第2話「ルカの木」
寒さに体を丸めていると、月明かりの下、砂埃に煽られながら、人が歩いてくるのに気が付いた。
そいつは、よく見れば俺を奴隷として働かせていた『バンカトラ統一連合』のシンボルが入ったローブを着ていた。俺が逃げた事に気が付いて追ってきたのかもしれない。そう思い、慌てて岩の後ろに隠れ、様子をうかがった。
そいつはゆっくり歩いてきた。追ってきたにしては様子がおかしいような気もする。いや、そもそも、俺が逃げ出してきた町とは方向が逆だ。
ひとまず追っ手ではないようなので安心したが、逃亡奴隷だとばれては厄介なので、このまま隠れてやり過ごすことにする。
岩陰からそいつを観察していると、人間じゃない種族だという事に気が付いた。キツネのような大きな耳が頭に巻かれた布からはみ出ていたのだ。
今まで生きてきて、一度しか見たことがない種族だ。そのうち10年は好きなところを見る自由もなかったので実際はよく見かける種族なのかもしれないが。
そいつはどうやら相当弱っていたようで、左右にフラフラとしたかと思うと、突然、地面にうつ伏せで倒れてピクリとも動かなくなった。
……死んだ? 死んだとすれば、チャンスだ。ラッキーだ。何か役に立つ物を持っているかも。
恐る恐る近づいてみると、大人にしては小柄だった。まさか、子供だろうか。それに遠目では分からなかったが、その両足首に見覚えのある物があった。間の鎖こそ千切れていたが、足枷がついていたのだ。それに気が付いた途端、背筋に寒気が走った。
恐らく、鎖を切って逃げ出してきた。こいつは俺と同じ、逃亡奴隷だ。
「なあ! なあ、おい……!」
思わず声をかけていた。そいつの肩の辺りを掴んで揺り動かす。だが返事はない。聞こえるのは吹きすさぶ風の音だけだ。
仰向けにすると、巻いている布でほとんど顔が隠れていたが隙間からオレンジ色の髪が覗いていた。俺はそいつの顔の布をずり下げて、その顔を覗いた。するとそいつは、恐らく俺よりは年下の少女だった。
確かめるのが少し怖かったが手のひらを口元に持っていくと呼吸をしていた。生きているとホッとしたが、その後いくら声をかけても彼女は目を覚まさなかった。
死にそうなのか、よほど疲れているだけなのか分からないが、分かってもどうしようもない。それに今は他人に構っている場合ではない。今すぐ服を奪ってどこか隠れられる場所を探すべきだ。
でも、こんな少女を裸にして、こんな場所に一人っきりで置いていくのか? そんな事をしたら、彼女は確実に死ぬだろう。
「……くそっ」
もう彼女を抱き上げるだけの力が残っていなかった俺は何度も休憩を挟みながらも、彼女を俺がさっきまで隠れていた岩陰まで引きずっていった。ここなら多少風から身を守れる。
この対応がこの世界じゃ甘いと言われることは分かっていた。だが、まだ確かに生きている彼女にトドメをさすような真似はとてもじゃないが出来なかった。そんなことをした後に堂々と生きていける自信もない。
それに、見捨てられて一人で死ぬのは寂しいし、惨めだ。俺にはその記憶がある。このまま死んでしまうにしても、せめて看取ってあげたかった。
俺は彼女の背中側に体を押し込むと、彼女を抱き込むようにして丸まり、目を閉じた。
*****
まだ月が薄っすらと出ている早朝、目を覚ますと、彼女はいなくなっていた。だがかわりに、彼女が体を覆うのに使っていた大きな布が体にかけてあった。それに、そばには木の実のようなものも置いてあった。木の実は丁寧に並べられた葉っぱの上に乗っている。
それを見た瞬間、彼女が生きている事、自分が生きている事、他人からの優しさに胸が締め付けられて、痛いほど嬉しかった。
俺は声を出して泣いた。生まれて初めて、いや、前世から今まで、嬉しくて泣いたのは初めてだった。
俺はひとしきり泣いた後、いただいた布を背中に回し、端と端を首元で結びマントのようにした。これだけでもずいぶん寒さを凌げる。
温かい優しさを噛みしめながら、木の実を一粒摘んで眺めてみた。初めて見る木の実だ。小指の爪ぐらいの大きさで、青紫色。恐る恐る一粒食べてみると、かなり酸っぱかったが、水分量も多く、食べられない味ではなかった。腹も減っていたし、喉も乾いていたのですぐに平らげてしまった。物足りなくはあったがとりあえずは動けそうだ。
立ち上がろうとして岩に手を置くと、岩に何か書いてあるのを見つけた。小石か何かを使って書いたのだろうか。記号? いや字かもしれないが、少なくとも俺の知っている文字ではない。当たり前だが日本語でもないし。
字を指先でなぞる。これは、恐らく彼女が書き残した物だろう。短文だが、何を伝えたかったのか気になる。
その時、背後から、砂を踏む足音が聞こえた。追手かと思い慌てて振り返ると、そこには昨日の少女がいた。
「あ……」
思わず声が漏れた。昨日、死んでいるのかいないのか分からないような顔で目をつむっていた彼女は、もうそんな様子は微塵もなかった。
健康的な肌の色に薄い色の瞳。目尻が下がっていて、ふんわりと柔らかい印象をうける。驚いているその表情からでも彼女の愛らしさは十分伝わってきた。
少しの間、お互い見つめ合ったまま喋らなかった。俺は彼女がどう出るのか分からなかったからだが、恐らく彼女も俺の様子をうかがっていたように思う。
体にかけてくれていた布はもらえるかどうか分からないが、少なくとも食べ物はくれた。ならば敵対している、というわけではないのだろうが、それ以外分かる事もなかった。なので、とりあえず声をかけてみることにした。
「あー……えっと……どうも」
彼女は耳をピクリとさせると口を開け、両手を胸の辺りまで上げる。彼女の手には20センチくらいの細い枝のようなものが握られていた。その枝を振って、何か言おうとしていた。
「それっ……! あ……う、あっ……」
やはり敵対するような様子はないが、彼女があまりに慌てているので、少し不安になった。
「そっ、それ?」
俺が聞き返すと、彼女は不安げな様子で「それ」と言いながら葉っぱを指差し、「食べた?」と言った。多分葉っぱの上にあった木の実のことを言っているのだろう。
俺の使っている言語はリトナ語といって恐らく大体の種族が使える言語だったはずだ。地球でいう英語のような。しかし彼女のリトナ語はずいぶんとたどたどしい。
少し考えてから、上手く話せないにしろ、聞いて理解することはできるかもしれないと思い、俺は彼女を見つめてゆっくりと、できるだけ難しい単語は使わないように話してみた。(そもそも俺自身、難しい単語は知らない)
「食べたよ、ありがとう」
と、言うと、彼女はホッとしたように口角を上げた。
「俺はセトっていうんだけど……」
すると彼女は少し困ったような顔をして首を傾げる。分からなかっただろうか。それとも聞き取れなかったか。
「セト」
俺が自分の胸を叩いてそう言うと、彼女はあっと声を出し、嬉しそうに目を細めると、でも恐る恐るといった様子でゆっくりと俺に近づいてきた。そして俺の前で立ち止まると、すっとしゃがんだ。
「〇〇、セト?」
最初の方は聞き取れなかった。リトナ語ではないような気はするが確信を持てない。
「俺はセト」
もう一度自分の胸に手を当てて、そう返してみると、彼女は俺がしたように自分の胸に手を当ててゆっくりはっきりと声を出した。
「レグナ」
「レグナ?」
彼女はうんうんと頷くと、右手を差し出した。あまりこういった事をする機会がなかったので、その右手がどういう意図で出されたものか分からず、少し呆けてしまったが、すぐにハッとして握手をした。
小さくて柔らかい手、温かい。人の温もりというものを感じてホッとする。それに、彼女の嬉しそうな顔と言ったらなかった。誰かのこんな笑顔を見たのは久しぶりで、俺まで口元が緩んだ。
握手の後、レグナは持っていた枝のようなものを半分に折り、その片方を俺に渡すと立ち上がった。
レグナから渡された枝は折った箇所から白っぽい汁のようなものが滴っており、微かにハーブのようなミントのような匂いがしていた。食べ物だろうか。
その枝の用途が分からず、レグナの様子を見ていると、レグナは慣れた様子で枝の切れ端を口に含み、奥歯で何度か噛み締めた。次に噛んで潰れて少し柔らかくなったであろう切れ端で歯を擦っていた。
「ああ、なるほど」
それを見て、ピンときた俺はレグナの真似をして枝の切れ端を噛み締めた。口の中で歯磨き粉のような少し辛味のある、でもすっきりとするような爽やかな味が広がる。
俺はいつもそこらの適当な枝を使って歯を磨いていたが、こんな歯ブラシと歯磨き粉を合わせたような枝があるなんて知らなかった。
レグナは木の枝で歯を擦りながら、辺りを見渡していた。風が吹くたびに腰布が揺れて、その下からオレンジ色のふさふさの尻尾が見え隠れしていた。
歯を磨きながら、再びこれからのことを考える。一人じゃないことや、食べ物にありつけたことで少し気持ちに余裕が出た。
このまま一人で行動するのはあまり良くない。というか自信がない。どうしていいか分からない。俺はこの世界でまともな教育を受けておらず、識字能力すらほぼないに等しい。一般常識だって怪しい。
「あのさ、レグナはこれからどうすんの?」
俺が声をかけると、レグナは木の枝をくわえたまま肩越しにこちらを見た。
「なんて?」
レグナが木の枝を捨ててこちらに戻ってくる。
「これからどうする?」
「あー……うーん……村、行く……?」
俺も木の枝を捨てて、立ち上がった。
「村ってどこにある?」
「どこ、えっと」
レグナは申し訳なさそうに首を横に振った。どこにあるかは知らないという事だろうか。
「同じところ行くの、いい?」
そうレグナが言ったのを聞いて、少し首を傾げてしまった。同じ村に行く? 俺と一緒に行動したいという事だろうか。
「俺と一緒に来てくれるのか?」
レグナは俺の言葉を聞くと、目を見開いて、何度も力強く頷いた。
「あっ、えっと、そう。いっ、一緒に……いい?」
俺もそうしたかったので、すぐに頷いた。すると、レグナはパッと目を輝かせ、嬉しそうに笑った。
「でも俺も村とか、居住区のある場所知らないんだ。俺はあっち、北のサンドラから来たんだけど」
俺が歩いてきた方向を指さすと、レグナが不安げな様子で言った。
「……あー……えっと、歩く?」
「歩く? レグナは南から来たよな、確か。とりあえず西に行く?」
レグナが慌てた様子で頷く。その後、レグナは辺りを見渡しながら、俺の知らない言葉で早口に何か呟き、難しそうな顔をしていた。
そうしてしばらく、大体昼頃まで歩いていたが、村のような物は一向に見つからなかった。
お互い、独り言のように一言二言の言葉を交わすのみで、会話はほぼなかった。俺自身、何を話したらいいのか分からずにいたので、黙っている時間がほとんどだった。
無言のまま少し歩いて、気まずさも限界に感じて俺がそわそわしだした頃、レグナが突然、立ち止まった。俺はチャンスと思い、すかさず声をかけた。
「どうしたんだ?」
「ルカの木」
「ルカ? 木?」
レグナはどこかをじっと見つめていた。俺もレグナの視線の先を見た。そこには大きな枯れ木があった。
「あれ、ルカの木。来て」
レグナは俺の腕を掴むと、興奮した様子で枯れ木のそばに駆け寄った。枯れ木の幹は直径30センチほどはあるだろうか。どうするのかと思っていると、レグナはおもむろに靴を脱ぎ、腕まくりをした。かと思うと、枯れ木から離れ、勢いよく駆け出した。そして、両手と両足をうまく使いながら、まるで猫のように木の幹を登っていった。
あっという間に天辺まで行くと、今度は木の枝を揺らしてはその枝に耳を当てていた。それを何度か繰り返した後、レグナは小さなナイフを取り出して、枝をしならせ、切り口が上になるように切り取ると、それを二本、片手に抱えながらゆっくり下りてきた。
「レグナ、落ちるなよ」
「大丈夫! 落ちないよ」
レグナはそう言って悪戯っぽく笑った。レグナがある程度の高さまで下りてくると、木登りが上手い理由がよく分かった。レグナの足には鋭い爪が生えており、しっかりと木の幹に食い込んでいたのだ。本当に猫みたいだ。
得意げな顔で地面に降り立ったレグナは、俺に木の枝を一本渡して言った。
「これ、水、飲めるよ」
レグナは木の枝を頭の上に掲げると今度は切り口を下にし、少し舌を出して口を大きく開けた。するとチョロチョロと枝の中から水が流れ出てきた。驚いて枝をよく見てみると、中心部に小さな空洞がある。この中に水が溜まっているんだろうか。中を覗こうと顔を近づけると、レグナに止められた。
「口つけるのだめ。ピリピリする」
枝の断面をよく見ると、白い樹液のような物が染み出してきていた。
「ちょっとなら平気だけど」
レグナはそう言って笑った。
その後、俺もレグナの真似をして枝から水を飲んだ。微かに木のような味はしていたが、ほとんど無味無臭。さらさらとして飲みやすい水だった。
お互い水を飲み終わるとレグナはナイフで枝を縦に切った。中は綺麗に空洞になっている。
「何するの?」
と、俺が聞くと、レグナは白い樹液のような物を手に取り、首筋や顔、腕など肌が露出しているところに塗り広げた。
「虫よけ。セトも塗って?」
口にしたらピリピリするのに肌に塗っても平気なのか? 俺が少しうろたえているとレグナは不思議そうな顔をして、自分の指に樹液を取って俺の腕に塗り広げた。
柔らかい手の感触に体が強張る。緊張して固まっていると、レグナは俺の腕や足、首筋、顔などにまんべんなく虫よけになるらしい樹液を塗ってくれた。あまりに躊躇いなくペタペタと触られるので、顔は熱くなるし、変な汗をかいた。レグナが俺の顔に触れた時、樹液の青臭い匂いがしていた。
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