54 「dele」人間が完全に停止しても、機械は動き続けてしまう世界で。
ちはやふるの作者、末次由紀が漫画を描く傍らで時折noteを更新しています。漫画やイラストを載せることもありますが、基本的にはエッセイやコラムのようなものを書かれていて面白いので、よく読んでいます。
そんな末次由紀が最近更新した内容が、(おそらく)「Clubhouse」というSNSに触れて、「新しい文化が誕生して」いるのを感じると同時に「これは、早く電源を切らないといけないものだ」と考えていました。
人間には三大欲求の四つ目と言える「コミュニケーション欲」を持っていて、「新アプリのサービスは「いま聞きにいかなきゃ」と人の心を焦らせ」るものだと末次由紀は書きます。
そして、「そう強く感じるほどに、私は孤独が愛おしくなります。」と。
孤独であるから「読書と、集中させてくれるお絵かきの魅力が高まっていき」、「物語を作るために、自分の中の他者と語らう時間」をもたらしてくれる。
末次由紀はその後に作家のダヴ・シードマンの言葉を引用しています。
――「一時停止ボタンを押すと、機械は止まる。しかし人間の場合は、一時停止ボタンを押すと、動き始める」
本当にその通りなんだろうな、と思います。
文章が上手く書けない時の僕を思い返してみると、他人との繋がり(コミュニケーション欲)にかまけて、孤独であることを疎かにしていました。
孤独こそ、僕の最も信頼できる友人だったはずなのに。
コロナウィルスによる緊急事態宣言は多くの人の日常を変えてしまったでしょうし、世界の常識というものも反転させてしまいました。
それが元に戻るのか、今からでは分かりませんが、常識が反転した世界で僕は孤独の大切さを再認識したような気がします。
世界や日々の日常は変わっていきます。
僕自身の肉体も価値観も、その変化に抗うことはできません。
けれど、孤独だけは何も変わらず、影みたいに傍に佇んでくれています。それが怖いと思った時期もありましたし、今もまったく怖くない訳じゃありません。
ただ、怖いだけの存在ではない、ということを知っています。
最近ずっと言っているけれど、僕はそろそろ三十歳になるので、そろそろ孤独との適切な距離感をもって、親しい友人のように接していくすべを心得ておく時期に差し掛かっているのでしょう。
さて、今回は孤独の話ではなく、「dele (ディーリー)」というドラマについて書きたいと思っていました。
「dele (ディーリー)」の原案は作家の本多孝好が友人の金城一紀から声をかけられたことで制作されたものです。
金城一紀は角川(株式会社KADOKAWA)と組んで、作家と映像メディアを繋ぐ「PAGE-TURNER」という組織の運営に携わっており、その第一弾のメディアミックスプロジェクトとして、本多孝好に声がかかった、という事情のようです。
金城一紀と言えば、ゾンビーズ・シリーズで僕はある時期、彼の小説を熱心に読んでいました。
その頃には、既に「レボリューションNo.3」「フライ,ダディ,フライ」「SPEED」は秋重学によって、コミック化にされていましたし、直木賞を取った「GO」も窪塚洋介主演で映画化されていました。
金城一紀が書く小説は文字だけの世界に留まらないエンタメ的な魅力を湛えていたのは、ずいぶん以前から証明されていたように思います。
そして、「SP 警視庁警備部警護課第四係」のヒット以降、今回のような作家とメディアを繋ぐような活動に踏み切るのも、納得の行く流れでした。
金城一紀によって、小説世界だけでは書ききれない魅力的な作品が本多孝好や他の作家たちから生まれていけば、僕としては楽しみが増える思いです。
ちなみに、「ぼくたちは上手にゆっくりできない」という小説家が短編映画の脚本・監督・編集を務めた作品もあって、実は作家とメディアを繋ごうとする動きは、結構あったりするんですよね。
「ぼくたちは上手にゆっくりできない」は安達寛高(乙一)、桜井亜美、舞城王太郎の三名が挑戦していて、個人的に最高なメンツでした。
さて、前口上が非常に長くなってしまいました。
「dele (ディーリー)」の話に戻らせてください。
まずは、あらすじを紹介させてください。
登録しておくと依頼人の死後、パソコンやスマホに遺るデジタル記録を内密に抹消する業務を請け負う「dele.LIFE」(ディーリー・ドット・ライフ)の所長、坂上圭司(山田孝之)のもとで働くことになった真柴祐太郎(菅田将暉)が、依頼人の人生や秘密に触れ、そこに隠された真相をひも解かねばならない状況へ陥っていく。
原作者の本多孝好はインタビューにて、以下のように答えています。
――近年「デジタル遺品」はニュースでも取り上げられるくらい、人の死と切り離せないものになってきた。個人的には今後、死を前にした人間が“何を残したいのか”ではなく、“何を消したいか”の方に、その人らしさというか、その人が過ごしてきた人生が見えてくるんじゃないかと思うんです。
実際、ドラマ全8話の間、本当にあらゆるデータを感情や事情のもとに削除したいと考える依頼人がいて、そのデータや依頼人の周囲にいる人間の想いもそこにはあって、という作りになっています。
完全なる個人的なデータなんて、誰も消したいと思わないんですよね。結局は、誰かとの繋がりのあるデータ、つまり末次由紀の言う三大欲求の四つ目、コミュニケーション欲に基づく感情的なものを削除してほしい、と願っているんです。
それは犯罪的なものだったり、愛情に基づくものだったり、憎しみによるものだったりするんですよね。
この人間の一筋縄でいかない感じが「dele (ディーリー)」の魅力になっています。
僕個人のオススメ回は第6話の「雪原に埋まる少女の死体と消された日記(ラテ欄の表記)」と第7話の「死刑囚の告白~犯人はあの街にいる~迷宮入りする無差別殺人(ラテ欄の表記)」二つです。
どちらも後味の悪い、消化しきれない余韻が残る話になっています。また、どちらも独立したミステリーとして非常に優れていいて、このネタだけで長編小説一本書けちゃうじゃん、と驚きました。
とくに第7話のラストは鳥肌ものです。
今なら、Amazonプライム・ビデオで見れますので、機会があればぜひ。
とまぁ見事にハマってしまった僕は、「dele (ディーリー)」を観終ったあとに、もしも明日にでも僕が死ぬとしたら、どうするか、といった考えに囚われました。
もし明日、死ぬと分かっているのなら、デジタルデータで消したいと思うものはあるかな? と考えたんですが、本当にないですよね。
僕は物語になるような秘密や真相と言うものと一切、関わらない人生を送ってきたんですよね。
詰まらないとは思わないけれど、ちょっとくらいドラマがあっても良いじゃないかと、ぼやきたくなります。
これからの人生の中で、これだけは消したい、あるいは残したいデジタルデータに出会うのかな?
それはそれで、厄介な気もすると言う、我ながら面倒臭いヤツになっています。
考え方を変えてみると、人の死後ってデジタルデータだけが残る訳ではなく、僕が所持しているあらゆるものも含まれる訳ですよね。それで言うと、僕の部屋にある本は捨てるにせよ、売るにせよ、一苦労ありそうだなぁと思います。
余命一ヶ月くらいの宣告があったなら、十冊くらいまで整理しようとする気がします。その時間はまさに孤独で、だからこそ、(末次由紀的に言う)自分の中にいる他者と静かに語らえるんでしょう。
死ぬ直前に、そういう時間が取れるって言うのは、何だか贅沢な気がします。
全然死ぬ予定はないので、随時本を増えていくことでしょうけれども。
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