学生食堂
恭介は、喫茶店で午後の予習をしていた。心理学者が、子供の猿に針金で作った母猿をあてがった話だった。針金の猿には哺乳瓶が付けられており、子猿の食事はそれから与えられた。これは実験の話だったから、一方はむき出しの針金猿を母親として与えられ、もう一方はタオル地で巻いた針金の猿を与えられた。実験の結果、むき出しの針金よりタオル地の方が懐いたそうだ。
恭介は、そうだろうなと思う。針金の母親を与えられた自分を想像した。やっぱりタオル地の方がいい。肌触りが心地良いし、しがみついた時に嗅ぐ自分の臭いに落ち着ける気がした。アタッチメント(愛着行動)と学者は呼んだ。そして結論として、人は「物」にも愛情を抱くことができるということだった。
恭介はコーヒーを飲み、ミックスサンドを口に運んだ。喫茶店は恭介以外に客はほとんど無く、離れた席にサラリーマン風の男が新聞を読んでいるだけだった。
恭介が20分も掛けてその店に来る理由は3つある。1つは客層が限られていること。店名が「ベルベット」と書かれたコカコーラの看板、木枠に真鍮のドアノブ、覗き窓にカーテンのかかった喫茶店に、何人の客がドアを開けようと思うだろう。おかげでこの店のソファーに腰を下ろせば、永遠に蓄積した時間を味わうことができる。
2つ目は、料理が美味いということ。コーヒーは苦く、濃い。おすすめはボンゴレ、これでもかというほどニンニクとアサリがパスタの間で踊っている。
3つ目は、決まってBGMが70年代のロックであること。死んだも同然の音楽を聴いていると、何故か風景が生き物のように呼吸している錯覚にとらわれることがある。そんな環境が、何故か集中ができ、リラックスできる空間でもあった。
恭介は、いつも喫茶店で昼食を取っていたわけでは無い。はじめの頃は食堂で学食を食べ、クラスメートと話に盛り上がったりもした。大抵の話は女の子のことで、合コンのこととか、今度の休みはどこに旅行に行くだとか、そんなことばかりだった気がする。思い出そうとして誰かの笑い声が耳に響いてよみがえる。誰の声だったのだろう・・・甲高く人に聞かそうとする笑い。それが自分のものだと気付くのは、いつもしばらくしてからだ。
良い思い出だってある。詩織に出会ったのも食堂だ。彼女は窓際の席で日替わり定食をつついていた。一つ隣に座った恭介は、詩織が首をかしげたまま鳥南蛮を箸で転がしている様子を不思議に眺めていた。
恭介は、時間を余して喫茶店を去った。石畳の歩道は陽に照らされ、空気を歪ませる熱を放っていた。大通りから路地に入り、両側の壁が短く影を落とす道を歩く。車から逃れられても暑さからは逃げられず、先を歩いていた猫が振り向いて垣根の間に消えていった。
次の授業まで1時間ほどあった。キャンパスを歩く人影はまばらだった。恭介は普段通らない中庭を抜けて食堂の方に向かった。しばらくぶりに食堂でコーヒーでも飲んで、授業まで過ごすことにした。
恭介は、そわそわとした気持ちを感じていた。朝から、すべての予定に気持ちが遅れて連いて来た。ふとした瞬間に恭介の心は体を離れ、客観的に傍観する自分が居た。そんなつもりもなく、それでも心はするすると手をすり抜けて身体から離れた。恭介は、ふと考えを奪われている自分に気づき、何を考えていたのかを思うと、脈絡も無く、思い出せなかった。
学生食堂は、装いを変えていた。ガラス張りの大きな窓に、白い木目の長テーブル、オレンジ色と青色のプラスチック製の椅子が交互に配置されていた。その場所は学生食堂と言うよりは、カフェテリアという装いになり、実際にそう名前を変えていた。コーヒーを手に持って窓際の椅子に座り、恭介は景色を見つめていた。
そこからの眺めは変わらなかった。コンクリートの建物と手前に植えられた桜の木々、土の地面と小さな茂みの裏庭があった。
「おー、久しぶり」
そう声をかけたのは、タカシだった。
タカシは一年の時に同じクラスを取っていて仲が良かった友人だ。
「おー」恭介は声を上げたものの、どう続けばいいか判らなかった。
「もじゃもじゃの頭が見えたから、そうかもと思ったら、やっぱり」
タカシは目を細くして笑った。
トレーにカツカレーの皿を乗せて
「これからお昼だよ」
と、恭介の向かいに腰掛けた。
「サークルの集まりが多くてさ、授業にまともに出れないよ」
「サークルって何だっけ」
「演劇」
「え?」
「舞台だよ、舞台。」
「意外だね」
恭介は言った。
「舞台って感じでもなかったから」
「ひどいなー」
タカシは笑いながらそう言った。
「舞台芸術専攻だぜ?」
「いつから?」
「入学した時から」
タカシはコップの水を飲んだ。
恭介は、夢のことを考えていた。
「舞台ね・・・。」
「え?」
腕の時計を見ると、授業の始まる時間だった。
「あぁー!」猫を踏みつけたような声をあげ、急いで荷物をまとめてカバンを提げた。
「ごめんな、授業の時間だから行かないと!」
恭介が言うと、タカシはしらけたように手の甲をひらひらとさせた。
「うー、あぁ、そうだな・・・。タカシ、悪いけど夜に時間取れないか?」
恭介は、立ち上がりながらそう言った。
「今日?」
「そう、今晩。一杯奢るからさ」
「夜っていつ?」
「バイト終わってから、遅くなっちゃうけど・・・」
恭介はそう言って、財布から紙マッチを取り出してタカシに渡した。
黒い厚紙に緑で「Lyme light/ライム・ライト」と書かれていた。
タカシは夜の予定を思い返して
「いいよ」
と胸のポケットにマッチを入れた。
「助かるよ、聞きたいことがあるんだ。」
恭介はそう言って手を上げると、せわしなくカフェテリア(学生食堂)を後にした。
タカシは、興味をカレーに戻して恭介に手を振った。
授業は5時過ぎに終わった。恭介は、校舎の階段を降りながら課題の提出日のことを考えていた。図書館でレポートの準備をしてもよかったのだが、今日の集中力でさほど進められるとも思えず、目的地に向かうことにした。
恭介が勤めるバーは20年近く営業をしている。バイトを探していた恭介は、タウン誌で募集を知った。「他にもバイトしてるの?」とマスターに聞かれて、「いえ、これが初めてです」と答えた。
「なるほど」と小柄なマスターは言った。初めて恭介が受けた面接は、驚くほど短かった。目を見つめられた後で「お酒は飲めるの?」「週末の夜は出勤できる?」そう尋ねられ、「しばらくはテーブルの後片付けをお願いするよ」と採用を決められた。
今では、ほとんどのメニューを作れるようになっている。平日の早い時間に一人で店をまかされることもあり、マスターは仕入れで店を抜けることもしばしばあった。
店はテーブル席が6つあり、週末の夜は目が回るほど忙しくなった。ビール、ウォッカトニック、シャンディーガフ、ハイボール、追加のドライ・マティーニ、オリーブ抜き・・・料理のオーダーも入った。
常連の人は、恭介のことを「もじゃ」と呼んだ。マスターは「恭介君」、バイトの哲さんは「恭介」と呼んだ。
哲さんは、美大に通う学生で6年近く勤めている。白いワイシャツに黒革のベストを着て、長髪を後ろでまとめている。哲さんは去年から「今年卒業だよ」そう言っている。「その後はどうするんですか?」そう聞いた恭介に「牧師にでもなるかな」と哲さんは答える。事実、実家はキリスト教の家系なのだそうだ。
タカシは、恭介のシフトが終わる前に店に到着した。インディアンの酋長みたく手を上げてにこやかに微笑み、隣に同じ笑顔を並べた女の子がいた。恭介は奥に空いていたテーブル席を指差し、そこで待つように促した。
受けていたオーダーと一応の片づけが済んでから、恭介はタカシたちのテーブルに注文を取りに来た。
タカシは、
「似合ってるね」と肘を付きながら言う。
「ありがと」と恭介は受け流して「注文は?」と続ける。
「ビール2つ」
それから隣の彼女を紹介してくれた。
「初恵、劇団じゃツエって呼ばれてるけど」
「ツエちゃん?恭介です」
「どうも、はじめまして」
初恵は小さく肩をすくめて目を細めた。フリルが襟についた薄手のブラウスを着ており、7分丈のジーンズに革のサンダルを履いていた。
「すぐ戻るよ」
恭介は、よく冷えたグラスにビールを注ぎ、二人の席に戻った。
「あと3、40分ぐらいかかるんだ。悪いけど先に飲んでてくれないかな?」
そう言って紙のコースターの上にグラスのビールを並べた。「はいはい」とタカシは応えた。初恵はにっこりと目を細くした。
二人は演劇の話をしているようだった。時折大きな声で「なんでー?そんなことないでー」という声や「だってそうじゃん」というタカシの声が聞こえた。初恵は関西の出身らしく、語尾に特有のイントネーションがあった。甘えるようにタカシに絡む初恵は、傍から見ていても可愛らしく愛嬌があった。
恭介が仕事を終えて席に着いた頃、タカシと初恵は3杯目のビールを飲んでいた。
「お待たせ」私服に着替えた恭介が椅子に座ると「おー、そっちの方がしっくりくるね」とタカシがふやけ始めた笑顔をのぞかせた。
「雰囲気が変わるんですね」
初恵が言うので「そうかな?」と恭介は応える。木綿地のシャツを着ていたが、印象を変えたつもりは無かった。
「仕事だからね」
そう答えて
「さっきから熱く語ってたけど、演劇の話?」
「芝居の話」とタカシが答える。
「喧嘩でもしてるのかと思った」
「とんでもない。健全な意見の交換だよ、陰口でも悪口でも無い。」
初恵が「そうかしら」とつぶやいてグラスを口に運ぶ。
「由良さんのことは批判的に取れることを言ったかもしれない。でも、それは由良さんがあるべき姿を追求していないことへの期待の裏返しさ。本来、由良さんの芝居ってのはもっと熱のあるものだと思ってる。」
「嫌なら劇団を抜ければいいじゃない。」
タカシは椅子にもたれていた身体をおこした。
「極端な話はやめろよ。僕だって、今の芝居を楽しんでないわけじゃない。でも、正直どう思うよ?軽すぎると思わないか?笑いを求めるばっかりでコントにしか見えないよ。」
初恵はテーブルから視線を反らして言った。
「確かに。テンポ、テンポばっかりで考える暇もないわ。」
「そりゃ笑いは大事だぜ、誰が言ったかなー『笑いの無い芝居は芝居じゃ無い』って・・・」
「丸さん」
「そうそう丸さん。俺だって丸さんの芝居は好きだよ。」
「爺さんの芝居とか」
「そうそう爺さん」
二人は言って、けたけたとしばらくの間、笑っていた。
恭介は、タカシと初恵の話を聞いている方がコントでも見ているように思えた。二人の動作や声が大きく感じられ、酔い始めたせいかもしれないと思った。
「恭介は飲まないの?」
タカシに言われて恭介は答えた。
「飲めないんだ」
「飲めへんの?なのにバーテンダーなの?」
「そう。関西弁なんだね」
「訳わからへん」
初恵は目を大きくくるりと回した。
「関西弁なんだね」
恭介はもう一度言った。
「そんなの、どうでもええことない?」
「京都出身なんだよ、こいつ。」
「こいつとか言わんといて」
「興奮すると関西弁になる」
初恵は手に持っていたグラスを傾けてビールを飲み干した。
「ちょっと待って。今、会話の流れがまったく無視されてへん?恭介さんがバーテンダーなのにお酒が飲めない、という話をしていたと思うんだけど」
「その通り」とタカシが応える。
「まったく飲めないの?」
「全然という訳じゃないけど、ほとんど飲めないよ。」
初恵は「ふーん」と言ったきり考え込んでいた。
「だけど、お酒を飲まないバーテンダーというのも珍しいわけじゃないよ。マスターだって飲まないし、飲めた方がまずいんじゃないかな?お客に勧められて酒に溺れたバーテンの話はよく聞くよ。」
「なるほどね」とタカシは言う。「酒に囲まれてる訳だから」
「自分で作るカクテルの味なんてのはわかるの?」
「初めて作る時は何回か味見はするけど、分量を覚えちゃえば同じように混ぜるだけ」
「味がぶれたりしないの?」
「料理とは違うからね。特定の銘柄の酒やジュースの味が変わることは無いんじゃない?あまり考えたことないよ。」
「そんなものなの?」
恭介はしばらく考えてから「そうだね」と答えた。
初恵はしばらく考え込んでいた。愛嬌のある表情など放り出して、眉の間にしわを浮かべて口をとがらせていた。
「ツエも役者なんだよ。」
そうタカシは言った。
「芝居をやるっていうのは、『普段考えないことを考えて生きる』ってことかな。普段気付かないことを特別な環境のなかで表現して・・リアルな夢を見たような感じで日常生活に戻る。『虚をつく』というのかな、そんな感覚だよ。」
恭介は、タカシの言っていることがさっぱりわからなかった。
「つまり、どういうことなんだろう?」
「つまり・・・ツエは恭介に『虚をつかれた』ってことなんじゃない?どうなの、ツエ?」
初恵は、考えているようだった。
「ビールおかわり!」
初恵が声を張り上げた。
「はいはい」
そう笑顔を浮かべながら哲さんがテーブルに来てくれた。
「恭介、ずいぶんご機嫌なお連れさんだね。お前はコーラか?」
恭介は、なぜか哲さんにそう言われたことが嬉しかった。にっこりと笑って
「お願いします」と言った。
恭介は深夜を過ぎてアパートに戻った。詩織は相変わらず、煙草をふかしながらPCとにらめっこをしていた。時間の感覚を失っているように見えたが、「おかえりなさい。遅かったわね」とPCを見つめながら恭介に声をかけた。
「ひさしぶりにタカシに会ったよ。」
「タカシって舞台芸術科のタカシのこと?元気にしてるの?」
詩織とタカシは、お互いに顔見知りだった。
「元気だったよ。彼女もいるみたいだし」
「彼女?彼女って誰よ?」
詩織は、PCとの対話をやめて恭介の話題に乗ってきた。
「ツエちゃんって言ったかな?同じ演劇サークルにいるみたい」
「初恵のこと?おっぱいの大きい羊みたいな子のこと?」
恭介は「そうだね」と応えてから『おっぱいの大きい羊』のことについて考えてみた。
その夜、詩織はしばらくぶりに恭介と同じ時刻に寝床に入った。いつもの詩織は、書き綴った文章を読み返し、納得のいう形に仕上げてから眠りに就く。いつもの恭介は、そん な詩織の背中を見つめて「おやすみ」と声をかける。ヘッドフォンをしているから、恭介の声が届いたためしはない。
詩織は部屋を暗くして、隣の恭介が起きているかを意識しながら眠りの準備をする。気がついてみれば、そうやって恭介のことを意識したことはしばらく無かった。
「ねえ」
そう詩織が声をかける。
「うん?」
はっきりとした声で恭介が答える。
「今日、学校に行ったのよ。食堂にいたでしょ?」
「いたの?席にいなかったよ。」
「座る場所を変えたの。食堂を見渡せる場所にしたの、ほんとに気付かなかった?」
しばらくの沈黙の後、「全然気付かなかった」と恭介は答えた。詩織はおかしそうにくすくすと笑った。
「趣味が悪いよ」
「人を観察するのが?」
「騙された気がする。」
「別に何もしないわよ。見てるだけよ。何を考えているんだろう・・・って」
「わかるの?」
「わかるわけないじゃん。でも、なんとなく想像はできるの。こんなことを考えてるのかなーって。」
恭介はしばらく黙っていた。
「僕は、何を考えていた?」
詩織は昼間のことを思い出しているようだった。
「さあ、わからないわ。でも何かを考えていたわね、確かに。授業のことではなさそうだった。あなたの場合、よくわかんないの。何か考えてそうに見えて、食べ物のことでも考えてそうだから。目玉焼きのこととか、きつね色のトーストのこととか・・・なんかそんな印象よ。何を考えていたの?」
静かな夏の夜だった。窓の外で、車が一台通り過ぎてカーテンの隙間からヘッドライトが天井を照らして消えていった。
「何を考えてたのかな・・・夢のこと、最近よく見る夢のこと」
「夢?夢ってどんな夢?」
「ねえ」恭介は言った。「舞台の脚本って書ける?」
「何よ、突然。授業でも書いたことあるわよ」
「演劇をやってみたくなったんだ。」
そう恭介は言った。
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