リハーサル
不安ではあったものの、恭介はしんと張り詰めた緊張感のなかで自分の感覚が上手く雰囲気に馴染んでいるように感じていた。
「もう1テンポ間を取ってから、」
「そこは手元の動作に集中して」
「充分に気持ちを整えてからでいいよ」
始めはどう表現すれば伝わるかと思っていたことも、回数を重ねるごとに慣れていった。
「そう言っても、イメージしてから言葉にしてるから」
「思わず口にして、それからイメージが出たって感じかな」
「反射的に?」
「そうそう。反射的に」
「なるほどね」
台詞をひとつずつ固めることで、世界が清潔感を増していくように思えた。
「悪くないね」
タカシはそう言って恭介を励ましてくれた。
「思ったより注文が細かいから驚いたけど、」
ある程度のリズムをしっかりと作れば、あとは役者が演じてくれた。奇妙に思えた台詞のテンポもお互いに合わせることで思ってもいなかった仕上がりになることもあった。恭介は、そうした繰り返しの中で自分の気に入ったものを選んでいくだけでよかった。
「『石釜オーブン』のところは、視線を外して言ってくれないかな?」
「昨日は『目を見て言え』って言ってなかったか?」
時にぶつかることはあっても、
「うーん。そうだね、昨日までの僕は至らなかったということで」
いなすことも覚えながら
「とにかく、視線を外せばいいんだろ?」
「そういうことで・・・お願いします。」
時間を使うべき箇所を見極めることが、途中からの必要な作業になっていた。
地震の時のパントマイムは、特に時間が必要な作業だった。パントマイムと呼ぶべきかどうか、どう始めればいいか判らなかったので取りあえず複数で演じながら複数で観察するという作業から始めることにした。客観的に自分たちがどう見えているのかと知ることで、どういう動きが不自然に映り、どういった動作がリアルに見えたかが皆の知識として累積させることが出来た。
後で気付いたこととして、すべての瞬間をリアルに表現しようとしないこと、長引いた時間を作らないこと、要所の動作に決め事を設けて的確に再現すること・・・最終的にはダンスのようにコマ送りにして動きを決めて全員で演じる箇所、そうで無い箇所は極力普段通りの動作と心理描写に徹することにした。
「彼女は帰ってきた?」
「まだ、連絡も取れない。」
もう1週間ほど経っていた。
「携帯は?」
「つながらない」
「メールは?」
恭介は、詩織がここまで帰ってこないとは思っていなかった。
「メールだと、正直なんて言っていいか分かんないんだよ。」
「ごめんって言えばいいじゃん」
「ごめんったって、まあ、そうだけど。」
返事が返ってこないことが怖かった。
リハーサルは順調に進んでいた。来週、二幕の動きを付けて、最後の週は繰り返すだけだった。
「ツエはどう思う?」
「ひどいと思う。怒鳴ったんでしょ?何て言ったの」
プライベートなとこに関しては、恭介は多少混乱していた。
「けんか売ってんのかって・・・」
「こわー」
リハーサルが上手く行っている分、それが終わってからの時間が長く思えていた。
「そう見えへんけど、亭主関白なんやね。」
「関白宣言!」
虚弱の男が、手で動きを加えて表現をする。
「古い古い」
「関白宣言!」
恭介も、同じように動作を加えてまねをする。
「もじゃ、おもしろい」
朝方にアパートに帰り、恭介はアイスティーを作ってテレビを点けた。早めの朝の情報番組がやっており、普段見ない番組も最近はよく見るようになっていた。お天気のコーナーが終われば、占いがあると思いながら、恭介はそろそろアパートの家賃を納めないと、と考えていた。
シャワーを浴びてから小物入れの引き出しを開け、大事なものはこの辺りに集めてあるはずという思いで家賃の支払い通帳を探した。元々は詩織が契約していたアパートで、普段は恭介が支払いの半分を詩織に渡していた。
「銀行振り込みにすればいいのに」そう言った事もあった。
「月に一回しか会わないんだし、コミュニケーションの一環よ。」
詩織はそう言って、毎月不動産屋に手渡しするようにしていた。
昼過ぎまで寝て、恭介は駅前の不動産屋まで行った。その不動産屋は駅の反対側にあり、恭介はそちらの方角にはほとんど行ったことが無かった。
「ごめんください」
そう言って恭介は、カラカラと鳴る引き戸を開けた。事務所にはテレビと電気が点いていたが、誰もいなかった。白いレースのカバーが掛けられた古い応接セットがあり、ねずみ色のスチールデスクの上にはコピー用紙の書類が重ねてあった。
「はいはい、ごめんね」
そう言って奥から出てきたのは初老のおばさんで、
「はい、どうしました?」
そう恭介を覗き込む顔からは「初めて見る顔だ」という思いがありありと伝わってきた。
「家賃を納めに来たんですけれど。」
恭介が言うと
「そうですか。それは、ありがとうございます。」
おばさんが、「ごくろうさまだねー」と笑顔を振りまいた。
恭介が通帳を渡すと
「はいはい、・・さんだね」と詩織の苗字を言って、最後に判子を押してあるページを開いた。恭介が金額を渡すと、一枚ずつしっかりと見せるように数えて「確かに」と言って判子と来月の数字を記入した。
恭介は、詩織と二人で住んでいることを何か言われるかと思っていたが、
「銀行振り込みでもいいのにね。いつも、ありがとうね。」
笑顔で通帳を返してくれるおばさんを見て「まあ、問題無いんだろうな」と感じていた。
来月分の家賃を払ってしまうと、詩織がいないことの実感が湧いてきた。それまでは外で済ましていた食事も、少しは自分で作った方がと思って食料品を買ってきた。その夜は、冷凍の餃子をフライパンで焼き、ご飯とインスタントの味噌汁で済ませた。意外にしっかりとした食事ができ、恭介は「やればできるものだな」と少しの満足感を覚えたのだった。
季節が夏だということが恨めしく思えた。一日の何気ない時に、自分は独りなのだという思いは去来した。それはテレビを見て笑った瞬間だったり、駅で定期入れをポケットから出す瞬間だったりした。そんな思いをする度に、恭介は胸の奥がぎゅっと小さくなる感覚を抱いた。その感覚は、すうっと身体から熱が引いていく感覚で、恭介はしっかり意識をしようとするのだけれど、外気温から来る気だるさがその感覚をぼやけさせてしまう。
そんな毎日のなかで、舞台に集中できる時間は恭介にとって何かしら『正しいことをやっている時間』と感じることができた。リハーサルが始まる数時間ほど前から感じていた霞にかかったようなものが、舞台の仲間に会った瞬間から晴れていくのを感じていた。それは、まるで「よう」と暖簾を持ち上げるように、タカシたちが自分の世界に入ってくるような感覚だ。「始めるか」そう言って、何かしら自分の乗っている船が動き出すような感覚だ。
役者連中は、定刻になる半時間も前から床にヨガマットを敷いてストレッチを始めており、思い思いに台詞を口にしながらイメージを膨らませている。恭介はそうした様子を目にしながら、自分も『自分の仕事』を始めなくてはとお湯を沸かしてコーヒーを淹れ、ノートパッドを開いて舞台日誌を書き始める。書き始めはいつも、目の前で起きているそのままを描写することから始める。内容は気にせず、ありのままを書く。「虚弱の男が顎をマッサージしながら天井を見つめている」「ツエが歩きながら腰に手をやっている」「タカシは、いつも通り」そんな感じだ。
時間になったら、
「そろそろやろうか」
とタカシが言う。
「二幕の頭から、」
そう恭介が言う。
その日のリハーサルが終わってから、
「二幕の終わりだけどさ」
とタカシが話しかけてきた。
「どうする?」
恭介は、タカシの言っていることをよく解っていた。
詩織の書いた台本では、最後のシーンが取って付けたようになっており、男がカウンターに座っているときに女が店にやって来るという内容で終わっていた。
「そうだね」
と言いながら恭介は考えていた。
「別に登場だけでよければ、他の役者に声を掛けてもいいんだけどさ・・・。」
そう言うタカシに向かって、
「ここは、僕にまかせてもらえないかな?」
と恭介は言った。
「アイディアとしては、最後の五分は即興で終わる。」
タカシは黙っていた。
「どうだろう?」
「即興ったって最後のシーンだぜ?」
「わかってるよ。最後は、男がバーを出た後で終わりたい。マスターが簡単な片付けをして、電気を消して店を出る。」
タカシは、そのシーンを考えているようだった。
「最後は真っ暗にして、バタンと扉が閉じる。」
「それから、カーテンコールか?」
タカシは、しばらく考えているようだった。
「つまり、最後の五分は『男が店を出る』で終わる即興劇ってこと・・・。」
「大丈夫だよ。ちゃんときっかけは作るようにするから、タカシなら何の問題も無いんじゃない?」
タカシは笑って「簡単に言うなよ」と言いながら、それでも最後は「わかった」と言った。
恭介は、そのときに詩織に会わなければと、強く心に思った。
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