本番当日

哲さんは、本番の三日前から練習に参加した。五日前からと言い続けていたタカシは、その変更にかなり苛立っていたが、実際に参加した哲さんの様子を見て反応が一転した。

「あの人、誰?」

タカシは、恭介に聞いた。

「舞台でもやってるの?」

確かに哲さんは誰が見ても、舞台にしっくりと馴染んでいた。フォークギターをまるで子供でも抱くように抱え、思うままに舞台の様子にあわせて演奏をし、思うままに演奏を止めた。時に興味深く舞台の上を見つめ、時にまったく関与せず、サイドテーブルのグラスでウイスキーを口に運んだ。

あまりの存在感に、恭介は何度か舞台の役者に「意識をしないで」と言わなければいけなかったぐらいだ。そして、そうしたやりとりも回数を重ねるごとに違和感が無くなっていった。役者たちも意識をしない程度に哲さんのギターに耳を傾けるようになり、その具合が行き過ぎない程度になったところで明日が本番という日になっていた。

「さあ、いよいよだね。」

恭介が言うと、

「そう気負うなよ、」

タカシが言う。

「うまく行くから。」

「そうそう、演出家の仕事はもう終わりさ。」

「まかせるしか、ねえもんなー。」

虚弱と小柄が笑い掛ける。

「さあ、みんな輪になって!」初恵がそう言って、哲さんの手を引いて全員を『ライム・ライト』のフロアに集める。

「いい?円陣やるわよ!」みんなでくすくすと子供のような笑いがこみ上げてくる。

「待って、待って。何て言うの?」

「え?そうね、『チーム恭介』でいいんじゃない?」

肩を組んでフロアの木目を眺めながら、みんながくすくすと笑っていた。

「いい?『チーム恭介、ううううわぁ』よ。いい?」

くすくすと、笑っていた。


「チーム恭介!」


「ううううううぅわわあぁぁっ!!!」



 当日、恭介は三時間ほど前にバーに着いていた。マスターは「早くない?」とコーヒーを出してくれた。すでに二組ぐらいの客がおり、開演まで彼らはいるのかなと恭介は考えていた。クラスの知り合いに三枚が売れ、貼り出していたポスターを見たと言って当日引き渡しで五枚の予約が入った。残りのチケットはタカシたちが捌いてくれることになっていた。どのくらいの人が、本当に来てくれるのか。念の為に十枚ほどの当日券は準備していたが、もしかしたら・・・誰も来ないんじゃないか、という思いは拭えなかった。

 恭介は、オープニングとエンディングの音楽が入ったCDを手元に準備しながら、コーヒーを何杯もおかわりした。それから何度も文庫本を取り出しては、トイレに席を立った。二時間ほど前になると、タカシと役者たちが着き始め、「ちょっと声出しに行ってくる」と店を出たり入ったりを始めていた。開演の一時間前になると、タカシの演劇仲間がやって来てバーがにぎやかになった。「そろそろ?」と初恵が言って、小道具の準備やテーブルのセッティングを始めた。入口を入ってすぐのところにスタンドのテーブルを準備して、チケットカウンターを作った。恭介は準備していたCDを掛けて、音量とトラックをリモートで調整した。


 開演まで三〇分の時点で、その場にいたお客さんに声を掛け、チケットの確認と腕に紙のバンドを巻く作業を始めた。それを見せてもらえば、指定銘柄の生ビールが飲み放題との説明を行った。恭介は詩織の姿を探したが、まだ来ていないようだった。


開演まで、残り二〇分。舞台と客席の準備が整い、役者たちは衣装に着替え、チケット係りの初恵と恭介を残して店の外に姿を消した。哲さんは、まだ来ていなかった。


開演まで、一五分。詩織が店にやって着た。これまで見た記憶の無い柄のスカートを履いており「がんばってね」と恭介に声を掛けた。


開演まで、残り一〇分。哲さんが到着した。衣装のまま、黒い帽子を被っていた。



開演まで・・・八分。

恭介は、目を大きく開けていないと前が見えない気になっていた。

 

 

開演まで・・・五分。

恭介は、照明を調節できる入り口付近に陣取り、客席側の照明の照度を落とす。



開演まで・・・三分。

観客は、準備された観覧エリアに落ち着いた。店の扉が閉じられる。

恭介は、舞台側の照明を上げ、客席側の照明を更に落とす。




開演まで・・・一分。

ゆっくりと・・・

恭介は、オープニングの曲の音量を上げた。




そして時間となり、


僕らの世界が動き始める。



暗闇が静けさを連れて辺りを包み・・・


始まりの予感が、その場にいた誰しもの心に訪れた。




暗闇の中で、かちりという金属音が扉の鍵を開ける。ノブを回す音がして、外の明かりが室内に漏れ、小柄の男が店の中に足を踏み入れる。ぱちりという音がして、店内に明かりが灯り、ビニール袋を手に持った男は、ゆっくりと扉を閉じる。


ポロン・・・と楽器の鳴る音が聞こえ、ふと見ると、ギターを持った黒い帽子の男が揺り椅子に腰掛けていた。ビニール袋を持った男は、帽子の男には気も留めずにバー・カウンターの後ろまで歩き、ビニール袋を置く。そして、いつもの開店準備を始めた。



 恭介は、タカシがいつもの調子で舞台に上がってセリフを始めるまで、生きた心地では無かった。観客は静まり返っており、彼らがどんな表情で舞台を見つめているのかが怖くて見ることができなかった。けれども、その静けさの中には独特の張りつめた感覚が混じっており、恭介は観客が興味深く舞台を見つめていることは感じていた。時折り、思いもよらぬ箇所で押し殺したような笑いが起き、それがどのような理由で起きたのかを知るのがやはり怖かった。

 役者の台詞のやり取りにリズムが出始めると、笑いは時に大きく起こり、それは恭介を安心させた。嫌われていないのだと感じることができ、救われた気がした。舞台の役者たちも同様に感じているようで、そんな笑いの瞬間を次の間に繋げて、観客との見えないやり取りを楽しんでいるようにも思えた。

 役者の心は、観客を意識した次にはそこの世界に戻り、純粋に瞬間を生きる。その純朴な反応が、観ているものの気持ちを安心させて世界を楽しむ余裕を与えてくれた。恭介は、場が間延びすることを気にかけて、次はあのシーン、次はあの台詞と考えてしまっていたものの、観客の反応を見る限りさほど悪くはないのかなと思い直していた。

 哲さんは、そんなときに限り、客に聞こえる音でメロディーでもない旋律を奏でていた。ずっと哲さんを見ているだけで舞台が成立しているようにも思え、まるで他の役者がバックグラウンドで演じているのではと思える瞬間もあった。

 

そうしている間に、一幕の終わりが近づいていた。


 暗転の後に、新しい幕が始まった。時間設定も天候も一幕とはうって変わった内容に、役者達は時間をかけて新しい世界を造り上げていく。言葉と言葉の掛け合いの中、一幕のそれとは違う「感じる間」が生まれ、そうした言葉により役たちの関係性も変わっていく。

 恭介は、二幕が順調に流れ始めた時点から、あれこれと舞台のことを考えることを止めた。純粋に今観ている瞬間を楽しみ、どうしてこの場所に辿り着いたのかということを不思議に考えていた。タカシに初めて教室で声を掛けられたときのことを思い出し、自分の髪型をかっこいいと言っていた時の表情を思い出して吹き出しそうになる。


「何もしてないんだよ。」


 恭介がそう言っても信じてもらえなかった。パーマもあててないし、染めてもいない。


「嘘だろ?」

「天然だよ」


 大学に入ってすぐの時は、教室の雰囲気から、周りの人の雰囲気から、どう自分が合わせていいのかが解らずに圧倒されていた。どう合わせても周りに合うようにも思えず、居心地の悪さだけを感じていた。授業の内容を理解しようとして、その内容がどう自分のこれからと繋がっているのかが、まったく想像できなかった。

 これから、自分がどんな人間になりたいのか、どんな時間を過ごして生活をしていくのか、そんな自分なりの答えを見つける前に、自分にはこれが相当なのだろうと・・・『答え』と思えるもの、思い込めるものを自分にあてがっていただけなのかもしれない。

 そもそも『答え』ってなんだ?そんなものが、自分に必要なのだろうか?なにかしらの思い込みでしかないのであれば、それはなんだっていい。自分が向き合っているという事実と、そこから何かを学ぼうとする問いかけさえあえば・・・。やるべきことと、向かうべき場所。それを辿ることが、次へと繋がるきっかけになる。果たされる思いひとつひとつは小さくとも、それが後ろ盾となり、きっと・・・繋がるのだろう。


 恭介が気付いた時、舞台では二幕の終わりが近付いていた。


タカシと小柄の男が、短い台詞のやり取りをする。

そして、舞台に静寂の間が訪れた。


「タカシ」


恭介は、壁際の客席側から声を掛けた。そして、ゆっくりと暗闇から光の中に歩みを進める。客席からの突然の声に観客は振り向き、恭介を見つめる。恭介は、一歩一歩を踏み締めるように歩みを進め、テーブルを横切り、タカシの横のバー・カウンターの席に座った。小柄の男は、しばらく目をひん剥いたように恭介のことを見つめていたが、それが芝居だと解ると無言で恭介にウイスキーをロックで作り、差し出した。


タカシ 待ってたよ。

恭介 あぁ

タカシ 子供の頃から、ずっとお前が来るのを待ってた。

ボーイスカウトに入っててさ、よくキャンプをやったんだ。ボーイスカウトってのはさ、知ってるか?一番の盛り上がりは、夜なのよ。夜になって、飯食って、わいわいやってさ・・・最後は焚き火をやるんだよな。

恭介    あぁ

タカシ そんときはさ、あたりは真っ暗になって、そこにある木のすぐ向こうなんかは真っ暗。何にも見えないのよ。

   ほんとに見えない。真っ暗。みんな焚き火の火を見るんだけど、俺はさ、なぜかその真っ暗をずっと見るんだよな。

   初めはさ、怖いからじゃないかって思ってた。けど、どうやら違うみたいなんだ。だってさ、みんなと同じように火を見ようと思って見てても、気が付いたらまた見てんのよ。俺だけ、その真っ暗を。

   そん時に、気付いたのよ。それは、俺が「見られてる」から、見ようとしてるんだってさ・・・。

   真っ暗で見えないだけでさ。見てるんだよ、こっちを。

   どんなやつが見てるんだろうって思ってさ、じっと見てたよ。どんな怖い顔したやつがいるんだろうって思って、見るんだけど。見れば見るほど、何となく、悪いやつでも怖いやつでも無さそうで・・・そりゃな、こっちが睨んでるときは睨むし、かかってこいよって身構えれば身構えてそうにも思えるし・・・でもよ、じっとその真っ暗を見れば見るほど、自分みたいに思えてくるんだよな。何か、真っ白な自分によく似た誰かが、今にも「よう」って出てきそうでさ。

   待ってたんだよ。

恭介    俺をか?

タカシ そう、お前を。


タカシは「そろそろ行こうか」と言って、マスターに支払いを促した。マスターは「やっと行くんですか?」なんて言って、「なに、もう来ないよ?」「いえいえ、また来て下さい。ぜひ」なんてやり取りをタカシとやっていた。タカシは、ゆっくりと扉に向かって歩き出し、扉の前で立ち止まった。


ドアのノブを回し、扉を開け、外に出る。簡単なことだが、タカシは戸惑っていた。なにをもたもたとしているのだろうと、恭介は思い、その時にタカシの身体が小刻みに震えているのが分かった。何をと一瞬思ったときに、哲さんがとても小さな音で不規則なカッティングを始めた。その時に恭介は一幕のことを思い出し、「あっ」と思った瞬間、タカシが振り向いた。

タカシは今にも泣き出しそうな顔をして、それから無理矢理に笑った。それから、ドアのノブを回し、扉を開け、外に出る。とても簡単なことで、僕らはその場を立ち去った。恭介は、ゆっくりとライム・ライトのドアを閉じた。


振り返るとそこには仲間たちの笑顔があった。恭介は、たまらず「声を出さずに」思いっきり仲間たちに抱きついた。みんなで「声を出さずに」散々抱き合った後で、タカシが恭介の肩を叩いてドアの向こうを指差した。みなでドアの隙間から客席に見切れない場所まで移動して、恭介はリモートで最後のエンディングのトラックを掛ける準備をした。小柄の役者が最後の演技をして、店内の電気を消して、扉をゆっくりと閉じた。


恭介は、1・2・3と間を取ってから、エンディングのトラックを回し、扉を開けて役者全員を舞台に戻した。すばやく照明を付けると、客席から溢れんばかりの拍手が舞台に戻る役者たちに注がれた。

タカシがすばやく哲さんを舞台に促して役者全員が横一列になる。順番に前に出て、礼をして、後ろに下がった。観客は、全員で一礼をする彼らに心温まる拍手を送ってくれた。それからタカシは、恭介も舞台へと促した。恭介は、観客の前に出て一礼をする。「恭介!」という声が客席から聞こえ、観客は一段と大きな拍手を送ってくれた。恭介は、詩織の姿を探した。詩織は目を細めてほっとした表情を浮かべており、恭介の視線に気付くと手を振ってそれに応えた。恭介は、詩織に手を振り返し、自然に笑みを浮かべていた。

「ありがとう」と恭介は思う。それは、誰に対してという思いでも無く、強いて言えばそこにいたすべての人に対する素直な思いだった。

そこからの景色は、とても明るかった。恭介は「これで、終わったのだ」という実感を覚えており、それは恭介の中で強く脳裏に焼き付いた景色の一つとなった。

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