ライム・ライト

 恭介は、思いもよらず長い間黙っていたマスターに

「ダメですか?」と聞いた。

「駄目ってことは・・・言いたく無い。」

腕組みをして、それからくしゃくしゃのタバコを胸のポケットから取り出して火をつける。

「だからって、簡単にいいよって言えることでもない。」

マスターは

「恭介君はどう思うんだ?」

と聞いてきた。

マスターは立ち上がってコーヒーを淹れに行った。

 

 木造の天井には開店前の簡単な照明だけが灯してあり、方々に光の届かない空間があった。恭介は、そんな光と影のはざまに浮き上がる梁の木目を見つめていた。陰影が強調されたように目に映り、空間全体がまるでじっとりと膜のような黒い層で覆われているように思え、タバコの煙やちかちかとした夜の時間が、粘り気のある存在に姿を変えてそこに身を潜めているように思えた。

 恭介は、自分がこの場所で過ごした時間、この場所に初めて来たときのことを思い返していた。それから自分がこの場所にいない間、その場で流れていたであろう時間に思いを巡らせた。幾つかの断面的なイメージが光や曇った客の笑い声と共に浮かんでは途切れ、そうしたイメージはゆっくりと渦を巻いて奥深く縮まり・・静まった店内が、凛とした空気を醸していた。

 自分が思っている以上に、知らない時間がここにはあると恭介は改めて思う。そして、ふと覚えのある甘く香ばしい臭いに気付く。マスターがコーヒーにお湯を注ぐ音が、その時初めて恭介の意識に上がってきた。

「ミルクは入れるのかい?」

そう聞いたマスターに

「お願いします」と恭介は答えた。


 恭介は、マスターになるべく丁寧に詩織が書いた文章の内容を伝えた。そして、その喫茶店の雰囲気が恭介にこの場所を思い起こさせたこと、仕事終わりにふと感じること、ライム・ライトという場所が特別なものに思えたことを伝えた。

「この場所は、前のオーナーの養子になって相続したんだよ。」

マスターはとても響く声でそう言った。

「それから色々と直すのに、だいぶ借りたけどね。」

バーの天井を見渡して

「すぐ返せると思ってたけど・・・ついこの前だね、完済したのは。」


「いいよ、やってみろよ。」


マスターは恭介の目も見ずにそう言った。


 恭介は、その夜に詩織にマスターとのやり取りを話した。

「オッケーは、もらったのね?」

「そうだね。」

そう言ってから段々とこれからのことが現実味を帯びて感じられるようになった。

「これからの予定を考えないと。」

そう言って

「ねえ、詩織の台本はいつできるの?」と聞いた。

「まだよ。私だって忙しいんだから、そんなにすぐに出来ると思わないでよね。」

恭介は「わかってるよ」と言いながら、その出来上がりを想像せずにはいられなかった。

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