20:軍師、祖国に別れを告げる

腕に大好きな柔らかい感触を感じる。しかし、いつもなら嬉しくなるほどの愛琳の肉体への感触と感動は皆無だ。心に蓋をされてしまった。


(思い出せ、大切なものの感触を。五感が奪われても、どこかに残っているはずだろう?感じた愛しさはそう簡単には消え失せない。ほら、そこにある。理性で理解しろ、梨艶)


 抱きついた愛琳が呟いた。


「梨艶、私を嫌いだって言ったのに助けた?」


「ああ、言ったな。芙蓉国の女というだけで許せないと。だが、お前自身は嫌いではないぞ。今だって性が整えばお前を奪い尽くす気はある。あるのだが」


 梨艶はごほ、とせき込むと、顔を背けた。


「あの香を吸って、一切、は、反応しないのだ。更にときめきや嬉しいという感情が希薄になった感じだ。俺は元々淡泊な性質だ。だからと言って、お前を嫌う理由はない。だが、俺は」


 梨艶は肩を震わせ、唇をきつく噛んで続けた。心の麻痺が痛い。愛おしいものを愛おしいと感じるどころか、遠く感じさせるなど、魔性の香としか言いようがない。


 愛しいとは何だ。愛したいとはどんな感じ方だったのか。 


「女に何も感じない人生など歩みたくない。お前の可愛らしさ、柔らかさ。それがない人生など! お、男として女に感じないなどこんな悪夢があっていいものか!」

「……あなた、本当に好色ね」

「俺のどこを見れば好色なんだ。人が真剣に悩んでいる答えがそれか! だから芙蓉の女は冷たくて嫌いなんだ」


 愛琳はその会話には取り合わず、静かに瞳を瞬かせた。


 ―――――お前を嫌いになる理由はない。梨艶はそう言いきってくれたのだ。自分があんなことをしたのにもかかわらず。


「いいよ、どこへでもゆくよ。貴方となら。例え地獄の底だって」

「そんな場所はむしろ遠慮被る。俺に引っ付いていろ。計算が狂わなければ生きられる」


 ずるりと梨艶はわざと足を滑らせて、柔らかい足場は奈落の底へと崩れ落ちた。


不敵な笑みを湛えたままかつての軍師は落ちて行くのを兵士たちはただ、見送った。


 ―――――しばし、さらばだ。我が青蘭。落ちてゆく夜の瞳に一縷、哀愁の光が走った。


 (幼少に落とされた時に一度だけ見つけた奇跡の横穴。幼少の自分の身長と己の身長差を計算すればおそらくこの真下にあるはず――)


 滝壺と、その中には逃げ道がある。皮肉にも幼少に暗殺されかけた経験がこんなところで役に立つとは人生は本当にどう転ぶかわからない。二度と逢えないであろう女に再会したことといい、その女への心を亡くした事といい。


 梨艶は目を凝らし、愛琳を率いて周辺を伺った。


(あった、あれだ)


 やがて目論見通りに見つけた。足元に大きな滝壺が渦を巻いて待ち構えている。


「気を失っていいぞ。水に飛び込んだことなどなかろう」

「そんな弱く見えるか? 大丈夫。河に流された経験あるね! 捨てられてたね、あたし」

「捨てられてた?」

「よく覚えていないよ。何かに浚われて、河に落ちた私を拾ったのが富貴后さまだよ」



*****


 梨艶はそれ以上は聞いては来なかった。


 こんなにひっついていても、梨艶の鼓動は規則正しく脈を打っている。大きな滝壺が現れた時でさえ、梨艶の鼓動が早まることはなく。滝の音が近づいて来た。梨艶の掠れ声がとぎれとぎれになるほど、水音は爆音のように響いている。愛琳の頭を抱える腕に更に力が籠る。


 鍛えられた胸筋に頬を押し付けて、愛琳は涙をにじませた。


 温かい。

 暖かいよ、梨艶。

 

―――――ごめんなさい。信じてないのは私の方だったね。


「飛び込むぞ、愛琳。祖国を捨てた俺と行こう」


 頭を抱きかかえるようにして、梨艶は水の中に飛び込んだ。かすかに聞こえた梨艶の声は水に溶けて行った――――。

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◆召しませ後宮遊戯~軍師と女官・華仙界種子婚姻譚~ 天秤アリエス @Drimica

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