オムレツの中はやわらかい方がおいしいのか?

郷倉四季

1 物語を前にフォークとナイフを。

 初めて書いた物語を覚えていますか?


 それはどんなきっかけだったのでしょうか。

 僕はその初期衝動とも言えるきっかけにこそ、物語以上の価値や意味が潜んでいるのではないかと考えます。


 ただ、そこには厄介な捻じれが存在します。

 そのきっかけとも言える初期衝動を分かり易い言葉で語れるのであれば、そもそも物語を書く必要なんてないというものです。


 誰かに伝えたいけれども上手く伝えきれない気持ちがある時、人は物語に頼るのではないか。

 少なくとも僕はそうでした。


 今回はそんな捻じれて上手く伝えられずにいた物語について書いてみたいと考えています。


 僕は今年の二月に二十八歳になりました。なので、そろそろ捻じれた回路をほぐして言葉にできるんじゃないかと勝手に期待しています。


 今回は内容的に「ノルウェイの森」の結末について、しつこく言及するかと思われます。

 これから読む予定で結末を知りたくない方は申し訳ありません。

 続きは控えていただいた方がよろしいかも知れません。


 前口上も少々長くなっているので始めます。


 僕が初めて物語を書こうとしたのは高校一年生の頃でした。

 高校進学をきっかけに電車通学になった僕は、車内の退屈を埋める為に少し大人びた小説を読もうと考えました。

 分かり易い背伸びです。


 その為に手に取ったのが古本屋の百円コーナーで見つけた村上春樹の「ノルウェイの森」でした。


 赤と緑の綺麗な装丁の上下巻の長編小説。

 表の帯には『いい尽くされた言葉より 心に残る この物語を……』という文句。


 高校一年生の僕は『いい尽くされた言葉』が何を意味するかも分かってなかったでしょうし、読み終えた後も理解できたとは言い難いでしょう。


 知っている方もいらっしゃると思いますが、少し説明をさせてください。

 ノルウェイの森はザ・ビートルズの《Norwegian Wood》の和訳です。

 実際に訳すと《ノルウェーの木材》あるいは《ノルウェー製の家具》で、《ノルウェイの森》は意訳となります。


 本編で《ノルウェイの森》という曲が出てくるのは上巻の後半で、ヒロインが同室の女性にギターで弾く曲をリクエストする場面です。

 少々引用させてください。


 ――「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだかわからないけど、自分が深い森の中で迷っていたような気になるの」と直子はいった。「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて。だから私がリクエストしない限り、彼女はこの曲を弾かないの」


 高校一年生の僕は「ノルウェイの森」を読み終えた後、直子という女の子についてずっと考えていました。

 なぜ、ザ・ビートルズの《ノルウェイの森》を聴くと彼女は哀しくなのるのだろう。


 なぜ、彼女は最後に亡くなってしまったのだろう。


 なぜ、真っ暗闇の深い森の中、自分で用意したロープで自殺なんて方法を選ばなければならなかったのだろう。


 今から考えれば僕は直子の哀しい死に方に突き放されたような衝撃を受けていました。

 衝撃に背中を押されるように、僕はCDレンタル店でザ・ビートルズのアルバムを借り、《Norwegian Wood》を聴き込んだり、「ノルウェイの森」の出来事をノートにまとめたりしました。

 何度目かのラスト一行「僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼び続けていた。」を読んだ時、直子の死の衝撃が一つの問いになりました。


 本当に直子とワタナベトオルが共に住んで幸せになる未来はなかったのだろうか?


 今の僕であれば、一言で終わります。

 彼らが幸せになる未来はありません。

 本文にも、ちゃんとそう書かれています。


 ――「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。

 そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。


 どんなに考えても「ノルウェイの森」という物語は直子の死で閉じられる物語です。

 言い方を変えれば「ノルウェイの森」の半分は直子の物語です。


 けれど、当時の僕は二人が幸せになれるんじゃないかと真剣に考え、自ら物語を書き始めました。

 直子が死なないで良い物語。

 百円そこらで買えるノートに横書きで僕は直子のことだけを考えて文字を書きました。


 僕はその物語を結末まで持っていくことはできませんでした。

 直子の幼馴染であるキズキに位置する人物が死ぬとろまで書き、その後はまったく身動きが取れなくなったことを覚えています。


 物語の中とは言え、一人の人間が死ぬその重みに僕は耐えられませんでした。

 けれど、「ノルウェイの森」という物語は村上春樹があとがきで書くように「死んでしまった何人かの友人と、生きつづけている何人かの友人に捧げられ」ています。


 根底に死が横たわった物語です。

 そこから始まらなければ「ノルウェイの森」にはなりません。キヅキや直子、ハツミさんの死をどれだけ不条理に思っても、それこそが「ノルウェイの森」である以上どうしようもありません。


 僕にできることは「ノルウェイの森」という物語の要素を剥ぎ取って煮込んだり、刻んだり、ミキサーにかけてひたすら、やわらかくすることだけでした。

 やわらかくなった「ノルウェイの森」はもはやまったく違う物語となります。


 ただ、まったく違うやわらかいものにしたからこそ、僕は「ノルウェイの森」という物語を受け入れられたようにも思います。

 そこに納得や理解があった訳ではありません。


 あったのは、「ノルウェイの森」という不条理で哀しい物語を置く場所でした。

 僕は十六歳の頃に不完全でどうしようもない物語を書くことで、不条理で硬く閉ざされた物語をそのまま受け入れ、ひとまずは置いておける場所を作ることができました。

 そのひとまずの場所によって僕は多くの物語を拒否することなく受け入れて来れたように思います。


 僕が初めて書いた物語は完成せず、また誰の目にも触れられることなく今も実家の押入れの中に仕舞われています。

 これを読んでくれている方の初めて書いた物語、もしくは書こうとした物語はどんなものだったのでしょうか? あるいはこれから書こうとする方はどんな初期衝動に突き動かされるのでしょうか?

 そう問うて今回のエッセイを終わりたいと思います。



 一回目から非常に長くなってしまいました。

 また、「ノルウェイの森」を読まれていない方からすれば、よく分からない部分もあったかと思います。

 申し訳ありません。


 ひとまず、これから「オムレツの中はやわらかい方がおいしいのか?」を始めたいと思います。

 オムレツの中は「やわらかく」ても「かたく」てもおいしい。

 というのが今のところの僕の考えです。

 あと、オムレツにはトマトケチャップ派です。


 よろしくお願いいたします。

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