言い争い

「うるさいわね、」

詩織の吐き出した言葉は、恭介の妙な気持ちを高ぶらせた。

「なんだよ。その言い方」

恭介には自分が相手を怒らせることを言った覚えなど無く、何故そんなトーンになったのかが解らなかった。

「リハーサルをやったって言っただけだろ?」

「別に、聞いてない。聞きたくも無い。」

「そんな言い方って無いと、思わないか?」

「だから!うるさいって言ったの。」

詩織は、PCの画面を見たことも無い勢いで閉じた。

「聞こえなかった?」

自分の声が思っていた以上に響き、詩織は、きんとした耳鳴りを覚えながら『言わなきゃよかった』と思っていた。

「お前、けんか売ってんのか?」

恭介は、自分の感情がそんなに高ぶるものだとは思ってもいなかった。

 詩織は灰皿をつかんで吸殻ごと床にぶちまけると、PCとリュックを掴んでアパートを出て行った。恭介は寝起きで詩織を追いかけられる格好ではなかったし、床に散らばった灰を見ていると「あーあ、」と冷めた気持ちが広がるのを感じていた。それから、やはり火の気が気になって、吸殻を集めると掃除機をかけて、灰皿を流しで洗うのだった。


 なぜ、そうなったのか。恭介は、喫茶店で遅めの朝食を食べながら考えていた。覚えているのは、夢見心地のなかで強めに詩織に足を叩かれて「うるさい」と言われたことだ。何がうるさいのか、何をされたのかが解らず何回かそうして寝るのを諦めて起き上がった。「おはよう」と言っても、詩織はPCに向かったまま何も言わなかった。「朝起こされたから」そんな理由でけんかになったことが、恭介にはよく解らなかった。

 何の予定も無い半日を過ごすのは、意外に大変なことだった。夜にライム・ライトに行ってマスターとチケットの話をしようとは思っていたが、それまでの時間をどうすれば良いかが浮かばなかった。

昼寝屋みたいな場所があればいいのにと恭介は思う。何時までと伝えておいて、時間までゆっくりとハンモックに寝転がって時間を過ごす。空気清浄機で胸が透くような部屋の空気にラベンダーのアロマが軽くかかっている。そんな時間があってもいいなと思いながら、恭介は昼以降の時間をどうしようかと考えていた。

 

 マスターとの話は、短時間でまとまった。

「2500円だな。」

そうマスターは言った。

「飲み放題を付けるんなら、一番安い銘柄の生ビールを指定で」

「わかりました。その料金で行きます」

恭介は、とりあえず総数を40枚でチケットを発行することにした。

「そんなに入るのかい?」

「立ち見なら、もう少し入ると思いますけど。とりあえず40枚で」

そう言って恭介はマスターに10枚を預ける約束をした。

「もう少し預かろうか?」

そう言ったマスターに

「大丈夫です。残りはこちらで何とかします。」

恭介はそう応えて、アパートに帰ることにした。

 

詩織と顔を合わせたときに何と声を掛ければいいか、恭介はそのことを考えていた。「ごめん」と言えればいいのだけれど、何に対して謝っているのかが上手く理解できなかった。「乱暴な言葉遣いをして、ごめん」なのか、「君の気持ちを理解できなくて、ごめん」なのか・・・「取りあえず、よくわからなかったけど、ごめん」というのが一番しっくりと来たが、それならば「ごめんなさい」と言った方がいいような気もしていた。

 恭介がアパートに戻ると、部屋の電気は消えたままだった。「まだ帰っていないのか」と思いながらドアの鍵を開けて、恭介は部屋に入った。

違和感とでもいうのか、何かがいつもと違うと恭介は感じながらもバッグを降ろし、ベッドの上に腰掛けた。そのときに机の上に詩織の書いた脚本が置いてあるのに気がついた。「二幕」と大きく書かれた表紙の残りの台本だった。

 恭介は、詩織が戻ってくるのを待っていた。でもその日の深夜を回った頃になっても、詩織は戻らなかった。テレビを見ながら待っていたが、終電が無くなった頃になっても詩織は戻らず、恭介は近所を散歩したりもした。

散歩から戻ったときに、恭介は部屋の中のものが幾つか無くなっていることに気が付いた。クローゼットを開けると詩織が好んでよく着る服が消えており、大きな旅行バッグも無くなっていた。


 次の日にタカシに話をすると

「そりゃ、お前が悪いよ。」と言われた。

「なんで?」

「なんでって、彼女はお前に言われて、台本を書いてたんだろ?」

それからしばらくの間、

「それで、お前は彼女に何て言ったのよ?」

タカシと話をしていたが

「『まだ書けないのか』って言ったのか?」

その間に何と言われたのか、よく覚えていない。

「前にも言ったけど、お前って何なのよ?」

断片的にタカシの声は聞こえていたが、恭介は別のことを考えていた。

「もう少し、自分のことを考え直した方がいいんじゃないか?」


 周りが目に入らなくなることが、恭介にはあった。自分では、やるべきことに正面から向き合っているつもりでも、そのことで周りに傷つく人がいることを知っていた。そういうことは、いつも気付かないままに進んでいて、周りの人に教えられる場合が多い。

「あの人が、こう言ってたんだって」

そう聞かされたときに、恭介は軽い眩暈と一緒に、自分の知っている世界が歪んで見え始めるのだ。

自分の見えていた世界が、実際と違っていたという事実は、その世界そのもの存在が信じられなくなる瞬間でもあり、それは大きな風のように吹き始める。

 揺らいでいる世界では、すべてのものが冷たく棘を刺して恭介を通り過ぎていく。道を歩く際に聞こえたふとした言葉が、

「大体にして、甘いんだよね。考えが」

自分を責めているように聞こえ

「上手くいくとでも思ったのかな。」

冷静に状況を振り返ってみて、

「よくあるタイプだよね」

自分に発せられた言葉ではないと、言い聞かせるようにして歪みを調整しなくてはいけない。

 それは季節的なもので、秋の初めに訪れるものだと恭介は思っていた。

「見た目に因らないのね。」

詩織に話したときは、そう言われた。

「もじゃもじゃの頭で何も考えていなさそうなのに、」

その後で詩織は、恭介の頭を抱いて

「大丈夫よ」

ずっと長い間、そうしてくれた。


恭介は誰もいないアパートに戻り、詩織のことを思い出していた。いま何処にいるのだろうと思いながら、友達と一緒にいるのだろうかと考えていた。それからリハーサルのことを考え、どのように進めればいいかを考えていた。それから、もしかしたら実家に帰っているのかも知れないと思っていた。

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