長崎

その週のリハーサルが終わった次の日、恭介はネットで長崎市の『栞』という名前の定食屋を探した。しばらく時間は掛ったが、グルメ紹介サイトからそれらしい店と連絡先を入手した。恭介は、電話を掛けてみた。

 何度か呼び出し音がなってから

「はい、定食屋『栞』です。」という女性の声が聞こえた。

恭介は、詩織本人かとも思ったが、次のように言った。

「お忙しいところすみませんが、そちらに『・・詩織さん』という方はいらっしゃいますでしょうか?」

しばらく沈黙があってから、とがった声で

「どちらさまでしょうか?」

と聞き返す声が聞こえ、恭介はそこで自分の名前と詩織が同級生であることを伝えた。

「少しお話させて頂けませんでしょうか?」

詩織の母親(であろう女性)は、電話口を遠ざけて「詩織―。同級生言いよーよ。」と声を掛けているようだった。


 結局、詩織と電話で話すことは叶わなかった。お母さんは申し訳なさそうな声で、また夜に掛け直して欲しいと言ってくれた。恭介には、その電話口の近くに詩織がいるということがわかっただけで充分だった。

 恭介は、アパートで素早く身支度を整えると、東京駅に向かった。今から出れば、今日中に長崎に着け、明日中に東京に帰って来ればリハーサルには間に合うと考えていた。道すがらのコンビニで現金を下ろし、急な出費で残額が心細くなったものの「かまうものか」という気持ちで恭介は高揚していた。


 路線ナビで調べると、博多まで新幹線で行った後、博多から高速バスに乗った方が早く長崎に着けた。東京駅に着き、新幹線のチケットを買い、自由席の車両に乗り込んだ。

 新幹線の中では、なるべく冷静に振舞おうと思い、手提げカバンに入れてきた文庫本を取り出した。5ページほど読んで、座席から起き上がって窓の外を見る。その風景は、以前見たことがある景色に思えた。

 恭介は、また文庫本を開いた。そのときの気持ちを思い出してみて、恭介自身、身勝手だと感じない訳では無かった。詩織は多分驚くだろうし、もしかしたら気味悪がられるかもとも思った。唐突にという思いはあったが、不自然という思いは無かった。

 

 新幹線は夜になって博多に着いた。恭介は駅に着くとすぐに長崎行きのバス乗り場を探し、チケットを買ってバスに乗り込んだ。バスは、暗闇の中を滑るように走った。

2時間ほどでバスは長崎駅に到着した。駅付近のバス停で下ろされた恭介は、見知らぬ町に放り出されたような感覚を抱いた。ふわふわとした高揚感は消え去り、近くにあったベンチに腰掛け、スマホで長崎駅近辺のホテルを捜索して電話を掛けた。

 何件か電話を掛けて空いている部屋を確認したが、どのホテルでも満室であることを告げられた。最後のホテルではキャンセル待ちができると告げられて、名前と電話番号を伝え、恭介は取りあえず近くで食事を取ることにした。

 

開いていた居酒屋に入ると、明るい声で迎えられて安心した。店の雰囲気は恭介が知る場所と何ら変わらず、恭介は一品料理を幾つか注文した。それから少し迷って、生ビールを注文した。店員は、笑顔を見せると大声で厨房に注文を通し、すぐさまビールの準備を始めた。

久しぶりに飲むビールは、美味かった。こんな味だったかと思いながら、お通しをつまんでもう一口飲む。ビールは、不安に思っていた恭介の気を紛らわせた。酒が飲めなかった自分が別人であったように恭介には感じられていた。そうこうする間に料理がテーブルに広げられ、恭介はそうした料理を一口ずつ味わってビールで喉を洗った。

そうしたサイクルを繰り返す度に、テーブルの上が一つの世界のように感じられた。恭介が文庫本を取り出してそんなサイクルを彩ると、そこには居心地の良い完璧な空間が出来上がったようにさえ思えた。

こうした時間もあったのだと恭介は思った。そうして半時間ほど経った頃、恭介の電話が鳴った。ホテルからだった。キャンセルの確認が取れたので、部屋を予約しましたとのことだった。「いつ頃、チェックインされますか?」と尋ねられ、恭介は「20分ほどで行きます」と答えた。電話を切ってから、もう少しゆっくりでも良かったかと思ったが、時間通りに店を出て、駅近辺のホテルを探すことにした。


そのホテルはビジネスホテルだったが、ツインの部屋しか空いていないとのことで金額は思っていた以上になった。恭介はベッドの一つにバッグを置くと、カーテンから外の風景を見た。そう遠くない場所に駅のホームが見え、人影の見えなくなった光が冷たく景色を浮かべているように思えた。恭介はカーテンを閉めてベッドに横になると、目を閉じて今日一日を思い返してみた。その景色どれもが、ぐるぐると回るようにせわしく浮かんでは消え、どれもが遠い風景のように感じられた。いつの間にか、こんなところまで来てしまったと恭介は思った。



次の日に、チェックアウトの時間に合わせて恭介はホテルを出た。サイトで詩織の定食屋のアクセスを調べたが、駅からバスで30分ほど離れた場所だった。恭介は調べたバス停で、バスが来るのを待つことにした。

見知らぬ町での朝は、時間の経ち方が違うように思える。目に映る景色は、どれもフィルターに掛かったような色に見え、通り過ぎる人は誰もが映画の中の人のように思えた。恭介は、そんな人がどんな一日を送るのだろうと思った。想像をしてみて、そうした人たちもこの場所で生活を送っているのだと思い、そうした場所が自分の知らない世界で存在していたことに改めて驚き、「まるでおとぎの世界のようだ」と恭介は思う。

もしかしたら、自分は騙されているのでは無いかという思いがあった。恭介がこの場所に行くことになってから、どこかの誰かが急いでセットを組むようにこの場所を作り上げ、人を呼び集めたのかも知れないと思う。馬鹿げた想像とは思っても、恭介はもしそうであったとしても妙に納得してしまう自分がいるように思えていた。

バス停にバスが到着すると、恭介はそうした思いから逃れることができた。何人かの人と同じくバスに乗り、青地のシートに腰掛けると長崎の町並みを窓からじっと見つめた。駅前と繁華街には多くの人がおり、路面電車が独特の風景を彩っていた。

バスは大通りに沿って走って行き、賑やかな町という思いで景色を眺めていたが、しばらくすると車線も減って車の数も少なくなった。通りを歩く人もまばらになり、急に現れるバス停で車内の人も降り、まばらになった。恭介は、ふと、もしかしたら今見ている風景は何年も前のものでは無いかと思う。そう思ってから、恭介は、通りに以前の詩織の姿を探してみた。

 髪の長い詩織は制服を着て、通りを後ろ向きに歩いている。恭介は、もっと幼い詩織を探してみる。麦藁帽子を被り、ワンピースのスカートを履いた子供の詩織だ。懸命に走りながら、帽子を飛ばされないように両手でしっかりと押さえている。そうした想像の中で、詩織は、通りの景色に姿を浮かべては消えていった。

 

恭介は、降りる予定のバス停を2つほど前から数えて待ち、呼び鈴を押した。


 詩織の店は、山に向かって長い坂が伸びるその中腹の商店街にあった。藍色の暖簾に「栞」という名前が白字で書かれていた。恭介は、その暖簾をくぐって横開きの戸を開けた。

「いらっしゃいませ」

という声に迎えられ、テーブルが幾つも置かれた店の奥に恭介は詩織の姿を見つけた。詩織は、見せたことが無い余所行きの笑顔を浮かべていた。赤いバンダナに白いエプロンを着けた詩織は、恭介に気付くと「あっ」という表情を浮かべたが、すぐにテーブルの客の応対に気を向けた。恭介は空いていたテーブルに座り、しばらくして

「何をしてるのよ。」

そう目も合わさずにグラスの水を持ってきた詩織に

「こんにちは」と笑い掛ける。

「こんにちは、じゃないでしょ?何なのよ」

「詩織に会いたかったんだ。」

そう言って恭介は笑顔を浮かべた。とても素直に、うれしかった。

 そんな恭介につられるように詩織は恥ずかしそうな笑みを見せた。

「ちょっと待ってね。」

そう言って詩織は恭介にメニューを渡すと、店の奥に姿を消した。恭介はメニューを開きながら、せっかく長崎まで来たのだし、ちゃんぽんか皿うどんでも頼もうかと考えていた。

 次に詩織がテーブルに戻って来たときは、バンダナとエプロンを外していた。

「もう、びっくりした。」そう言いながら詩織が向かいの席に座った。

「驚いた?」

「そりゃあね。」

「来ちゃった。」恭介は、わざとおどけるように言った。

「来ちゃった、来ちゃったなの?」そう言って、詩織が嬉しそうに笑った。久しぶりに詩織に会って、恭介は自分の世界が音を立てて広がっていくのを感じていた。

「皿うどんを頼もうと思うんだけど。」

そう恭介が言うと

「食べるの?」と詩織が言って

「ちゃんぽんにすれば?」とメニューを訂正してくれた。


 昼時の忙しそうな時間だったけれど、食事を終えた後で詩織の両親は詩織に店を抜けるように計らってくれた。恭介は、詩織のお母さんに簡単なご挨拶をして、お父さんは厨房にいるとのことで会いは出来なかった。

「田舎でしょ?」

そう詩織は言った。

「駅の方まで行けば色んなものもあるんだけど、この辺は変わらないの。」

店を出て通りを渡り、山沿いの坂を上っていた。

「この先に公園があるのよ。」と詩織は恭介を案内してくれた。住宅の間に造られた、細い鉄の手すりが付けられた階段を上っていく。

「こっちに来ると、ずっとバスと歩きよ。」

恭介は、階段を上っている間に息が切れてきた。詩織の言っていた公園は、それからしばらく住宅の通りを歩いた先にあった。

「この階段の上が、そう。」

「まだあるの?」

「階段公園って言うの」

詩織は恭介を置いて、ひょいひょいと階段を上がっていく。景色は上に上がるごとに晴れていった。階段の両側の山肌に松が生えており、しばらく階段を上がると周りの住宅の屋根が下に見えるようになっていった。

 詩織は階段の上でこちらを振り返り、恭介を見て笑い、それから視線を上げて景色を眺めていた。恭介が一番上まで来ると

「きれいでしょ」

そう言って詩織が後ろの景色を指差した。恭介は振り向いて、そこからの景色に目をやった。眼下に長崎の町と海が拡がっていた。

「夜もきれいなのよ。」

そう言って、詩織は階段の先の広場を歩き始めた。周りを安全柵で囲んだような空間に、幾つかの遊具とベンチが置かれていた。詩織はベンチに腰掛けて、公園を眺めていた。恭介は、息を整えながらその隣に腰かけた。

「いつ帰るの?」そう詩織は聞いた。

「今日の午後には出るよ」

「ずいぶん急なのね」

「リハーサルがあるんだ。」

「そう」

しばらく詩織と恭介は、公園のなかをぐるぐると回る風を眺めていた。

「最後のところ、ひどいでしょ?」そう詩織は言った。

「最後?」

「脚本よ。どうしても、まとまらなかったの」

恭介は「あぁ、」とだけ言って黙っていた。

「ごめんね。やつあたりするような真似をして」

「いやいや、こっちも詩織の気持ちも考えずに悪かったと思ってる。」

そう恭介は言った。

「色んなことで頭が一杯になって、見えなくなっていたんだと思う。」

詩織は黙っていた。

「台本を書いてくれて、ありがとう。それが言いたくて、ここまで来たんだ。」

恭介は、自分の思いを探るように下を向いて言葉を整えていた。

「詩織がいなくなって、寂しかった。」

色んな思いがあったが、言葉に出来たのはそれだけだった。

「来週の日曜日が公演なんだ。これ、チケット。」

そう言って恭介はバッグからチケットとチラシを取り出して渡した。

「へえー、凄いじゃん。次の日曜?」

「今週、というか来週、というか・・・そう。次の日曜日」

「わかった」と詩織は言った。

「見に行くわね。」と、詩織は言った。


 それから詩織は駅まで恭介を見送ってくれた。話したいこともいっぱいあったのだけど、それでもいざ面と向かうとどう話していいかが解らなくなった。まだ時間はあったのだけど、市内観光をする気にもならず「もう帰るよ」と恭介は言った。詩織は「うん」と言って、どの電車に乗ればいいか、どこで新幹線の切符を買えばいいかを教えてくれた。

「おみやげぐらい買って行けば?」

詩織は駅の売店で美味しいというお菓子を紹介してくれた。

「『よりより』って言うの。」

恭介は缶コーヒーも一緒に買って、袋に入れてもらった。

 発車時間の5分ほど前になると電車がやってきて、

「じゃあね」

「うん。日曜日に」

それで恭介は電車に乗り込んだ。車窓のガラスを挟んで見ると、ホームのベンチに座って詩織はじっとこちらを見つめていた。恭介もシートに座り、詩織の目を見つめていた。まるで表情を動かさない詩織は、恭介のことが見えていないようにも思えた。恭介が詩織に手を振って、詩織が表情を崩して初めて見えているのだと解った。そうしている内に電車の扉が空気圧の音を立てて閉まり、ゆっくりと動き出した。恭介も詩織も、座ったままでお互いに手を振った。

車両が走り始め、詩織も見えなくなってしまうと恭介は、まるでこれで何かが終わってしまうような、もう会えなくなるような、そんな根拠の無い恐怖感に襲われた。博多までの到着時間のアナウンスが車内に流れ、恭介は外の風景を見つめながら「そんなはずは無い」と思い直した。その日の暗くなる頃に、恭介は東京に戻っていた。

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