第5話 異変(2)
校舎のすぐ横で体育教師の柏木がタバコを指に挟んだまま立っているのが見えた。校内はもちろん禁煙だけど、我慢できずに吸いに出たところで固まってしまったのだろう。
スライムはうぞうぞと柏木ににじみ寄ったかと思うと、そのまま柏木を頭から丸まま飲み込んでしまった。
美咲が息を呑むのがわかった。すそを掴む力がぎゅっと強くなる。
俺の脳裏に能登の言葉が蘇った。妖怪、学校七不思議の一つ。
恐怖で何もできない。パニックになるとか、叫ぶとか、そんなことすらできなかった。
心臓の音が耳元で聞こえるぐらい大きく鳴って、背中に嫌な感じの汗が流れた。
あれは1匹だけなんだろうか、もしかして俺たちのすぐ後ろにもいるんじゃないだろうか。そう考えてしまうと身体が固まって動かない。
それでもなんとか勇気を振り絞ってあたりを見回した。幸いなことに、スライムはあの1匹だけのようだ。校門の方面は特にさっきと変わりない。
「と、とにかく逃げよう、美咲」
恐る恐る美咲の手を取って逃げようとしたときだった。
「よう、お二人さん、どこ行くの?」
公衆電話の陰から場にそぐわない陽気な声が聞こえた。
俺達は2人してはびくっと身を綴じこませた。
見ると、さっき食堂で会った野球部が手を振っている。
「お前、さっきの」
この異常事態でも恐怖も何も感じていないかのような顔で「今夜は綺麗な月夜だねぇ」と言った。
この状況にそぐわなさ過ぎるその言動から、こいつがこの状況の何かしらを知っているのは明らかだった。
「お前、一体何なんだ?」
「ま、そんな事どうでもよくね?」
野球部は軽く笑って言ったが、不安と恐怖の入り混じった俺達の顔を見て「……ってわけにもいかないか」と言った。
「しょうがねぇ。説明してやるよ」
野球部はスライムを指差して言った。
「単刀直入に言うと、あれはここの神様なんだ」
神様……あれが?
俺のイメージでは神様というのはなんかこう、おじいちゃんで頭に輪っかがのってて杖持っててふわふわ雲にでも乗ってるイメージだ。
「昔ここには滝澤神社って神社があったんだ。ここらは軍事工場があったから空襲で燃えちまったけどな。で、そこにいた神様があれさ。もっとも、以前はあんな姿じゃなかったけどな」
そうやって話を聞いている間にも、スライムはドアから校舎の中へうねうねと入っていった。
「直孝。神社が無くなったあと、神様がどうなるか知ってるか?」
そんなの知っているはずがない。
野球部は皮肉げな笑みを浮かべて続ける。
「消えるのさ。祀られているものが神様であって、信仰があるから神がいる。信仰が無くなれば必然的に消滅するんだ」
「でも、じゃあなんであの神様はここにいるの?」
美咲が俺の後ろから野球部に尋ねる。
「ここの文化祭、滝神祭は、元々焼け落ちた神社の例祭の代わりの役割があったんだ。再建するお金もなかったけれど、そこでのお祭りだけは続けようってことで年に1回開かれるようになったのが、滝神祭の始まりなんだ。まぁその成り立ちを知っている人はもう少ないけどな。
そうして、ろくに信仰も無いけど七不思議みたいな噂話や形だけの例祭が残ってしまった。だから神様はあの中途半端な姿で、足りない信仰心を補うために毎年ああやって氏子たちの記憶の断片を喰らって補充してるのさ」
「記憶の断片を喰らう?」
スライムの方を見ると、ガラス越しに廊下をうねうねとゆっくり移動していた。
さっき食べられていた柏木が煙草を手にした格好のままでその場に残っている。
「あれには神としての力ももう殆ど無いからね。ああやって人間から祭りに関する記憶をもらって、足りない信仰心の代わりにしてるんだよ」
なんとなくだけど、あいつの正体がわかった。でも疑問は他にもある。
「どうして俺たちは時間が止まってないんだ?」
俺が尋ねると、野球部は少し困った顔をして言った。
「俺が助けたからだよ。あいつは校舎内にいる全員の記憶を奪うまで止まらないからな」
なんで俺たちだけを助けた? どうやって助けた? こいつは一体何者なんだ?
いろんな疑問がありすぎてうまく頭を整理できない。
もしかしたら今までのことが全部嘘で、時間が止まってるのも、あのスライムもこいつが原因だって可能性もある。
「皆を助ける方法はないの?」
美咲が言った。
「助けたいのか?」
野球部は意外だという表情で聞き返した。
美咲は頷く。
「だって皆、楽しそうにしてたもの。いくら神様にだって、黙ってその思い出を取っていい理由は無いと思うの」
俺だってそんなのを見過ごすのは嫌だ。
「お人好しだな……まぁ君はそう言うかもとは思ってたけど」
何故だか野球部は少し悲しそうな表情をした。
「わかったよ、そうまで言うならあいつを鎮める方法を教える。ただ、一つ約束して欲しいことがある」
野球部は真面目な表情で俺たちに告げた。
「古い時計塔の中にあれの依り代になっている小さい祠がある。そこに少しでもいいから定期的にお供えをして欲しい。ちゃんとした信仰心さえあれば、何も起こらないはずだから」
「わかった」
俺たちはその頼みを承諾した。もとはと言えばここらの人間が祭りの成り立ちをちゃんと伝承していないことが悪いんだから、その責任だってあるだろう。
野球部は俺たちに神様を鎮めて皆を助ける方法を教えてくれた。その方法とは、時計塔の鐘を鳴らすことだった。あの神様に時間が進んでいることを感じさせることができれば、依り代の祠に戻っていくそうだ。
さっそく俺たちは時計塔に向かったが、案の定入り口は白黒の扉で閉ざされていて、びくともしなかった。
「ちょっと下がってな」
野球部は俺たちに言うと、扉に手を当てた。すると不思議なことに白黒の扉に色がついて、なんとか動かせるようになった。
俺たちは時計塔の中に入った。
中はかなり暗くて、よく目を凝らさないと階段があるのが分からなかった。
俺たちは野球部を先頭に階段を登った。
その途中、どうしても気になって俺は口を開いた。
「お前は何者なんだ? 最初に話した時から不自然だったんだ、テニスコートとグラウンドは校舎を挟んでいるはずだから、俺が壁打ちしてる姿はテニス部以外そうそう見えるはずがないんだ」
野球部は階段を登る歩みを止めず、何も言わなかった。
「どうしてお前は時間を動かすことができるんだ? お前も神様なのか?」
しかしやはり何も言わない。
美咲は後ろから俺の裾を引っ張る、「もう止めときなよ」と訴えるように。
でも、俺は少しやけになって質問を続けた。
「どうして俺たちだけを助けたんだ? 何か思惑があったのか?」
すると、野球部は後ろを振り返らずに小さく言った。
「……お前らみたいなのを見ると、思い出すからだよ」
それってどういうことだ? と尋ねるよりも早く、野球部は言った。
「着いたぜ、これが時計塔の鐘だ」
指さしている方を見上げると、釣鐘式の鐘が天井から吊り下げられているのが見えた。
ガラスのはめられていない窓があり、そこから月明かりが差し込んでいた。
「俺が鐘の時間を動かすから、直孝、その間にお前はこれで叩け」
そう言って俺にそこにあったデッキブラシを渡した。
そしてさっき扉にやったように両手を鐘に向ける。その時、美咲が急に野球部に向かって口を開いた。
「あの……ありがとう。私、頑張ってみます」
何をだ?
「ああ、余計なお節介して悪かったな」
よく分からないが、野球部にはその意味が分かるらしい。
俺は気になって「何の話?」と尋ねたが、野球部はこちらを向いて鼻で笑っただけだった。そしてすっと手を鐘に向けた。鐘に青銅色がつく。
「今だ! 叩け!」
俺は釈然としない気持ちを押し殺して、手に持ったデッキブラシで思いっきり鐘を叩いた。
神社の鐘のような重い音が辺りに響く。
鐘を叩いた俺の手はビリビリと痺れた。
本当にこんなことで解決するのだろうかと疑問に思った次の一瞬、窓から紫の物体が通り抜けていったように見えた。
変化はすぐに起こった。
時計塔を中心に、少しずつ色が戻り始めた。
夢から覚めていくように空気が流れはじめ、時計塔の窓から肌寒い風が入ってきた。
虫の声や文化祭の準備をする生徒たちの騒いでいる声も遠くから聞こえてきた。
緊張の糸が切れて、俺たちは床に座り込んだ、どちらからともなく大きなため息が出た。
野球部の姿はいつの間にか無くなっていた。
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