43 言葉には意味がなく、命がけの飛躍にも意味はない。それでも、沈黙だけは選択してはならない。
先日、職場の後輩の男の子と飲みに行きました。
彼が誘ってくるのは初めてで、どうしてか尋ねてみたところ、僕が少し前まで付き合っていた彼女との話が聞きたい、という超プライベートを詮索される内容でした。
お付き合いしてい方が職場の方ではあったものの、すでに在籍はしていないし、後輩は会ったことさえないんですが、僕の同期のメンツから話は聞いていたらしく、根掘り葉掘り聞きたかったようです。
どのような理由であれ、お酒があれば僕はどこへでも行くんです。後輩が望む話をするかどうかは分かりませんが。
そのような飲み会の席で、後輩が職場のあらゆる人間関係や噂話に精通しており、とくに尋ねていないけれど、「絶対、言うなって言われたんですけど」と色んな話をしてくれました。
そんな中で、ハラスメントを知った時の反応についての話になりました。
「俺、既婚者の男性が部下の女性スタッフとかに迫っているのを見ると、うわぁって引くんですけど、それ以外に反応ってなくないですか?」
確かにその話で言えば、引くし既婚者男性の立場を利用した手口であれば、適切な対処をするかな、と思う。
以前、幻冬舎の編集者、箕輪厚介がフリーライターに対してセクハラをおこない問題になったことがありました。
箕輪厚介の報道などに対して、例えば後輩であれば「うわぁって引く」んだと思います。実際、僕も引いたんですが、その上で憤っている自分もいたんです。
最近、気づいたのですが僕はハラスメント関係の出来事に対して、もの凄く怒っているんです。怒って、途中で悲しくなって、最後には苦しくなって、問題は宙吊りのまま放置されてしまう。
カクヨムのエッセイを更新していなかった半年の間にも、あるハラスメント事件がネットのニュースになっていました。
僕はその件に関してはとくに憤っている部分があります。今回はその話をさせてください。
まず、ハラスメントをネットで調べると以下のように出てきます。
――ハラスメント(Harassment)とはいろいろな場面での『嫌がらせ、いじめ』を言います。 その種類は様々ですが、他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えることを指します。
重要なのは「本人の意図には関係なく」相手がハラスメントと感じれば、それがハラスメントになる、という点です。
それ故に加害者側は、そういう意図はなかった、と言うことは可能ですが(というか全員そう言うと思いますけど)、その言い訳には何の意味もありません。
ということを前提に話をさせていただきたいのですが、今年(2020年)の7月にカオス*ラウンジの代表社員、黒瀬陽平によるアシスタントへのパワーハラスメント行為があったと発表されました。
カオス*ラウンジは、美術家/批評家の黒瀬陽平、現代美術家の藤城嘘、梅沢和木を中心に結成された美術集団です。ネット空間を作品のモチーフや活動のフィールドにするアーティストたちが多く集まっています。
2015年からは、思想家・東浩紀が設立した株式会社ゲンロンの主催するアートスクール「ゲンロン カオス*ラウンジ新芸術校」の運営に協力もしていました。
パワハラが発表されてから、黒瀬陽平はカオス*ラウンジの代表社員を退任し、Twitterで「本件は、黒瀬がカオスラを私物化していたことに、ひとつの、大きな原因があったと思います。この問題、責任にきちんと向き合うために、本日付で合同会社カオスラを退社し、今後行われる第三者による調査に協力してゆく所存です」とツイートしています。
その後、パワハラをされた被害者の女性がnoteにて、「黒瀬陽平、合同会社カオスラによる不法行為について記載する。」と告発しています。
内容については触れませんが、僕が予想していたパワハラの5倍は悪質なものでした。
言う必要もありませんが、黒瀬陽平(とカオスラ)がおこなったパワハラは暴力です。それも肉体的、精神的、社会的なものです。
絶対に許されてはいけないことです。
しかし、今年の10月に合同会社カオスラは、元同社代表の黒瀬陽平らによるハラスメントについて、「不正確」だったとの声明を発表。告発していた女性を訴える旨を明らかにしています。
「改めて調査を行い、弁護士等の専門家を交えて協議をした結果、当該記載は不正確なものであったと判断いたしました」
と言うものですが、具体的にどの部分が不正確なものだったのか、という記載はありませんでした。
今後、裁判に発展していくのであれば、情報が公開されることもあるでしょう。
随時追いかけて行きたいと思いますが、今回の「カオスラ」の対応に僕は違和感を覚えますし、内情を知らない本件に関して僕は被害者女性側に立ちます。
その上で白状しますと、僕はハラスメントが起こる前まで、黒瀬陽平が結構好きでした。
彼の考えに同調していた部分もありましたし、過去に書いたエッセイを振り返れば、黒瀬陽平の名前を引用した箇所も幾つか見つかりました。
僕は黒瀬陽平に影響を受けていた人間です。
その為、今回のパワハラには大きな衝撃があり、同時に憤りと落胆もしました。おそらく今後、僕は彼の文章を読むことはありませんし、影響を受けることもありません。
仮に(と言うのには意味がないですが)黒瀬陽平が漫画や小説という物語(虚像)を作る方だったなら、時間を置いて心の整理が叶えば彼の作品群に触れることはできたかも知れません。
しかし、黒瀬陽平は批評家でした。
批評家は自らの考え(実像)を広める人間です。
これに関しては東浩紀がゲンロン4にて「批評という病」というタイトルで、詳しく記載されています。
少し長いですが、引用させて下さい。
――言葉には意味がない、と指摘することはだれにでもできる。同じように、批評には「命がけの飛躍」が必要だと指摘することもだれにでもできるだろう。けれども、その指摘からは、ニヒリズム(批評なんてなくていい)か超人思想(批評は天才しかできない)か、いずれしか帰結しない。
中略
本当は批評はひとりでやるものではない。ふたりでやるものでもない。ぼくがきみに命がけで言葉を届けたつもりだったとしても、それが奇跡の名に値するかどうかを判断するのは、横から見ている第三者でしかない(恋に落ちたふたりは、つねに自分たちは奇跡のなかにいると判断することだろう)。
中略
批評は、原理的に、それが批評であるか否かを判断する共同体を、言い換えれば、批評という病=ゲームを鑑賞し、その成否を判断する「観客」の共同体を要請する。
つまり、批評は命がけで言葉を届けること(命がけの飛躍)が必要だけれど、その成否を判断するのは、本人ではなく、また言葉を届けられた当事者でもなく、まったく関係のない第三者である。
だとすれば、僕はまさに黒瀬陽平とは無関係の世界で生きる第三者であり、その立場から彼の届ける言葉には意味と価値があると(ハラスメント以前は)思ってきました。
その判断基準は言葉ではなく、行動です。
東浩紀が書くように「言葉には意味がない」あるいは「批評には「命がけの飛躍」が必要だと」言うことも、誰にでも出来てしまいます。
誰にでも出来てしまう言葉の羅列に意味と価値を見出す方法は、自分が届けた批評の意味と価値を自らの行動で証明し続ける他ありません。
であるなら、パワハラが発覚してからの黒瀬陽平の行動は彼自身の考え(実像)を他人に広めるだけの説得力はありませんでした。
少なくとも黒瀬陽平は自分の言葉でパワハラに関する説明すべきでした。それがどれだけ理解されず、バッシングを受ける結果になったとしても、彼は沈黙だけは選ぶべきではなかったんです。
と書きながら、僕はどうだろう? とも考えます。
僕は評論家ではありませんし、この先、評論っぽいものは書けても、評論家にはなれない人間でしょう。
それでも何か大きな間違いを犯した時、それを認めて間違いを自分の言葉で発表し、謝罪できる人間ではありたいと思います。
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