9:熊猫苦手な敵国軍師

 叫ぶ愛琳の目の前で梨艶は「再会」のさの字の感動もないようにぼそりと言った。


「相変わらず見事な体つきだ。もっと、更に美しくなったな。雨霰のアイリンだったか?」


 ――覚えていた?


 歓喜極まる愛琳の前で、梨艶は冷たそうな眼を細くして、ため息をついている。


「人の名前を堂々と関所などで呼ぶな。まあ、下劣な男共を斬らずに済んだが。思わず攻撃停止命令を出してしまった。また俺が捨てた女が追いかけてきただのと、明日からしばらく噂される俺の身にもなれ」


「なんで、助けてくれたの」


「何でじゃないだろうが。人の職場に乳揺らして乱入しておいて。関所を突破しようとするなどと。目を疑ったぞ俺は。特に見張りの兵は元犯罪者が多いんだ」


 ああ、五年経ても変わっていない。あの綺麗な目も、唇も、手も。


 ――恋をしているんだよ。


 急に富貴后さまの言葉を思い出して、頬が熱くなった。それにしても、梨艶はすぐに自分のなけなしのお金で買った饅頭を泥棒する。


「饅頭返せ」


「そうですよ。秀梨艶軍師。お代を」


「首尾はどうだ」


 ちゃり、と小銭の音に混じっての会話が聞こえる。軍師? なるほど、軍師……。


武官ではなかったのだ。武官には違いないが、軍師の称号を持つという事は、相当頭が良いが、あのくだらない戦いを指揮している馬鹿の上の馬鹿。


更に自分は戦いに参加しない卑怯者。愛琳の中の軍師像は決していいものではない。


軍師は人のウラをかく天才だ。


愛琳の眼が少しだけ疑いの眼になったのも構わず、梨艶はいつかのように饅頭の餡をなめとり、文字通り舐めるように愛琳を見やった。


「俺との約束を護ったようだな。いい女になった、来い」


 そして思い出した。この人は人の話を聞かない強引なのだった!


 ぐいと手を引くと、梨艶はその腕に愛琳を押し込めて、顔を上向かせた。何があるのかもう分かる。また、あの接吻だ。屈辱の、快楽のキスを受けるのだろう。


 抵抗すら与えない見事な手腕で。静かにこの男は自分を引き寄せてしまう。瞳と瞳がかち合って、愛琳は無意識に梨艶を見上げていた。


 五年前に、自分の唇を奪った男性――。


(あれから紅の色を変えなかったのは。青蘭の男を蓬莱で見つけては、がっかりしたのは貴方ではなかったからだよ。梨艶)


 愛琳の眼が伏せられた。長い反り返った睫がぴくぴくと動いている。その目をゆっくりと開いて、瞳を潤ませると、愛琳は言った。


「あ、あたし、あなたに逢いたかった」


「俺もだと言ったら?」


 彼に衆人環視という言葉はないらしい。


人々が環を作り、二人を見ている。その時愛琳の胸で何かが音を立てた。熊猫が苦しさで蠢いている。足が胸を柔らかく押した。


「っふ……あ……くっ……」


 くすぐったくて思わず身を捩る。うりうりと自然と体を揺らす愛琳に至極満足そうな声が降った。


「俺が近づいただけでそうなるとは光栄だ。何といういい女だ。おまえの乳房は意志を持っているのか? 相変わらず見事な膨らみを」


 かさかさと書状を踏みながら小さな熊猫の子供が胸元に上がってくる。しまった。書状を踏まれてしまった。慌てて熊猫を押し込めようと自分の胸に手を伸ばす。


(あは、だめ、くすぐったいね。……も、外出て、外!)


と、胸元を開けると、ぴょこんと赤子の熊猫は顔を出し、美麗な顔を引き締めたまま、梨艶は胸元を凝視した。ちょうど谷間から顔を出した熊猫が鳴いた時など、後ろを向いてしまった。


「そいつを仕舞ってくれ。後生だ」


「え?」


「苦手なんだ、それ……どこかへやってくれ」


 ――熊猫が苦手?こんなに可愛いのに?


 愛琳がそれをだっこしたまま近づくと、梨艶はすざっと後ずさった。可愛いのにと愛琳はボヤくと、元通りに胸元に帰ってもらい、「見えなくしたよ」の声に梨艶はようやく正面に向き直った。


「すまない。情けないところを見せた。ところでおまえは何をしてるんだ?青蘭の民だったのか?」


「青蘭の宮殿に行きたい。連れて行って」


「宮殿? やめておけよ。むざむざ命を落とさぬでもない」


 梨艶が険しい顔をして拒絶したので、愛琳はまた熊猫を抱き上げて見せた。また梨艶がう、と動きを止めた。ふるふると頭を振っている。


「連れて行ってくれるね? この子、攻撃させるよ」


「……ついて来い。悪女も悪くない。だが、熊猫は勘弁だ。羨まし過ぎる……」


 どうやら本当にこの生き物が苦手らしい。軍師には劣るが、女官の知恵というやつだ。

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