第二章「出会いと別れ」(仮題)

守り守られ

第23話「練習」

 その夜、何か大きな者に踏み潰される夢を見た。誰かの足の下で、俺は必死にもがいた。だが、もがいても、もがいても逃げられない。


 笑い声が聞こえる。まるで、俺が足掻くのを楽しんでいるような……。


「う……」


 目を覚ますと、誰かの――いや、多分カイコの足が顔の上にあった。なぜか俺の顔の横で上下逆さまになって寝ている。


 カイコの足を除けて、体を起こそうと思ったが、体にも何かが乗っているようだった。顔だけ上げて見てみると、俺の脇腹を枕にしてミツバチが寝ており、腹の上にはうつ伏せになったレグナの頭が乗っていた。


「……重い……」


 悪夢の原因はこれだ。これ以外にない。


 カイコ、ミツバチはともかく、なぜレグナまで。一応俺だって男なんだし、危機感はないのだろうか。


 いや、一緒に寝ている時点で危機感も何もないか。それに元々レグナは人との距離が近い子だ。


 それにしても、重い。ほとんどレグナの重さだろう、これは。


「おい、お前ら……」


 声をかけて起こそうとしたが、あまりに気持ちよさそうな寝顔を見て、でもまあ、と思い直す。


 もう少しだけ我慢してやってもいいか。正直、信用されている感じがして、悪くない気分ではある。


 そんなことを考えてぼんやりしていると、突然、カイコのかかとが顔に飛んできて、俺の鼻を見事に潰した。


 衝撃のせいか、視界が一瞬白くなった。堪らず悲鳴を上げて、両手で鼻を押さえる。痺れるような鋭い痛みに涙が出てきた。目の前がぼやける。


「……だ、大丈夫?」


 レグナの声。俺の顔を覗き込んでいるようだった。


「どしたの?」


「うっさいな……」


 カイコも顔を覗き込んできた。続いてミツバチの声。


「あー……いてー、カイコの足が鼻に……」


「えっ、ごめんね、セトくん」


 俺は目に浮かんだ涙を拭うと鼻をすすった。


「大丈夫……いいよ……」


 もう一度鼻をすする。その時、鼻の中で鉄っぽい匂いがした。ギクッとして鼻の穴を指で擦ってみると、指に血がべっとりとついた。鼻血だ。


「やべ……血が……」


 慌てて服やベッドが汚れないように少し上を向いた。


「わー、セトくん! どうしようぅ! ごめんなさいごめんなさい!」


「いや、平気だよ」


 カイコがわぁわぁ泣きだす。レグナはラコ語で何やら叫んで、ベッドから飛び下りた。何を言ってるのかは分からないが、慌ててるのだけは分かる。ミツバチはぐっと体を伸ばして、いつもと変わらない様子だ。


 レグナは恐らく首元を保護するのに使っていた帯状の布を、ナイフを使って切り裂くと、こちらに戻ってきた。まさか、そんなことをしてくれるなんて思ってもいなかったので、止める間もなかった。


「あー……わざわざ、破かなくても。あの、じっとしてればその内、止まるから……」


 泣きじゃくるカイコの頭を撫でながら言うと、レグナが俺にその布の切れ端を差し出す。


 破いてしまったものはもう仕方がない。鼻の中に溜まった血が溢れてきているし、手も血まみれだ。このまま他の物も汚してしまう前に、レグナが持ってきてくれた切れ端で鼻を押さえる。


「ありがと。もう痛くないし、平気だから」


 俺が少し鼻をすすって、口から息を吐くと、ミツバチが思いついたように声を出した。


「そうだ、レグナの魔法、使ってみれば? 練習に」


 レグナの耳がピッと立ち上がる。


「えっ、練習って……俺に魔法をかけるのか?」


 ミツバチが頷くのを見て、俺は慌てて言った。少し怖かったのだ。


「いや、本当に大丈夫だって、もう止まるから……」


「セト! 動かないで!」


 レグナが両手をこちらに伸ばしてくる。あまりにも鬼気迫る顔だったので、俺はつい言うとおりにしてしまった。


 レグナの両手の指が鼻に触れる。そういえば、レグナの首飾りも光るのだろうか。


 息を呑んで見守っていたが、首飾りは全く光る様子がない。


「ど、どう?」


 レグナが不安そうに眉尻を下げて、小さく声を出す。


「えっ、どうって……」


 俺はレグナの指先に意識を集中させてみた。


「……なんか、温かい、かも?」


 正直よく分からない。ただ体温を感じているだけのような気もする。


 効果を確かめてみようと恐る恐る布を外してみると、さっきよりは確実に血が少なくなっていた。もうぼたぼた落ちるような量は出ていない。


「少し止まったかな? んー、でも、これ、魔法のおかげなのか……?」


「違うと思う……!」


 レグナはまた耳を伏せたかと思うと、両手で顔を覆って俯いてしまった。大きなため息が聞こえる。


「そんなに落ち込むなよ」


 俺は少し鼻をすすってから続けた。


「そうだ。あとでニカにコツとかないのか聞いてみようか」


 レグナが指の隙間からちらりとこちらを見る。どうやら立ち直ったらしく、耳がピンと立っていた。尻尾もゆらゆら揺れている。


「カイコも。ほらこっち見てみろ。もう止まってるだろ? だから気にすんなよ」


 カイコは涙を拭うと、小さく頷いた。


「鼻血くらいで大げさなんだよ」


 と、ミツバチ。大きなあくびをすると、ベッドから下りる。


「二人はもう起きてるかな」


 俺はそう呟いてから、ベッドから下り、両手を高く上げると背中を伸ばした。それから部屋を出る。


 レグナとカイコもすぐに後を追ってきた。


 居間にはヘビとニカが既にいて、食事の準備をしてくれていた。


 ニカは俺らを見るなり、呆れた様子で言った。


「朝からずいぶんと大騒ぎでしたね。どうしたんですか?」


「ケンカ?」


 と、ヘビが笑う。


「違いますよ。カイコのかかとが鼻にぶつかっちゃって、ちょっと鼻血が……」


「なぜかかとが……」


 ヘビが苦笑すると、ニカは大きくため息をついて、俺をじっと見た。


「もう血は止まってるみたいですし、大丈夫そうですね。食事にしましょう」


*****


 朝食は、パンにチーズ、それとジャガイモ、タマネギの入ったスープだった。


 この組み合わせで美味しくないはずがない。


 食事中、俺はニカに魔法のコツを聞いてみた。すると、魔法をきちんと扱えるかどうかは、基本的に個人のセンスの問題だという。出来ない人はいくら努力しても底が決まっているみたいに上達しないそうだ。


 レグナがショックを受けているのを見てか、ニカは少し慌てた様子で視線を泳がせた。


「でも、まあ、強いて言うなら……自分の身につけている魔導石に意識を集中した時、何か熱いものが流れ込むような感じがしたら、その時の直感に従う、くらいですかね」


「うー……、やっぱり無理かも」


 レグナが耳を伏せて、また両手で顔を覆う。ニカが続ける。


「水と風の魔法しか使ったことがないのでコツは分かりませんが、ウィララ様の、いわゆる土の魔法は、他の魔法とは少々勝手が違います。なので、そう落ち込むことはないと思いますよ。駄目で元々ってくらい、難しい魔法です」


 レグナはそれを聞いて顔を覆うのをやめると、小さくため息をついた。


「もし、本気で魔法を使うことを考えているのなら、一度、魔導師の指導を受けてみては?」


 指導、というのは魔法の使い方を指導する、ということだろうか。


「うーん……考えとく」


 レグナがそう言うと、ニカが少し苦笑した。


「ちゃんと習おうと思うと、それなりの時間とお金がかかりますからね。ウィララ派である以上、自身の能力の見極めが大事だと思います」


 俺は、魔法使いと魔導師の違いが気になっていたが、ニカやヘビの前で無知を晒すのが恥ずかしくて、言い出せなかった。


 魔法使いだって、他人に教えるのは可能なはずだ。魔導師だって指導するからには、相当に魔法の扱いが上手い人物だろう。何が違うのだろうか。


 その後、食事を終えた俺らは身支度を整えて店の外に出た。ニカとヘビに別れを言うために店の前で一列に並ぶ。


「お世話になりました。二人の助けがなかったら今頃どうなっていたか……」


 俺が頭を下げると、ニカとヘビの笑い声がした。頭を上げると、ニカが言った。


「またこちらに来る機会があれば、ぜひ私達を頼ってくださいね」


「待ってますから」


 と、ヘビ。


「本当にありがとうございました。必ずまた来ます」


「またね!」


 俺がもう一度頭を下げると、足元にいたカイコが手を振った。ミツバチも控えめに手を振っている。


「ありがとう!」


 俺が頭を上げるとレグナは尻尾を振りながら、両手も振っていた。


*****


 二人に別れを告げたあと、俺らはすぐに海岸へと向かった。


 町の奥に進むと、大きな港があった。潮の匂いと、魚介の生臭い匂い。魚を売っている店がいくつか並んでおり、見たこともない魚がたくさん置かれていた。


 大きな帆船、小さい帆船。さまざまな船が波に揺られて浮かんでいる。中にはラコだけの船や、一人だけだったが、ツドリの乗っている船もあった。


 騒がしい港を横目に、海岸線に沿って歩いていくと、町の外れに砂浜が広がっていた。堤防のようなもので囲われているものの、階段があったので、それを使って砂浜まで下りた。


「イーラはどこにいるかな」


 俺が呟くと、レグナも辺りを見渡した。


「あっ、あれじゃない?」


 海を見渡していると、俺のズボンの裾を引っ張り、海に向かってカイコが手を

振った。


 カイコの視線の先には、イーラがいた。俺らと目が合うなり、砂浜に体を押し上げてくれる。慌ててそばに行き、目の前にしゃがむ。


 イーラは肩から何か紐のようものを下げていた。


「買い物はできた?」


「ええ、ばっちりです」


「それは良かったわ」


 イーラはそう言うと、肩から下げていた物を手にした。それはどうやら木の皮か何かで編まれたカゴのような物で網目はかなり大きく、隙間からは巾着のような袋と二枚貝の貝殻が数枚入っているように見えた。


「それで、私達が連絡をとる方法なんだけど……」


 イーラは二枚貝を二つに分けると、片側を俺に渡した。訳が分からないままそれを受け取り、じっと眺めた。ただの貝殻だ。表は茶色で、少し赤みがかっていた。裏側は光の加減で白、ピンク、緑など虹色に輝いていた。


「キレイな貝殻!」


 カイコが俺の手元を覗き込む。イーラは同じようにしてもう一つ貝殻の片側を渡してきた。俺が手を伸ばす前にカイコが受け取る。


「こっちもキレイ」


 裏は虹色、表もさっきのと同じ茶色だが、こちらは黒みがかっていた。


「……でも、これが連絡手段?」


「そうよ。この貝はレゾ貝っていって、海の中にある掲示板で使うのよ」


「海の中に掲示板なんかあるんですか?」


「ええ。掲示板だけじゃなく、酒場、道具屋、武器屋もあるし、地上の町とあんまり変わらないはずよ」


 もう少し詳しく聞きたかったが、砂の上で居心地が悪そうに身じろいだイーラを見て、話を戻した。


「それで、その掲示板はどうやって……?」


「港のある町、海沿いの町にはほとんど設置してあるから、貝殻通信所って書いてある看板を探して。大抵仲介役のシクルがいるわ」


「えっと『貝殻通信所』ですね」


 まだ話が全く見えていないが、覚えておかなければならない単語だというのは分かるので、復唱した。


「そう。その看板を見つけたら、そこにいるシクルに赤い方の貝殻を渡して。そしたら私からの伝言を受け取れるから」


「こっち?」


 赤みがかった茶色の貝殻をイーラに向けて振ると、イーラはうんうん、と頷いた。


「それで、お金が少しかかるけと、もし私に伝言を残したい時は、黒い方ね」


「じゃあ、こっちだね!」


 カイコが黒みがかった茶色の貝殻を頭の上に掲げた。


「その都度、次に使う貝殻は入れておくから、次の場所ではそれを使って……まあ、あとは使ってみれば分かると思うわ」


 説明が面倒になったのか、イーラがため息をつく。


「……それで、もし運良く近くにいたらまたみんなで食事でもしましょうよ」


「はい、ぜひ」 


「じゃあ、またね」


 俺らが手を振ると、イーラは体を捩って、後ろに下がろうとした。だが、すぐに硬直して動かなくなった。不思議に思っていると、イーラは少し恥ずかしそうに呟いた。


「えっと、申し訳ないんだけど、海に戻るの手伝ってくれる?」


 レグナと一緒にイーラが海に戻るのを手伝っていると、突然、何かが海から頭を出した。それは人だった。セミロングで金髪の青年だ。


 青年は俺と目が合うと、ニコリと笑った。俺がつい会釈をすると、青年はイーラの体を引っ張るのを手伝ってくれた。


「あら、カシヤ」


 青年の存在に気がついたイーラの表情が和らぐ。知り合いだろうか。


 イーラを海に戻して、服についた砂を払っていると、レグナが聞いた。


「男の人、誰?」


「あっ、彼? 恋人よ、恋人」


 思わぬ言葉に一瞬、言葉が詰まった。


「こ、恋人って……昨日、海に戻ったばかりじゃ……」


「そう、昨日の夜、酒場に行ったら意気投合しちゃったの。かっこいいでしょ?」


 そう言ってその青年と腕を組んだ。青年はイーラを見て、少し困ったように笑うと、俺に言った。


「僕はカシヤといいます。セトさんですよね? イーラから聞きました」


 言い終わると同時に右手を差し出された。混乱しながらも手を握り返すと、湿っていて、冷たい感触だった。


 少し説明が欲しくてイーラを見ると、目が合うなり、イーラは言った。


「……ねぇ、カシヤ、もう少し一人で泳いでてくれない?」


 カシヤは不思議そうな顔で俺をちらりと見たあと、イーラに優しげに微笑んだ。


「じゃあ用が済んだら声をかけて」


「ええ、分かったわ」


 カシヤは身を翻すと、海の中に潜っていった。


「……私が一人で寂しそうだったからって声をかけてくれたの」


「でも、昨日会ったばかりの人と恋人なんて……大丈夫なんですか?」


 余計なお節介かと思ったが、俺はつい我慢できずに聞いてしまった。


 世の中には会ったその日に結婚の約束をする人もいるようだが、あまり一般的ではないと思うし、なにより、相手の事を何も知らないのに、距離を縮め過ぎるのはリスクが高いように思う。


 ……それとも、俺の恋愛観が前世の常識に囚われているだけの異質なもので、この世界だと当たり前の恋愛観なのだろうか。


 不安になって目を伏せると、イーラが明るい声色で答えた。


「そっか、リトナは結婚? ていうのがあるのよね?」


 思わず顔を上げると、イーラは少し考えるような素振りをした。


「同じ人とずっと一緒にいるんでしょ? 

確かにそれならもっとよく考えるんだろうけど、私達は子供を産んだら別れちゃうから」


「子供を産んだら、別れる?」


 聞けば、シクルには結婚という習慣がないらしい。恋人になり、子供を産んだら、その恋人とは別れて、子育てに専念する。子供に手がかからなくなれば、新たな恋人と再び子供が産まれるまで付き合うのだそうだ。だからか、あまりじっくり知り合う必要がなく、気になったらとりあえず声をかける、というスタンスらしい。


「そっか……すいません、事情も知らずに……」


「いいのよ。気にしないで」


 やはり、リトナの価値基準や前世の記憶からの情報を前提にしてはいけないのだと改めて感じた。考えてみれば、姿形も生育環境も全く異なる種族なのだから、当然のようにも思う。


「あなたも素敵なんだけど、やっぱりシクル同士の子供じゃないと不安かなぁって。だから……ごめんなさいね」


「あ、いえ、全然……」


 子供は10人以上欲しいと嬉しそうに言った彼女の笑顔に、なぜか少しの切なさを感じながら、俺らはイーラと別れた。

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