5:隣国の皇太子への書状

 ――――――――――――――――――――――――――――――

 ――――――――――――――――――――――――

 ――――――――――――――――――………………

 

 遡って五年前の事である。


『私に青蘭への使者になれと?』


 蓬莱都からの帰途。富貴后が愛琳に告げた。


『そなたは腕が立つし、機転も良い。どうせ他の者に言っても断るだけだろうしな』

『当たり前ね。芙蓉の女官だなんて看板、火に油注ぐ。捕えられて終わりね』


『であるから、そなたはただの愛琳として、書状を皇太子に届けて欲しい。放った白鷺からの情報だ。宮廷は皇帝の命令に逆らえず、母と娘を質に取られ、戦いに赴いているとな。そんな馬鹿は止めろと書いてある。これを皇太子に渡して欲しい。形式上、書状が必要だろうから、用意したまで。李劉剥りりゅうはくと元服し名前を賜ったそうだ』


『皇太子? 李劉剥さま?』


『そうだ。表だっては出て来ぬが、大層頭が良いと聞く。私がゆくことも考えたが。皇帝に肉体の闘いを挑もうにも、爺過ぎて好みには程遠い。それに夫が妬くのも鬱々して来るしな』


『あまりに危険ね! 私は皇帝さまに恩ある。喜んで引き受けるよ』


『そう言ってくれると思っていたぞ愛琳。だがまだ皇太子に力はない。暗殺されぬよう祈るばかりだ。だが皇太子は時期が来れば蹶起するだろう。その時は天壇にて皆に知らせる。我が国が真の平和を望んでいる事を民に打ち明けよう。そなたはその報告を待つがいい』



 皇帝素敵!皇后素敵!芙蓉国に幸あらんことを!


 歓声が広場に広がってゆく。大方「ごほうびヤッター!」の下心ミエミエの黄色い声の中、皇帝と皇后が降りてきた。皇族さま方に続いて徳妃たちに、その女官、そして武官に後宮勤めの女官を合わせると、三千人ほどになる。


 十八般兵器、梢子棍、青龍偃月刀、大刀 、中国剣、中国刀、桃氏剣に薙刀。最後の警備も兼ねて、女官たちは各々の武器を構えて天壇を後にする。そうして姐女官が最後に天壇こと銀龍楼閣を引き払ってゆくとさっきの喧噪が嘘のように場は静まり返った。


 愛琳は少し不安になりながら、広い天壇の広場にこつんと座る。


「富貴后さまの命にて、お手並みを拝見させて貰うぞ、王愛琳」


 女官・宦官がすべて引き払った後で、富貴后さまの側近の「淑女官」がうやうやしく愛琳の前に膝をついた。彼女たちの仕事は女官の力量を測り、監査する事だ。顔を半分隠した女武官の前で、愛琳は薙刀を構えた。


「望むところね。来るがいいよ」


 気概を込めて相手を睨んだ。芙蓉国の女官は武術が長けているのが条件だ。幼少から訓練を積んだ愛琳の動きは素早い。


夕焼けの広場で剣が交差する。薙刀を振り回しながら、愛琳は顧みた。


 たった一人で敵国へ行くことに恐怖がないわけがない。それでも、それは愛する富貴后さまの願いだ。出来る事なら、誰にも渡したくない。どんな試練でも、尽さなければ。愛してくれた謝礼代わりに、この身に代えても。例え命を果たしても。それが矜持だ。その気概は相手を圧倒し、カシャン、と剣が薙刀に払われた。


「勝負ありよ。まだやるか?」


 愛琳は言った後で、大丈夫?と手を差し伸べて見せた。だが横の女官が板に乗せた黒塗りの文葛籠を差し出し、その紐を解いて見せ始める。高級な文葛籠だ。


「では、これが富貴后さまからの書状です」


 開けた瞬間に富貴后の麝香の香り。少し汗ばんだ手で愛琳はその書状を受け取った。書状を見ていると重責で両肩が下がって来るようにすら感じた。立派な御料紙で綴られた書状は金色の紐で止められ、更に金粉をまき散らしているのか、指先が離れた後に、宙をきらきらと光らせた。


「しかと御預り賜ります」


 いつまでも慣れない宮廷敬語を口にしながら、一度だけ書状を掲げ、胸元に押しこめて、着物の合わせをいつもよりきつく合わせる愛琳を姉女官が抱擁する。


「愛琳、我らの可愛い妹女官。出立は夜でない方がいいとの仰せです」

「御意ね。すぐに出るよ」


薙刀を下げた愛琳は笑顔になった。それにしても、どうしてこんなに暗い顔をするのだろう。愛琳は姐女官の手に手を添えた。


「もっと明るい表情して、姐女官さまたち。ちゃんと書状を届けて、胸張って帰る!」

 離れるなら、早い方がいい。でないと寂しくなってしまうだろう。


「支度するよ。すぐに出るね、寂しい気持ちは分かってるよ」


 愛琳は銀龍楼閣の対になる宮殿、麗水宮――――いわゆる後宮である――――の中に局を持っている。既に秘密で女官が荷造りをしたために愛琳の部屋はがらんとしていた。


「母様、愛琳、頑張ってみる。見守っててよね」


 いつもの腰壺をしっかりと括り付け、書状をどうしようか迷った。手に持っているよりはと胸の間に押しこめて見た。今度は胸がいつもより浮き出て来たので、帯紐を三分紐に変更で支度完了。薙刀を掴んで、出陣である。


「愛琳」

「富貴后さま。わざわざ来たのか?」


 着物の裾も香しい、富貴后が僅かな供を連れて、愛琳の局を訪れた。


「さすが私の育てた女官。行動が迅速だな」


「宦官たちが夜に紛れてゆくのは危険だと言うから。もう私、待つのは嫌いだよ」


「逢えると良いな」


  不思議そうな表情の愛琳に富貴后は嫣然と微笑んだ。天艶の微笑である。


「そなたの唇を奪った男にだよ。私は国事や争いに興味はあるが、実は愛琳、その話の方に興味がある。だからそなたに決めた。何と美しい事だろう。5年を経て、巡りあえる奇跡とやら。そなたに奇跡を感じて欲しくてな。そやつの名前は?」


 鮮やかに愛琳の目の前のあの日の男の姿が甦る。忘れる事ができなかった名前と共に。


 ―――――秀梨艶。覚えているよ。だって、素敵だったもの。


「そんなこと忘れてたよ。――富貴后さま…」


 愛琳は目を潤ませて富貴后を見つめた。そうしていると心が穏やかになって、本当に必要なことだけが浮かび上がってくるような気さえする。そう、富貴后には不思議な魅力がある。そこに在るだけで、幸福にさせてくれるような、郷愁に似た何か。


「私は唇奪われた。なのに、そのこと考えると狂おしくて胸が痛くなる。だから考えないようにしてた。でも、気が付くと考えてる。そうすると少しだけ幸せになる。そんなの私じゃない。何かに支配されてるみたいで嫌だったの」


「そんな事はない。それを狂おしい程求めると言うのだ、愛琳」


 富貴后はゆっくりと告げた。


「そなたは、あの雨の日からその男、梨艶とやらに恋をしているのだよ」


 呆然と呟く愛おしい熊猫頭を撫でて、富貴后が微笑む度に大柄のウエービーヘアが揺れる。その顔に母の面影が重なって、愛琳は唇を軽く噛んで少し俯いた。


恋。


 言葉はストンと胸に落ちた。花開くように輝いて、愛琳の心に根付いてゆく。どんなに苦しくても、思い出すと幸せになれる。不思議な大切な記憶だ。


「とっても素敵! 景色が変わって見えるよ!なら、私はあの人にもう一度会いたいと言っても変じゃないね! すっごくすっきりしたよ」


「ほほ、そなたらしい答え。明日からの後宮は少し寂しくなるであろうが」


「大丈夫ね。富貴后さまがコロコロ笑ってればいいね。安心して」


 ようやく愛琳らしくなったと富貴后は胸を撫で下ろす。恋に気づかず苦しんでいたという理由は本当にこの熊猫娘らしい。あまりに愛らしくてずっと手元に置きたかったが時期というものかも知れない。


「富貴后さま、あまり長居は無用でしょう。使者が王愛琳だと感づかれてしまいますよ」


 廊下に控えていた宦官陵冴が窘め、富貴后は頷いて着物の裾を裁くようにして、愛琳の局を潜り出ることになった。


「乳兄弟の陵冴には明かしたが、それも面妖だな。女官、王愛琳。道中は気をつけてゆくがよい。そなたなら、完遂できると信じているから」

「任せるね。必ず皇太子さまに届けるよ」

 愛琳は頷いて女官の嗜みの礼をして見せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る