学校一の美少女が金の斧か銀の斧か聞くやつで生計を立てていたんだが?
古川
ある森のきこり
斧をぶっ飛ばしてしまった。
すっぽ抜けたのだ。手から。
そして、落ちた。池に。どぷんと。あぁ。
僕は池の縁に膝を付いて、透き通る水中を見つめる。斧は遥か底へと沈んでいく。
僕は泳げない。きこりは代々泳げないのだ。よって、池の前できこりは、代々無力である。
「くそぉ……」
僕が呟いたその時だった。水面がゆらゆらと揺れ始めたかと思うと一気に波立ち、中央に大きな水柱が立った。僕は水を被りながら腰を抜かした。
次に目を開けた時、そこには光輝く女神の姿があった。
「めっ、女神!」
僕は叫んだ。きこりは代々、女神を前にしたら叫ぶ。きこりにとっての女神とは、代々そういうものだからだ。
しかし。
よく見たら女神ではなかった。
それは山野中高校二年三組に属する女子生徒、
女神っぽいものを着た小森は池の中央に立ち、手に何かを抱えたまま僕を見ている。くっきりと丸い目には、なぜか緊張の色が見える。
「きっ、君はっ、二年五組の
「はっ、はい!」
突然フルネームを呼ばれ、僕は背筋がぴーんとなった。きこりは代々、美少女の呼び掛けには背筋がぴーんとなるのだ。
小森はなぜか目に見えて震え出した。そして細々と声を発する。
「あ、あなたが落としたのは、この、金の斧ですか……?」
「い、いいえっ」
「こっちの、ぎ、銀の斧ですか……?」
「い、いいえっ」
「でっ、では、こっ、このっ……、三日間煮込んだカレーを美味しくいただいた後のお鍋ですかっ!?」
「いっ、……いいえっ!!」
僕の声がこだまする。
そびえ立つ
◇
翌日の朝、僕は三組の教室へと向かった。
小森瑞菜の姿を見つける。緊張で足をがくがく言わせながら近付いていく。
小森は僕と目が合うと一瞬驚いた顔をした後、逃げるように視線を逸らした。
「小森さん、ちょっといいですか」
頭の中で三億回練習したセリフを発する。小森は僕にしか聞こえない声で答えた。
「……外で」
校舎裏に着くなり、小森は勢いよく頭を下げた。
「きっ、きのうはごめんなさい!」
先手を取られて僕は慌てた。四億回練習してきたセリフも飛んでしまい、涙目の小森を前におろおろするばかり。
小森のしどろもどろの話によると、小森は池の女神の血を引いているのだという。
女神の存在は古くきこりの間で知れ渡っていたが、なぜか確かな目撃情報もなく、どこか伝説めいた存在だった。本当にいたんだ……。
「女神の役割に変化が出てきたのは、私の二代くらい前、おばあちゃんの頃からで。金と銀の斧の価値が暴落するかわりに、きこりの普通の斧の需要が高まって。それが出柯杉の異常増殖の影響だっていうのは、束林くんの方がよく知ってると思うけど……」
「それは……うん」
小森は何度も瞬きをした。長い睫毛が影を作る。
「だんだん女神の役割そのものが曖昧になってきて、存在が成り立たなくなってきて。その頃から、金と銀の斧の最後に、きこりの落とした物じゃないものを出すようになって…」
きのうの、カレーの鍋のやつか。
「だからきこりは、全部にいいえって答えるしかなくなったの。それで斧を没収して、私たちはそれを、森の質屋に入れて、お金に……」
それはまぁ、詐欺だ。
きこりの斧は長年使われていくに従って強度を増す。磨き上げながら、先祖代々継承されてきたものだ。だからその斧を無くしたとなれば、繋がれてきた物がそこで途切れることになる。
つまり、きのう池に落とした斧を、走って逃げた小森に没収されている今の僕は、きこり的にかなりやばいということ。
「じ、じゃあ、もう僕の斧は……」
小森は首を振る。
「まだ。でもすぐにでも質屋に持って行かないと、お金がなくて……。ほんとは私も、こんなことしたくないの」
泣き出してしまった。
僕はきこりとして、なんとしても斧を返してもらいたい。何もない僕に託された、唯一の任務。先祖から受け継いだ、大切な責任だ。
でも、小森の泣き顔を前に、僕は何も言えなくなってしまった。
◇
山野中高校は、森を切り開いた平地に建てられている。僕が現在担当しているのはこの高校の裏手、東南東エリアの森だ。ここで主に、大きくなり過ぎる前の出柯杉を切り倒している。
斧を無くしたことを親父には言い出せないまま、いつも通りに家を出てきてしまった。溜め息を付き、何年か前に誰かが切ったのであろう切り株に腰を下ろす。
夕方の光が指す森の中に、ひらりとした白い物が見えた。すぐにわかった。小森瑞菜だ。
「小森さん!」
思ったより大きい声が出て自分でも驚く。
びくりと肩を震わせ、小森は振り返った。その顔は完全に怯えていた。
「女神の仕事、行くの?」
僕の質問に、小森は首を横に振った。
「行く素振りだけ。ほんとはもう、したくないから」
また泣く!? と思った時、足元に揺れを感じた。
「出柯杉だ!」
僕は走り出す。揺れの発生源へ。
さらに深く森を分け行った場所で、出柯杉が土の下から根を出し「歩行」を始めていた。
後ろで、息を飲む音が聞こえた。小森が青ざめた顔で立っている。
「斧持ってる!? 僕の!」
小森は首を振りながら、肩に掛けていたトートバッグをごそごそやる。
「これしか……」
その手には、金の斧と銀の斧。きこりの斧に比べたら強度は弱いし出柯杉に歯が立つかわからない。でも、やるしかない。
まだ若木であることが救いだった。僕は揺れる幹へと金の斧を打ち付ける。まずは斜めに。次第に水平に。半分まで届かず、金の斧が砕ける。銀の斧に持ち替え、今度は反対側から打ち付ける。
森に響く、土をえぐる出柯杉の根の音と、斧が幹を打つ音。やがて、幹がめりめりと軋み出す。細い緑の葉を揺らしながら、出柯杉は土の上へと倒れ伏す。根が動きを止めたのを確認し、伐採完了。
「出柯杉って、成長し過ぎると危険なんだ」
僕は息を整えてから、尻もちをついている小森に言った。
「だからその、僕が切らなきゃいけないし、斧が、必要なんだ」
「そんな怖い仕事、嫌じゃないの?」
真っ直ぐに聞き返されてたじろぐ。
「そりゃ怖いけど、でも、僕にできそうなことは、これしかないんだ。勉強とか運動とか、ほんとダメだし、なにもかも、自信なくて、だから受け継いだこれだけは……」
「……そうなんだ。いいな。私はこんな、人を騙すような仕事、受け継ぎたくなかった。誇りなんて持てない」
小森は女神っぽい白いスカートをぎゅっと握り、俯いて暗い顔をする。そう言えば、この話をする時はずっとこの顔だ。どうしてだろう。学校では違うのに。
「でも、小森さんは学校では僕みたいな悩みないでしょ? いつも楽しそうだし」
あぁバカ。影からこっそり見てたことがばれてしまうだろ。
「……束林くんがきこりだって、ほんとは前から知ってた。それで私、勝手に束林くんに期待してたの。受け継がなきゃいけないものがある重さとか辛さとか、束林くんならわかってくれるんじゃないかって。でも違った。束林くんはちゃんと、きこりの仕事に誇りを持ってるんだね」
小森はふわっと顔を上げた。柔らかく髪が揺れる。
「斧、明日学校に持っていくね」
水辺に咲く花みたいに、めちゃくちゃ可愛い笑顔だった。
でもそれは、僕を苦しい気持ちにさせた。心は笑っていないことが、僕にもわかる笑顔だったから。
◇
翌日、小森は学校に来なかった。次の日も次の日も来なかった。僕は気が気じゃなかった。僕の斧のことも、小森のことも、心配で。
三日目にようやく三組の教室に小森を見つけた時、僕は思わず駆け寄ってしまった。
僕の心配をよそに、小森は陽だまりのように笑った。
「外でね」
校舎裏で、僕は小森から斧を受け取った。無事に返ってきたそれに心底ほっとし、長い溜め息が出た。
「うちね、女神、廃業することになったの。これからは私、普通にバイトして家計を助けるよ」
それから、カフェがいいか、本屋がいいかとあれこれ並べる。綿菓子でもつまむみたいに、楽しげに。
僕はその、小森の笑顔を可愛いと思う。やっぱり、他の子とは違う。
そう言えば、学校一だなんて、誰が言ったんだっけ。わからないけど、小森はやっぱり、学校一の美少女だ。
でも、今は──。
「笑いたくない時は、笑わなくていいと思うよ」
僕の声に、小森は静かになる。溜息にも満たない息を吐いたと思うと、ぽろりぽろりと零し始めた。涙を。次から次へと。
「お母さんを悲しませちゃった……」
すぐ泣く! 困った。
きっとこういう弱い所を隠すために、学校ではいつも笑っているんだ。だからその笑顔は控え目で、誰よりも透明なんだ。今にも消えそうなくらい。
僕は小森にかける言葉を慌てて探す。でももう小森は、きこりに斧を差し出す女神ではない。ただの小森瑞菜だ。僕に、何ができる?
頭の中に浮かぶ、僕の目の前に現れた女神姿の小森。
金の斧、銀の斧、カレー鍋。とにかく今の、僕の気持ちを──。
「みっ、三日間煮込んだカレー、僕も美味しくいただきたい!」
え? と小森が顔を上げた時だった。
地響き。と同時に、轟音。と同時に、降り掛かる土。
驚くよりも前に、出柯杉の根が目の前を掠める。
この三日間、僕はまったく出柯杉を切らなかった。たった三日。それだけで、こんなに。
考えるより動け。僕はさっき小森から返してもらったばかりの斧を握る。しっくりくる。やっぱりこれだ。
出柯杉は暴れる。歩行の段階は飛び越え、一気に跳躍と馳駆にまで達したようだ。木をなぎ倒し、土を蹴散らし、校舎の窓ガラスを粉々に割る。
僕は眼前に迫る根を叩き切る。校舎側へと踏み込んで来る根をすべて断たなくちゃいけない。進路を逸らさないと、学校がやばい。しかし、追いつかない。
「束林くん……!」
小森の声が、上から聞こえた。見上げると、小森が浮かんでいる。根の先に制服が引っかかった? 特別な意思もない、ただの乱暴な動きで、根は小森をひっかけたままさらに暴走する。
僕は何か叫んだと思う。そして手当り次第に根を切った。出柯杉は微妙な方向転換をし、東南東の森へと根を向ける。それを追って、僕も森へ分け入る。
息の根を止めるには、幹の伐採以外にない。でも根が邪魔してまったく届かない。
頭上から小森の声がする。叫ぶような声。また泣いてるんだきっと。
もう泣かないでほしい。ずっと笑っていてほしい。僕にできることは──
眼前に舞う木屑を払いのけ、強く地を蹴って根を踏む。弾き返される前に、次の根へ移る。腕は使うな、脚だけで。邪魔な根をぶった切りながら、奴の核心へと飛ぶ。
僕の血の中を走る、僕へと繋がるきこりの魂。
もっと、もっと──
僕に力を!
「おらぁぁあああ!!!」
ただ真横に一直線。幹はすぱんと切れた。
出柯杉は一瞬飛び上がると、すぐに地面にその巨体を打ち付けた。
「ひっ、ひゃああああ!」
落下していく小森を追いかける。その着地点には空が落ちている。違う、水だ。空を映した池だ。
水しぶきを上げ、小森の体は池に落ちた。迷わず僕も後を追う。つまり、池に飛び込んだ。きこりは代々泳げないのに。
透明な水の中、気泡が太陽の光を反射して、沈んでいく小森の後方からぽこぽこと登ってくる。小森のスカートがゆたゆた揺れている。
小森を呼ぶ。でもすべて泡になって消える。
手を伸ばす。遠い。それでも、手を伸ばす。
僕は、きこりである前に束林蒼平なんだ。
そして僕には、女神じゃなくなったって、小森瑞菜が必要だ。
ふわりと、小森の体が反転する。僕が伸ばした手に、小森の手が伸びる。しっかり握り締めた感触。するりと近付く、小森の顔。笑っている。
僕の手を引くようにして、小森の体がのぼっていく。光の射す水面へ。まるで尾ひれの長い、美しい魚のように。
そうだ。小森には、池の女神の血が流れているんだった。
酸素のある場所へ出る。僕は鼻が痛い。
一方の小森は涼しい顔で、濡れた髪を耳にかけた。
「三日間煮込んだカレー、節約バージョンだからお肉ないんだけど、それでもいいかな」
伏せた睫毛の先で水滴が光る。それから返事を待つように、小森はそっと僕を見た。
「めっ、女神!」
──きこりは代々、女神を前にしたら叫ぶ。きこりにとっての女神とは、代々そういうものだからだ。
そして今僕の目に映る小森は、女神以上の、なんかすごい、すごい可愛い女の子だった。
手を繋いだままなのは、気付いていないふりをしよう。
了
学校一の美少女が金の斧か銀の斧か聞くやつで生計を立てていたんだが? 古川 @Mckinney
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