黒鷹将軍と歌う小鳥
謀略の果てに
誠実に生きていれば、いつか報われる。
――そう、思っていた。
闇の中、剣が閃く。
ぐらりと、相手は人形のように後ろ向きに斃れる。
声を出さずに逝ってくれたのは、僥倖と言えた。
だが、すぐに別の追っ手がやってくるだろう。
ぱしゃり。
泥水を跳ね飛ばし、逃げられそうな道を探す。
その重い足取りは決して雨のせいだけではなかった。
雨の夜、黒鷹将軍ラオイン・サイード・ホークショウは後悔と諦めと絶望を抱いて山中を走り続けていた。
衣服は雨の雫を吸って冷たい。
それに、体が重たく痛い。全身の傷から血が流れ続けていて、特に右膝は今動けているのが不思議なぐらいの深い矢傷を負っている。
「俺は、裏切られたのか」
ラオインは絶望の逃走の中、その言葉を呟く。
それを信じたくなかった。
けれど全身の疲労と傷の痛みが、これが悪夢などではなく現実なのだ、ということを突きつけてくる。
長きに渡り続いていた隣国との戦。その和睦が成った事を祝うための、ほんのささやかな宴。
……国王陛下よりの直筆の招待状には、そんなことが書かれていたのだ。
あくまでも非公式に、王としてではなく個人的に、和睦の功労者をねぎらうための宴ゆえに、他の者たちに知らせてはいけないし、従者はつれてこないように、とも。
それを、ラオインはお人好しにもすっかり信じてしまい部下にも戦友にも知らせず、一人で国境近くの山脈にある城館へやってきたのだ。
「俺は、裏切られたんだ」
城館に入ってみれば、見事なまでのがらんどうで誰の返事もない。
これは国王陛下にからかわれたのかと、そのときはまだ軽く考えていた。
ところが。
人の姿を求めてラオインが城館内部をあちこち移動していると――矢の雨が容赦なく降り注いだのだ。
「あぁ……俺は、裏切られたんだ」
弓兵を指揮している人物は、ラオインも知っている将だった。何度か戦場をともにして、互いに背中を守り合ったことすらあった。そんな相手に、ラオインは始末されそうになっている。
「国王陛下……」
傷を受けて、ひとりぼっちで逃げて、逃げて、逃げて、逃げ続けて。
雨の中、山中に身を潜めたラオインは悲しい事実を知ってしまったのだ。
自分を探すを兵士達がすぐ近くを通りかかり、その会話を聞いた。
彼らは、ラオイン・サイード・ホークショウ将軍は隣国と結び国王陛下への反逆を企てる逆賊である、と話していたのだ。
将軍が和睦を結ぶために奔走していたのも、すべては隣国にこの国を売り渡すためにしていたことで――
ラオインは、手にした剣をさらにぎゅっと握り締めた。
もはや、信じられるのは己の剣のみという状況である。
先程から、追っ手を何人も斬り伏せては逃げ続けていた。
雨が降っていなければ、今頃ラオインは返り血まみれだったことだろう。
もしかしたら、あの将も、あるいはあの兵達もラオインに味方してくれたかもしれない。
きちんと、これが濡れ衣なのだと……そう話せば、彼らも理解してくれたのかもしれない。
けれどわかってくれないかもしれない。
どちらかわからない。だから……斬るしかない。
斬らなければ、ラオイン一人が反逆者として死ぬだけだ。
「なぜ……なぜですか、国王陛下……」
……ラオインは、このはかりごとが、国王陛下そのひとによるものだと、察していた。
血気盛んでまだ若い国王は、長く続いた戦を和睦という形で終わらせることには、もともと納得していなかっのだ。
……こうやって和睦の功労者であるラオインを、隣国と通じていた反逆者であると始末して……そして、再び戦を始めるつもりでいるのだろう。
そんなお粗末な策、見え透いたやり口、成り立つわけがないのに。
「あぁ……でも…………もう、疲れた……な……」
ざああ……ざあ、ざああ……。
雨は降り続いていた。
生い茂る木々が枝葉を広げて、傘のように冷たいしずくを防いではくれる。
けれどラオインの命は確実に、終わりに近づいていた。
真っ赤な血とともに、体から生きる意思とか生命力とか、そういうものがどんどん流れ出ていってしまっているように思える。
誠実に生きていれば、いつか報われる。
そう思って、今まで必死でやってきたのだ。
異国出身の奴隷女が産んだ子供。
貴族であり、代々国軍の将軍職を預かる父を持つとは言え、周囲とは違う褐色の肌と白い髪を持つラオインへ向けられる感情はずっと冷たく厳しく痛いものだった。
けれど……誠実に生きて、真面目に勉強して鍛錬して、実績を重ね続けて。
そうしてしだいに人から認められて、だんだんと居場所が出来て。血も容姿も、そんなものは関係ないと思えたのに。なのに。
……結局は、そんなもの、何の役にも立たなかった!
ラオインは誰より誠実で勤勉で優秀だった。
なのに、結果はこれだ。
こうして、汚名を着せられてひとりぼっちで終わる。
「あぁ……結局最期は、こんなものか……」
思えば、自分のために生きられなかった人生だった。
幼い頃は、自分と同じ褐色の肌と白の髪をした母のために、必死で勉強をして。
嫡男として将軍職を継ぐことが決まってからは、父のために鍛錬に明け暮れ。
そして戦場に立つようになってからは、国のために国王のためにとこの手を多くの血で染めた。
なにひとつ、自分のしたいことなど出来ない人生だった。
もっと……。
もっと、美しいものが見たかった。
もっと、美味いものをたくさん食べたかった。
もっと、ゆっくりと時間の流れを感じたかった。
そして……誰かに愛されて愛したかった。
「は……はは……こんなときに……俺は、欲深い人間だったのだな……」
雨のしずくに身を打たれながら、ラオイン・サイード・ホークショウは天を仰ぐようにごろりと泥中に倒れる。
もはや、剣を持つ力すらなかった。
……もう、すべてがどうでもいい。
こんな国も、あんな家も、幾度も死線をともにした戦友さえも。
もう、この絶望感と無力感と疲労感の前にはどうでもいいものだった。
「あぁ……叶うなら…………自分のためにだけ、生きてみたかった……な」
そう、自分のやりたいことだけやって生きられたなら、どんなに楽しかっただろうか。
だけどもうすべて、あまりに遅い。
ラオインが瞳を閉じかけたその時――世界が、ほの青い輝きに包まれた。
否。
それはまばゆく清浄な青い光を放つ、あまりに巨大であまりに偉大な……腕。
そんな腕が二本、天から伸びていたのだ。
「……な……!」
その両手が、長く美しい指が、ラオインを優しく柔らかく包み込んで――
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