観劇

「無理だよ、無理無理。いきなり演出なんて出来っこないね」

今朝、繰り返し詩織から聞かされた言葉と同じだった。

「だいいち、演劇に興味あったのか?」

「無いよ。舞台も観たことがない。」

タカシは、黙って恭介を見つめていた。

「だから、協力してほしいんじゃないか。タカシは経験があるだろうから、いろいろと教えてほしいんだよ。」

「とりあえず」

タカシはそう言った後、紙コップに入ったコーヒーを手に取り

「まずは観てから」

一口を飲んで

「考えてほしい」

そう言った。

 授業の後で落ちあえる場所を約束し、タカシは食堂を後にした。何かがタカシの気を悪くさせたようで、恭介は今までのやり取りを頭の中で振り返っていた。タカシがやってきたことに対して、踏みにじるような真似をしたかもしれないと思った。でも恭介には『演劇をやりたい』ということが自然な欲求として感じられていたし、恭介にとって演劇をやるということは舞台に立つことでも無ければ、舞台を裏から支えることでもなかった。脚本も無く、劇団も無く・・・そこには一つの完結した『舞台をつくりたい』という思いがあった。

 

恭介は、その日の近代文学史の授業の最中に、舞台をつくるというイメージを膨らませることになった。1920年代のアメリカを舞台に、授業はロスト・ジェネレーションと呼ばれる作家たちを扱っていた。

ヘミングウェイ、フィッツジェラルド。第一次大戦後の景気の拡大と文明の進歩、その華々しい造形美の光の恩恵を享受しつつも抱いていた空虚感。実際に世界恐慌が訪れ、今まで見ていた煌めきが目の前で崩れていく様を見つめながら、それに納得している感覚。恭介は、真新しい石造りのビルの隣で「仕事を!」というプラカードを持って拳を突き上げる人や路上でうずくまる人、配給でもらったパンを懐にしまう人々の姿を想像することができた。

そんな風景のなかで、自らのなかにふつふつと湧き起こる「生きる」という感覚が恭介には妙にリアルに感じられた。自分が表現したいものは、そのような感覚だろうかと思った。違うかもしれないと思いつつ、リアルな感覚を手放せずにいた。

 その感覚は、暗い空間のなかに冷たく湧き出す熱のようなものだった。蚕の糸のように幾本も吹き上がる熱が、ゆらゆらと暗く冷たい空間に立ち上り、気化していた。糸の根元が複雑に絡み、お互いの熱で溶けて部分的に融合して熱いボールのようになっていた。

そのボールのような熱は、恭介の身体の真髄と繋がっていた。その熱は、恭介に恒久的とも思える養分を求めていた。恭介は熱を保つために意思を固めておく必要があり、その思いは、生きるという欲望であり、本能に変わっていた。

 授業が終わった恭介のノートには、教授が話した言葉や黒板に書いた文字だけでなく、無意識に書き留めた文字が残っていた。球体、熱、糸のようなもの、恒久的、そのような文字の羅列から矢印で「具体的な事象に転化」そう書かれた文字列は「日常での行動」という言葉とイコールで結ばれていた。

それらの言葉に大した意味は無く、恭介自身にさえ何を示そうとしていたのかも思い出せなかった。(すべてでは無いにしても。)

「とにかく、」

恭介はノートを閉じて鞄に仕舞いながら

「何かを始めないと」

そう呟いて教室を後にした。タカシとの約束の時間が、半時間後に迫っていた。



タカシは時間通りに現れ、一言も口を利かず駅まで向かっていた。恭介とタカシは、それから若者にあふれた町で電車を降りた。

「学生ばかりで嫌になるだろ?」

「俺たちも学生だろ?」

「違いない。」

空は、もう薄暗く染まっていた。

それほど大きくも無い町の繁華街に背中を向けて、目の前にある車道を抜けた向こうが住宅地になっていた。急に街の音がくもって後ろから聞こえ、車道の先の暗い坂の上に風が駆け登ったような気がした。

 

タカシは車道を渡ってから、それに沿って歩いていった。しばらく歩くと、小さな人だかりがあった。

「どうも、お久しぶりです」

タカシは人だかりのなかの背の高い男に手を上げて近づいていった。

「おー、タカシ久しぶり。急に連絡あるからびっくりしたよ。元気してるの?由良んとこで役者やってるんだよ。」

背の高い男は、隣の髪の長い帽子の女にタカシを紹介した。

「ほら、この前観た眼鏡の教授」

「あー覚えてる。『ソバデ・ガマン』ってやつ?」

「そうそう!」

「あれ、ちょーウケた。こんな顔してたの?」

恭介は、しばらくの間タカシがへらへらと頭を押さえて会話をする様子をぼんやりと見ていた。恭介は完全に輪の外におり、自分の周りだけ光が陰を落としているように感じられた。

「紹介します、恭介です。演劇に興味があるって言うんで」

「そりゃいいことだ。」

「どうも・・・はじめまして。」

恭介は、もじゃもじゃの頭をぽりぽりと掻いた。

 タカシは適当な言葉を後に残して劇場のなかに入っていった。舞台はコンクリートの建物の2Fにあった。ほぼ満席の状態で、七・八十人ほどの観客がパイプ椅子に腰掛けていた。タカシと恭介は空いている席を目指して「すいません」と繰り返しながらようやく席についた。

 パイプ椅子の上にはプログラムに挟まれたチラシの束があり、あちこちで行われる公演が紹介されていた。「こんなに舞台がやっていたのか」とその時に初めて知った。恭介は一通りチラシとプログラムに目を通すと、舞台を見つめた。


まだ照明も灯されていない舞台に、男がアパートの一室を見立てた畳の上で寝転がっていた。いつからいたんだろうと恭介は不思議に思いながら、男の服装と手に持った団扇から季節は夏なんだろうなと想像した。

舞台の男は、横になってつまらなそうに雑誌を眺めていた。恭介と同じように黙って観察する客もいたが、大概の客はくすくすと隣の連れと談笑をしていた。舞台の男は立ったり座ったりとしていたが、観客に背を向けて横になり、それ以後ぴたりと動かなくなってしまった。それからしばらくして、音楽がゆっくりと流れ始めた。

ざわざわとしていた観客席は、唐突にフェードインした音楽に押さえられて静かになっていく。それとクロスして照明が徐々に落とされ、ソフトロックの名曲が音量を上げて暗闇を連れてきた。音楽が暗闇のなかで膨れて、いつもと違う響き方をしていた。それから音楽は徐々に小さくなり、クーンという照明の灯る音がして舞台に光が溢れた。そこに木造アパートの一室があり、横になる一人の男の姿があった。


恭介は、ぼおっとした頭のまま駅からアパートへの道のりを歩いていた。さっき観た舞台のことを考えていた。ストーリーは、それほど親しくもなかった高校時代の同級生が突然アパートを訪ねて妙に親しくなる、ひと夏の話だった。テンションの高い同級生と、バカバカしくも楽しく濃密な時間を過ごし、そして突然に、そいつが夏休み前に自殺していることを他の友人より聞かされる。

「お前、死んでるんだろ?」

「見事に、死んでるよ。」

舞台の初めから繰り返されていた「帰れよ」「嫌だね」というやりとりが、最後で胸に染みて蘇った。

「お前・・・帰れよ。」

「もう・・・帰るよ。」

何も知らずに笑っていたそれまでの時間が凍りついたように、冷たく胸の内によぎった。後でタカシに聞いたら、有名な劇団の作品だったそうだ。

 

恭介は、同級生のことを思い出していた。中2の時に同じクラスだったそいつは、当時遊んだグループのなかにいた。学年が変わると、一緒に遊ぶ仲間も変わった。何人かは廊下ですれ違う度に声をかける程度になった。そいつは、学年が変わって自然と疎遠になったやつの一人だ。

高校に進学し、更に多くのやつと疎遠になった。そして、誰からか、そいつが自殺をしたことを聞いた。そんなことをするようなやつでは無かった。馬鹿ばかりして、陽気でおちゃらけた優しいやつだった。

「おかえりー」

片手でヘッドフォンを外して声をかける詩織に「ただいま」と応えた。

「お腹空いてない?」

「大丈夫、空いてないよ。」

恭介は言って、ベッドの上に腰を下ろした。

詩織は

「どうしたの?」と聞いた。

「舞台を観てきたんだ」

「どうだった?」

「面白かったよ。」

詩織は上半身だけこちらに向けて、恭介の表情を見上げていた。

 恭介は、少なからずショックだった。忘れることなど無いだろうと思っていたが、そいつのことをもう何年も思い出していなかった。

「いつのまにか・・・どうでもよくなってたのかな」

恭介は、無性に詩織のことを抱きたくなった。

「おいで」と恭介は言って、詩織のことを思いっきり胸に抱いた。

「ちょっと・・・」

そう声をもらした詩織を抱きながら、とても悲しくなった。強く抱きしめていないと詩織が消えてしまうような気になっていた。

詩織は、恭介を黙って見つめていた。恭介の黒い瞳は、底の無い暗い泉を連想させた。

「恭介、あなたどこに行ってたの?」

詩織はゆっくりと恭介に唇を重ねる。

「急に寒くなった」

そう恭介は言うと、詩織をベッドの上に引き上げた。


 温もりのある詩織の身体は、恭介の意識をゆっくりと実体に近づけていった。詩織の服を脱がせると、肌に触れるさらりとした感触が電気のように走って視界を歪めた。乱暴にならないように、恭介は自分が触れた詩織の身体に優しく唇を沿わせた。彼女を感じたくて、服を脱ぎ捨てて素肌を押しあてた。

 詩織は、しびれるような感覚のなかで「痛み」を感じていた。それは、暖かみを感じる度にガラスで切られるような痛みだった。身体の深い部分を切るように走るそれは、瞬間的に感じられ、それから触れられない「疼き」に変わるような痛みだ。そこにあったのかさえ判らなくなる。そんな感覚は、詩織を少女時代の自分と繋げてしまう。

フラッシュバックのように、青や黄色の水玉のなかに、声にならない悲鳴をあげる自分が蘇ってくる。何がそんなに哀しいのだろう。思い出せもせず、しびれるような感覚が強くなる。

 恭介は、彼女の柔らかな部分に自分を押し当て、そっと彼女のなかを探ってゆく。暖かみが恭介のペニスから下腹部と腰に伝わり、それを大切にして詩織に唇を重ねる。

声をあげて恭介を見つめる詩織は、瞳が透き通って映り、その奥に触れられないガラスのような硬質の殻を感じる。詩織は、常に恭介の何かを求めながら、拒絶し、憎しみを感じている。そんな感覚を、麻痺してしまうまで何度も、お互いに繰り返して叩きつけるのだ。


「あなたとのセックスは好きよ」

詩織はそう言った。

「とても哀しくなることがあるけど、すっきりするの。」

恭介は詩織に自殺をした同級生の話をした。そして何年も思い出していなかったことを伝えた。

「舞台に感化されたのかもしれないね」

そう恭介は言った。

「どうして死ななきゃいけなかったのかしら」

「知らないよ。」

詩織は暗闇のなかで上半身だけを起こして恭介を覗きこんだ。

「そのとき詳しくは聞かなかった。」

恭介は詩織の視線を感じていた。

「ほんとに仲がよかったんだ。そいつとは・・・よく遊んだ。俺には感情が無いのかな?そいつが死んだと聞いてショックだった。でも、悲しくはなかった。実感が湧かなかったんだ。」

部屋の中がいつもより暗く感じられた。恭介は、詩織の表情を見ようと目を凝らしたが、詩織の影はベッドの上で上体を起こしたまま恭介を覗きこんでいた。

「ほんとに親しかったんだ。でも悲しくなかった。何年も会っていなかったし・・・そいつがいなくなったという事実がうまく理解できなかったんだと思う。」

詩織はベッドから起き上がって服を被り、煙草を取りに立ちあがった。煙草に火をつけてから彼女は言った。

「想像はできなかったの?」

そのことについて恭介は考えていた。

「卑怯だと思ったんだ。悲しくも無いのに、気持ちだけ悲しんでも・・・意味が無いんじゃないかって思った。」

詩織は黙っていた。

「正直に感じていた方が、いいんじゃないかと思った。そして、忘れないようにしようと思った。」

「でも、忘れるのよ。あなただけじゃなく、いろんな人が。あなたのことも、わたしのことも」

恭介は、黙ってしばらく考えていた。


 その夜に、詩織は子供の頃のことを話してくれた。長崎の山間の町で育ったこと、実家は定食屋をやっていて店の名前が「栞」だということも教えてくれた。夏の夜に寝床で蛙の鳴き声がうるさかったことも教えてくれた。「げこげこ」と詩織はその声を真似て、恭介を笑わせた。

「げこげこ、どころじゃないんだから。ぼげー、ぼげー」

「ほげーほげー」

恭介も詩織に負けじと蛙のマネを始めた。

「そうそう、そんな感じよ。ほげーほげー」

「ぼげーぼげー」

恭介と詩織は、真っ暗な夏の夜に一緒に大声で笑った。



 タカシは、次の日に駅前のコーヒーショップで恭介のことを待っていた。もう半分ほど空いたグラスを見つめながら「本でも持ってくればよかった」と思っていた。恭介は約束の時間から20分ほど遅れて到着した。もじゃもじゃの頭がガラス越しにひょこひょこと近づいてくる姿が店のなかから確認できた。

「ごめん、ごめん。思ってた以上に出る準備に手間取っちゃって・・・」

「髪でも乾かしてたのか?」

「それもあるけど、部屋の片付けとか」

「部屋の片付け?」

「休日には部屋を片付けるようにしてるんだ。」

「それが、待ち合わせ前の午前中であっても?」

恭介は、ぼりぼりと耳の後ろを掻いていた。

「悪いとは思うよ。ごめん」

「まあいいから、何か飲み物でも買ってこいよ」

恭介は「そうする」と言って、タカシのいるテーブルから離れた。

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