっしゃるし、それが詩なんだと決めるのは一向に構わないと私は思う。その場合、私は詩に代わる単語を創ればいいとする立ち位置です。


詩心は「人間賛歌の心」と私は想っている。すなわち、私の場合、詩は人間賛歌となる。人間を勇気づけ、人間の幸せを願い・歌い・謳う。それが詩だと私は理解している。狂句・狂歌で憂さを晴らしたい気持になることは大勢の人と共有できそうですが、それでお終いなら勿体なく私には物足りなく想える。

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