準備はこれから
「ずいぶん小説と違うんだね」恭介は、もじゃもじゃの頭を掻きながら言った。
「セリフがあるから、会話の流れでそうなっちゃったのよ。どう、ダメ?」
詩織は覗きこむように、恭介に尋ねる。
「いや、いいんじゃない?」
「そう?」
「一幕ってあるけど、二幕があるの?」
「そう、雨が降ってるの。」
「雨ね・・・。」
外は、予感もさせないほど晴れ上がった朝だった。
恭介は詩織が食事を作っている間、もう一度初めから台本を読んだ。思っていた以上にすぐ読めてしまい、
「これでどれぐらいの時間なのかな?」と詩織に聞いてみた。詩織はちょうどフライパンでウインナーを炒めているところで、「え?」と聞き返す声が聞こえた。
「何か言ったの?」
恭介の傍まで来た詩織は、いつもにないくらい上機嫌だった。
「だから、これを実際にやったらどれくらいかかるかなって言ったの。」
「それは、わからない・・・30分ぐらい?」
「読んだら10分もかかんないよ」
「そうよね、やっぱりわかんない。」
恭介は、詩織が時間のことも考えずに書いたのかと不思議に思いつつ、タカシに聞いてみようと考えていた。
午前中の授業が無かった為か、恭介はいつもより落ち着いた気持ちになれていた。通り過ぎる人の表情がよく目に入り、そうした人たちの午後を想像することができた。からからと音が鳴りそうな空が肌に熱を落として、それは強烈ではあったけれど優しさが感じられた。
「たまらないな・・・」
そう恭介は見上げると空に浮く大きな雲を見つめた。普段は気にもしない雲の動きが生き物のように思え、それが何かを自分に伝えようとしているように感じられた。
白い城壁に思えた雲は、形を変えて象のおしりになり、それはもこもこと、大きく口を開けたクジラのようにも思える。
この空は、どこからも見える景色であり、広い海の上でも同じ雲を見上げている人がいるかと思うと、その人にも「気を付けろよ」と声を掛けたくなった。
「何に気を付けんのさ、」
「日焼けだよ。じりじりと気が付く前に焼かれちゃうから」
恭介は何年か前に海に行ったことを思い出した。ほんのすぐだからと思って、日焼け止めも塗らずに数時間ほど外にいただけだったのに・・・。首筋と腕、チノパンから出ていた足の部分がひりひりと夜になって見事に腫れ上がった。
何日も寝れないくらいにひどかったから、今思い出しても「あのときは辛かった」という思いはある。確かに、辛かったという思いはあるのだけれど、あの時に感じた痛みまでは思い出せない。辛いという思いだけで、痛みは伴わない。ふとすれば、よい思い出だったようにすら感じる・・・。
もう10時を過ぎた時間なのに、電車には不思議と人が多かった。これから出張なのか、スーツを着た人もいて、赤ちゃんを腕に抱いた若い女性もいた。動き出した車両から外を覗くと、ビルに付いた看板をいくつか通り過ぎたところで縁石に蔦が這う景色に変わり、緑が増えた風景になる。
進んでいく車両に身体を預けると、安らいだ気持ちになる。これから向かう場所へと意味も無く力んでいたのか、ふうっと身体から力を抜くと自分が運ばれているという意識に変わった。力を入れていようといまいと、自分が乗っている車両は動いており、これからの場所に僕らを連れ出していく。
その場所に着いたなら、降りたくないと泣きついたところで蹴り出されるように、どのみち外に出なくてはいけない。やらなければいけないことは、気づく前に姿をみせている。誰もがそうした車両に乗り込み、思い思いの場所で降りていくのだ。そこにあるものが望んだ姿だとも限らず、かといって誰も強要する訳でもない。望むのであれば、やらなければいけないことを目の前に、立ち止まっていたっていい。立ち去ったって・・・そうすることだって出来る。
そこには単純に、向かうべき場所とやるべきことがあり、その存在は果たされることで完結するような「思い」でしか無い。
けれども、その、残された思いはどうなるのだろう。その場所で「僕に出会うだけの為に」存在していた思いは、立ち去った後に残され悔やむことしかできず、怒りと哀しみだけで己を染めてしまう。僕が、そうしたやるべきことを残して立ち去るとすれば、そうした冷たい感情しか持たない思いは、思念そのものの質さえも変えて、影のような念となって、僕のことを後から探して回るのだろう。きっと、ずっと後から探して回るのだろう・・・。
恭介が気付いたとき、そこは降りるべき場所の駅で、真四角に切り取られた景色が目の前に広がっていた。恭介は本能的に飛び起きて、ドアが閉じる前にホームへと降り立っていた。
「20‐25分」
そうタカシは言った。
「まあ・・・どの程度、間を取るかで変わってくるだろうな。」
「二幕もあるって言ってた。」
「じゃあ、単純に考えて40‐45分。」
「1時間弱」
「いいんじゃない?」
タカシは胸ポケットの煙草を探り、
「休憩入れないで1回で終われる長さだよ。」
視線を上に向けてそう言った。
「それにしても役者だな、問題は。マイムをやらなきゃいけない箇所もあるし、ただ勢いとテンポだけじゃ繋がらない。」
「タカシも演じるんだろ?」
タカシは、恭介の目を見た。
「演出はお前だろ。お前が決めるんだぜ?」
恭介は、徐々に動悸が高鳴るのを感じていた。
「何人か声を掛けるよ。やりたいと言うやつもいるんじゃないかな。公演は、いつ頃?」
「夏が終わる前にやりたい。」
タカシは煙草に火を付けた。
「セリフもそんなに時間は掛からないだろうけど、それでも3週間は欲しいね。」
「練習はライム・ライトで出来ないか聞いてみるよ。多分、閉店後。」
「それって何時?」
「平日は0:00以降、週末は2:00以降。」
「ハードだね・・・毎日は、出来ないよな。まあ、でも週末中心に始発まで時間を取ったとして、3時間。週に3回のリハーサルを3週間か・・・。」
タカシは立ち上がってアイスコーヒーのお代わりをもらいに行った。
単純に逆算をすると、1週間ほどで始めてなければいけないことになる。
「小道具も難しくは無いね。」タカシは席に戻るとすぐに台本を開いて確認を始めた。
「ギターを弾けるやつが要るんだよな・・・。簡単に書いてあるけど、ハードル高くない?」
「それは、僕にまかせてよ。」
恭介が「心当たりがあるんだ」と言った。
哲さんがバンドマンだったことは、聞いたことがあった。
「誰に聞いたの?」
心外、というような声で哲さんは言った。
「前にマスターが『哲也はギターを弾くから』みたいことを言ってた気がしたもので・・・。」
「そうなの?マスターが言ったの?」
哲さんは驚いたような表情を見せた。
「別に隠してるって訳でも無いんだけど、めんどくさいじゃない?そういうのって。」
「いまもライブとか、やってるんですか?」
「いや、だから。そういうのが・・・めんどくさいのよ、ほんと。」
哲さんは、束ねた髪を片手で梳かしてそう言った。
それでも、取りあえず読むだけでもとお願いした詩織の脚本を読んだ後、哲さんは思いのほか協力的になってくれた。
「ニール・ヤングみたい」
あんなに目をキラキラさせた哲さんは初めてだった。
「エレキじゃなくていいの?」
そう最後まで哲さんは繰り返して尋ねるのだった。
恭介は、その日の帰りに古道具屋によって何か舞台で使えるものが無いかを物色し、アパートに戻る道を歩いていた。午前中とは印象を変えたその通りは、日中に溜め込んだ熱をゆっくりと空気中に放っており、恭介は、ゆらゆらと顔の前で形をゆがめる存在を感じていた。
恭介は、昼間覚えた感覚を思い出していた。「運ばれている」という感覚だ。それは、ふとすれば、ちょっとした感覚のずれからくる「錯覚」にも似ていた。電車の中で周りの景色が流れていく様は(動き始めた時に感じた揺れさえ忘れてしまえば)世界が動いているようにも思えなくはない。
古くから人はそうした錯覚のなかで、その時代に定められた世界観に身を沈めてきたのだろう。恭介は、その諦めにも似た気持ち(昼間覚えた感覚)を思い起こそうとしていた。それは、自らの意思を後退させるという行為では決して無く、むしろ流れに己の命を委ねるといった「決意」にも似た気持ちだ。
自分一人で成し遂げられることなど、たかが知れていると・・・改めて感じている。「自分ではない誰かを、その場所に誘う手助けが出来れば」と、その思いは強く「自らがその空間を創り上げる主体性の存在」になれればと・・・その思いは、単純に「その舞台を成功させる」という意思に繋がっていた。
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