ある晴れた日に








 ここ二、三日ばかりしとしとと降り続いていた雨は、昨晩ようやくあがったらしい。

 今朝は綺麗に晴れ渡り、気持ちの良い青空が広がっていた。


 恵みの雨をたっぷり浴びた庭園や庭を、ルリは部屋の窓越しに眺め、目を細める。

 まさにお散歩日和。



 ラオインが初めてお屋敷の外に出るのには、ちょうどいい日だろう。

 彼はあのステッキさえあれば、もういくらでも歩けるぐらいまでには回復した。これも、リハビリを真面目にきちんとこなしてくれたおかげだ。



「ようやく晴れてくれてよかったです」

「あぁ。まさかこんな長雨になるとは思っていなかった」

「ここでは、この季節はいつもこうですよ。雨が続く季節が終われば、すぐに夏がやってきます」

 ルリは自室のドレッサーの鏡に映るラオインをみつめながら、おしゃべりをする。

「まだ、あじさいという花は咲いているのだろうか?」

「多分……大丈夫だとは思いますが、あとで庭師のガーネディゼットに尋ねてみましょうか。彼なら、庭園の植物のことは何でも知っていますから」

 ラオインは、ヘアブラシを手にルリの長い黒髪を丁寧に梳かしながら話していた。

 彼は自身の髪にはかなり無頓着なのだが、ルリの髪に触れるのは好きらしく、この時間はいつも優しく安らいだ表情をしている。

 とりわけ、ここ最近では朝にルリの髪を梳かしたり結ったりするのは、ラオインの役目になっていた。

 もともと髪結いをしていたメイド人形アクアシェリナのお役目を、一つ減らしてしまったかたちになる。が、ラオインがルリの髪に触れている時間の、優しい笑顔を見てしまっては……答えは決まりきっていた。



「さて、今日はどう結おうか、ルリお嬢様」

「んー……。お帽子をかぶるつもりなので低い位置で結うか、下ろしたままがいいですね」

「わかった。それなら……」


 ラオインはルリの髪をいくつかの毛束に分けて、丁寧に編みこみはじめた。あまりきつくないようにか、やや余裕を持たせてながら、ヘアゴムと薄いグレーのリボンで手際よく纏めあげるまでには、そう時間はかからなかった。

 見た目は三つ編みをひとつ作ったときに似ているのだが、それよりも細くて複雑そうな編み方。

 あえてラフに見えるように、きっちりと纏めずに髪を編み目から少量ずつ引き出して、ふわふわゆったりとさせていた。

 図書館の本や、映像資料なんかでたまに見かけるフィッシュボーンという髪型のようだが、記憶にあるものより複雑そうな編み方だった。


「今日のも可愛いです!!」

 ルリは鏡を覗き込み、リボンが結ばれた部分を持ち上げていろんな角度で眺めてきゃあきゃあとはしゃぐ。

「可愛いです! ラオイン、いつもありがとうございます」

「そう、か。喜んでもらえてよかった」



 彼は微笑み、そっとルリの頭を撫でて抱き寄せてつぶやく。

「喜んでもらえて嬉しいし、ルリを可愛く出来たことも嬉しい」


 …………あぁぁ……どうしましょう。

 私のラオインが、朝から早くも素敵すぎます。






 今日は太陽も勢いが良く、気温が高くなりそうだった。


 なので、二人とも服装は爽やかなリネン生地のシャツやブラウスにした。外出するといっても、ここにはどこまでも伏籠邸の敷地しかなく、客人もなく他の住人さえもいないのだから、その衣服の格だとかそういう面においては気楽だ。

 肌寒くなったときのことも考えて、大きめのストールを一枚ずつ持つことにする。ルリは薄いピンク色に白で可愛らしい花が描かれたものを。ラオインはごくごく淡いブルーグレーの無地のものを。



「早くラオインに、もっともっといろんな服を着せたいです」


 ストールをたたんでバスケットの中に放り込みながら、ルリは何気なく言う。

「もっと、とは…………多すぎやしないか?」

「だってだって、このブルーグレーのストールも私のお下がりですよ。ラオインは新しいお洋服、嫌いなのですか?」

 そう首を傾げて尋ねてみると、ラオインは困惑したように苦笑いになった。

「嫌いではないな。新しいシャツに袖を通したときなどは嬉しいものだ」

 だが――と続ける。


「俺のいたところでは、布というのはとても貴重なものだったからな。……特にこの真っ白な亜麻リネン、同じような品を用意するとなると、この白さと柔らかさを出すためには何度も何度も洗わねばならないだろう。川の水は冷たくて、冬には凍ることもあるのに、だ」


 自分のシャツの襟を、指先でつまんでラオインは少しの間瞳を閉じていた。


 家庭の主婦や娘達、あるいはランドリーメイドなどが冷たい水で洗濯をしていたのは、ルリの世界ではもう大昔のことだ。

 データの中にある、細部がよくわからない絵や、モノクロのややぼやけた写真や映像でしか、もう見ることのできないだろう光景。


 だからこそ、ルリには何を言って良いのかもわからない。

 けれど、わからないなりに、言葉にするしか無かった。


「ラオイン。あのね……『ここ』には凍った水でお洗濯をする人はいません。――いないのです」


 じっと、ラオインを見つめてルリは言う。

 彼も金色の瞳でこちらを見つめ返して、神妙に頷いた。


「そうだな。『ここ』には――いないんだ」

 彼は少しだけ寂しげに、だけどこの尊さを噛みしめるように……そんな言葉を発した。






「それじゃあ、行こうか。道案内はお任せしよう」

「えぇ、ラオイン」


 ラオインがステッキを片手に持ち、もう片手でルリに手を差し伸べる。

 彼の手を軽く握って、もう片手でバスケットをしっかりと持つ。

 このバスケットの中にはちゃんと、さっき届けられたお弁当や飲み物も入っているのだ。




 今日は、二人で初めてお屋敷の外をお散歩だ。


 ほんの少しばかりゆっくりとした歩調で、夫婦は部屋を出た。



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