20 愛から最も遠い感情を知る「愛が挟み撃ち」。
突然ですが、トラウマになった読書ってありますか?
読んでいてもう本当にやめてくれ、と思いながらページをめくってしまう。
そんな体験ってありますか?
僕はこのエッセイでも紹介したポーリーヌ・レアージュの「O嬢の物語」がまず浮かびます。
とは言っても「O嬢の物語」がパリで出版されたのは1954年です。
現代とは言い難い物語ですし、舞台は日本でもありません。
遠い別の世界と言ってしまえば、その通りです。
なので今回、紹介したいのは現代が舞台のトラウマ本です。
2017年の12月号の文學界に掲載された前田司郎「愛が挟み撃ち」です。
「愛『の』挟み撃ち」ではなく、「愛『が』挟み撃ち」であることが、この小説の肝だと思っています。
受賞は逃しましたが、第158回芥川賞の候補にもなっています。
また、「愛が挟み撃ち」が刊行された時、前田司郎と女優の南沢奈央がトークショーで喋っていたのも記憶に残っています。
単純に僕がオードリーの若林が好きな為、当時交際していた南沢奈央が「愛が挟み撃ち」をどのように読んだんだろう? という興味はありました。
あの厄介な愛の物語を。
ひとまずは「愛が挟み撃ち」とはどういう物語か書かせてください。
三十六歳の妻・京子と、四十歳手前の夫・俊介は結婚して六年近くになります。
一年前から俊介が子供が欲しいと避妊をやめたのですが、なかなか妊娠しません。
検査してみたところ、俊介は子供が作れない体であると判明します。
妻である京子は、それはそれで仕方がないと諦めかけるのですが、俊介は思いがけない手段を提案します。
それは十五年も会っていない友人・水口と京子の間に子供を作り、夫婦の実子として育てるというものでした。
ちなみにこのあらすじは2018年1月号の群像「合作評論」のあらすじを短くまとめたものです。
合作評論は基本的に評論家や作家の三名が作品について自由に語っていくスタイルで進んでいきます。
「愛が挟み撃ち」では木村紅美という作家が、あらすじが終わった後に以下のように感想を述べます。
――木村 最後、「その考えのあまりのバカバカしさ、現実味の無さ、繊細さを欠いていることに、怒りと嫌悪が湧き上がってくる」
という京子の言葉がありますけど、私が今まで読んできたあらゆる小説の中でも、ほんとうにバカバカしく、現実味がなく、甚だしく繊細を欠いた作品でした。
とバッサリです。
言いたいことは分かります。
これは本当にバカバカしい話なんです。
あらすじの補足をしていきますと、夫である俊介の提案、十五年も会っていない友人の水口と妻の京子の間に子供を作る、という提案は実行されます。
――京子は考えた。確かに、全てを事務的に処理できれば、水口と子供を造るという発想はあながち突飛でもない。
水口が優れた人間であることは京子も認めていたし、見ず知らずの人の子を産むよりも愛情を持って育てられるだろう。
俊介も愛情を抱けると言うなら、全く良い考えだ。でも俊介はなんで愛情を抱けるんだろう。
合作評論にて佐々木敦が「これは、愛とは何なのか全くわからない人たちの話」とまとめています。
俊介の言う愛情は世間一般のそれとは異なるものでしょう。
まず、どのような思考回路を進めば、友人と妻の間に子供を作り、夫婦の実子として育てようという発想になるのか、僕には分かりません。
補足を続けます。
友人の水口は同性愛者であり、俊介に「お前を愛しているんだ」と告白するほどの好意を抱いています。
また、水口は薬に頼ることで女性に性的興奮を覚えられるようです。
十五年前、京子は俊介に想いを寄せる水口を振り向かせたいと願っていました。
そして、それが叶わなかったから俊介と付き合います。
――付き合ったのは、俊介と寝たのは、ほとんどあてつけだった。
水口が俊介と寝れないから、京子は俊介と寝た。そしてそのまま付き合って結婚したのは、水口が俊介を愛していたからこそかも知れない。水口の俊介に対する想いが、京子にとっての俊介の価値を担保していたのかも知れない。
この部分を読んだ時、僕はうぎゃって声をだしていました。
誰かのあてつけで結婚って出来ちゃうんだっていう当たり前のことに、なぜか僕は絶望していました。
その絶望の中には、誰かのあてつけの方が通常の結婚よりも上手く行く部分があるような納得もありました。
実際はどうか分かりませんが、相手にも自分にも求めるものが少ない方が他人との生活は上手く行くのではないでしょうか。
そういえば、山田詠美が石原慎太郎と対談した際に以下のようなことを言っていました。
――四年で人間の恋愛って終わるんですってね。アメリカの女性学者が最近出した説、知ってます?
四年で恋愛が終わって、たいていの人は子供とか社会的な状況でクリアしていくんだけど、恋心はそのまま続かないということをDNAが証明してるんですって。
この対談自体が1993年の6月14日とあるので、全然最近の説ではありませんが、そうなんだと納得しました。
ただ、あくまで恋心は四年で終わるだけで、愛と恋心は少し異なります。
ちなみに、「愛が挟み撃ち」の本文に俊介が愛について考えるシーンがあります。
――愛とはいったいなんだろう? 現象だろうか。行為だろうか。感情の一種? 恋は落ちるものだが、愛は育むものなのだろうか?
だとすると、恋は一人でも出来るが、愛は一人では出来ないのか?
佐々木敦いわく「これは、愛とは何なのか全くわからない人たちの話」です。
であるのなら、
「これは、他人と何かを育むことができない人たちの話」
と言い換えることができそうです。
そんな「愛が挟み撃ち」のラストは俊介と水口の愛(それは、誰とも育めていない愛です)が挟み撃ちになり、京子が妊娠するというものでした。
京子は愛が挟み撃ちになる行為を望んでいませんでした。
その結果、生まれてきた子供に俊介は「愛」と名付けようと提案します。
京子は「随分、気の利いた皮肉だな」と思い、二人は育むべき愛をようやく手にし、物語は終わります。
その育むべき子供の名前の根底にあるのが、本当に皮肉であるのなら、二人は愛とは何なのかは理解できていないでしょう。
誰かを愛する上で皮肉は最も遠い感情でしょうから。
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