詩織の作品

 恭介は、これまで詩織の書いた文章を全て読んでいると思っていた。長編が3作、短編が20ほど。でも詩織は「読みたい」と言った恭介に、これまで読んだことの無い文章も印刷してくれた。

「未完成な部分も多いし、まだ書き直す予定でいるから書き上げたって感覚は持ってないのよね」

そう言いながらもいくつかの作品を渡してくれた。

「ありがとう。舞台のベースになるイメージを作りたいんだ」

そう詩織に伝えると、それならと詩織は短い情景描写の作品群も印刷してくれた。

「心象スケッチという手法らしいけど、そうやってイメージを書き留めておくの」

恭介は、その量の多さにしばらく言葉を失っていた。

「どうして詩織は文章を書くの?」

詩織は、しばらくしてから「不安なのよ、きっと。」と言った。

「書いていないと、自分じゃないような。そんな気がするのかもね」

そう言ってから詩織は笑って

「今日は私、出かけるね」

「学校にも行かないと」

そう言った詩織が、ばたんとドアを閉じてアパートを出て行った。

 恭介は辞書のように積み上がった詩織の文章を手に取り、ひとつひとつ読み込んでいった。


 夕方に帰宅すると、詩織は、ベッドにもたれた姿勢でページをめくる恭介を見つけた。朝に家を出たときから2mと離れていない場所で、恭介は詩織の世界に腰まで浸かっていた。

 詩織は、恭介の傍に身を寄せると肩の上に頭を乗せた。恭介は、そのままの姿勢で原稿から目を離さずに

「おかえり」と言った。その声は、空間の中で不自然に響き、まるで湖の底に引き込まれるように、言ったか言わなかったのか、しっかりとした自信は持てなかった。

「ただいま」と詩織が一言いえば、その言葉は発せられたものとお互いに理解できたのかも知れないが、詩織は詩織で、その言葉が言えず、どう言葉を発していいのかも解らずに黙っていた。

「ずっと、そうやっていたの?」

代わりに出た言葉は、詩織が思っていたほど響きもせず

「ご飯は食べたよ」

恭介がしっかりとした声で答える。

「コンビニに買いに行って、食べた。」

「サンドイッチとパスタ」

その残骸がビニール袋に入って目の前にあり、氷も解けて空になったアイスコーヒーのカップもある。

「ミートソース」

「そうね。美味しかった?」

「悪くないよ。美味しかった」

「そう。」

 恭介は詩織の文章を読みながら、ずっと自分の舞台のことを考えていた。詩織の文章は、思ったほど読みづらくも無く、それでも、書いてあることがいまひとつイメージに繋がらないこともあった。こう考えたのだろうかと思いながら、こう書いてあった方がと思いながら、自分で勝手に舞台のことばかり考え、それでも、舞台のイメージにぴったりと来るものは無かった。

 何かを言わないと恭介は思って

「おもしろかったよ」

と言った。

「そう・・・。」

「ずっとこういう事を考えてるの?拒食症のウエイトレスを雇い続けるカフェオーナーのこととか、抱かれることが極端に嫌いな猫のこととか・・・」


「別に、考えてなんか無い」


恭介は詩織が言葉を続けないことに気付き、まずいことを言ったかもしれないと思い直していた。


「お前なんか」


「大っ嫌いだ」


そう言われたのかと思い、冷静に思い返してそんな声は発せられたわけでもなく・・・それでも恭介の頭に残っていたのは『何らかの理由で、喫茶店から外へ出たくても出られなくなった男の話』だった。

「このさ、喫茶店から出られなくなった話だけどさ」

何気なく恭介は聞いた。

「これは、呪われてるってことなの?」

詩織は、ちょっとしてから

「呪いって言葉はなるべく使いたくなかったの」と言った。

「そういう言い方しか無いのかもしれないけど、仏教でも『業』って言葉があるじゃない?」

詩織は、一度視線を外して言った。

「自分じゃ全然身に覚えも無いのに、『なんでこんな目に会うの?』ってことってあると思うの。そんな体験を文章にしてみたかっただけ、解る?」

「解る。」

そう恭介は言った。実際にどうなのかは別にして、その言葉はしっくりとした。

 それから恭介は、自分がライム・ライトで閉じ込められたらどんな感じだろうと考えた。実際に自分が独りで店じまいをするときの雰囲気を思い出す。それは、じっとりとした疲れの中で店が静まっている様子が妙に落ち着ける、とてもリアルな時間に思えた。まるでさっきまでの忙しさを身の奥に吸い込んだように、重厚な重みを増したようなその空間が一人の人間のようにも感じられる瞬間でもあった。

「詩織さ・・・この文章を舞台用に書き換えてくれないかな?」

恭介はそう言いながら、ライム・ライトが自分に語り始めるような時間を思い起こしていた。


それは、少しの脅えと興奮が交じった時間だった。

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