6:青蘭国へ。和解へ女官、旅立つ
「馬はどこ」
「ついて来い。裏に用意させてもらったから」
宦官の口調は皇后が去ると同時におさななじみのそれに変化している。長い体型の出ない衣装は宦官ならではのデザインだ。男のしるしを取った彼らはそれでも時には性欲の元に自我崩壊して果てるものも多い。合わないものは去勢の際に既に崩壊を起こす。だが陵冴は冴える瞳だけは曇らせず、その姿勢は宮殿内でも高く評価されている…なんて理屈は愛琳には通じない。
徳妃たちに可愛がられている陸冴が少し気に入らないのも事実だ。
「何よ、偉そうに」とか悪態をついて、薙刀を片手に夜の後宮を抜け出し、西安の門に向かい始めた宦官の腕を掴みあげた。西安の門は罪人の流刑に使われた門だ。そんなことは芙蓉の女官なら皆知っている。
その門に向かっているのを悟った愛琳がむっと眉を上げた。
「私は罪人じゃないね!」
「仕方がない。正門に皇帝の弟たちがいるのを知らないわけではないだろう。まあ、こっちの門からなら蓬莱にも近い。蓬莱まで辿りつけば、青蘭まではすぐだ。密林には熊猫くらいしかいないだろ。お前の仲間だからきっと群れに加えてくれるさ」
「陵冴、いつにもまして毒舌ね。何を苛々してるね」
陵冴はそれには答えず、西安の門の前で足を止めた。くうくうと兵たちが夢も見なそうな眠りに落ちている。
「みんな寝てる。仕事してない、賃金泥棒ね」
「富貴后さまがな、おまえが暴れて問題を起こさぬようにと眠り薬入りの酒を振る舞った。彼らは夢を見ぬ眠りを貪り中だ」
愛琳は眠っている兵士たちに「それは勘弁ね」と声をかけて、見えないように止まっていた馬に乗った。宦官がその態勢と捲れ上がった衣装を丁寧に直した後で眉を潜める。
「お前、まだ母親の仇を探しているのか」
そう言えば、一度だけ陸冴には話したのだった…。愛琳が武術を選んだわけを。愛琳は一つの決意を秘めている。女武官の厳しい日々を支えたのはその本懐を遂げるため――。
「探してるね。でなきゃ、薙刀なんか振り回さないよ。…ゆくね!」
ハイヨーの声と同時に愛琳の足が馬の脇腹を思いっきり蹴った。馬声を上げた馬は前足を高く上げてしまい、愛琳は慌てて首にしがみ付く。用意された旅支度の籠をふるい落とし、馬がぶるると鳴いた。荷物を邪魔とばかりにウマが背中から振り落とす。
「愛琳! この注意力散漫女官め!徹夜で一式揃えた俺の身になってくれ!」
さよならの雰囲気ではない。暴走馬にしがみ付くのが精いっぱいの女官は瞬く間に見えなくなる。いつでも賑やかな王愛琳。確かに腕は立つ。
――女官人を敵国に向かわせるなんて。富貴后さまは何を考えているんだ…。
宦官は捨てたはずの気持ちを少しだけ思い出し、夜明けの芙蓉国の空に祈った。
あの破天荒な熊猫娘が何事もないよう、御守の上、御戻し下さい―――――天女さま。
星は静かに落ちてゆく。芙蓉国の空には流星が暫し目撃されるのだ。ただし、それは凶星と呼ばれ、天から不運が降ってくると言い伝えがある。
やがて宦官は流れ星を睨み、落ち切ったところで、踵を返した―――。
****
『いいですか、愛琳。ウマは脇腹を軽く、かるくですよ?蹴ってあげると進むのです。くれぐれも思いっきり蹴ってはいけませんよ。ウマが驚いて足を上げ、錯乱しますからね。ウマはデリケートで神経質。愛琳!貴方よりずっと繊細なのですよ』
馬術の大師の言葉を今更脳裏に流したが、後の祭りだ。馬は驚いた弾みに超速急で蹄を鳴らし、芙蓉の夜の街を駆け抜けて行った。愛琳の事などお構いなしに走る走る。
――忘れるなよ、お前は俺の女だ。俺は秀梨艶だ。次に逢った時はお前を貰う。それまで女を磨け――。
馬の強引さに導かれるように忘れていた梨艶の言葉を思い出した時、空は暁の天光に包まれ始めていた。夜明けだ。芙蓉国では天女が降臨する時間だと湛えられる時間。愛琳は馬を止めて、遠くなる芙蓉国を振り返った。
ようやく手綱のいう事を馬が聞いてくれた。愛琳はどうどうと手綱を握り、山地に向かう分かれ道で一度馬を止める。
――大好きな天壇の高台も、宮殿内の桜霞大水法の噴水も、しばらくお別れ。
遠くなる、大切なひとたちを想うと、涙が滲む。馬を進ませた山中で愛琳は倒れた人々を何度も見ることになった。息絶えて、土に埋もれてゆく人々の姿。宮殿にいては見られない本当の世界のすがた。普通の女官から驚いて馬を蹴り、引き返すのだろう。だが、愛琳は見ないようにして、その山岳地帯を走り続けた。
――こんなの間違ってる。だから富貴后さまは自分に希望を託したのだ。
何としても、李劉剥さまに逢って、争いを止めさせなければ。それはきっとふんぞり返っている皇帝の巡遊軍よりも大役に違いない。今こそ富貴后さまに恩返しをするいい機会だ。
「感傷に浸ってる時間ない。屡紗、今度は蓬莱都までゆくね」
そう馬に語りかけて跨った時だった。鍛えられた女官の五感が訴えた。ピクンと耳が気配を察する。何かがいる。
「屡紗、ここにいる、いいね」
馬を宥めて、声を押し殺して、薙刀を構える。誰もいない山地。蓬莱に辿りつくには小さくとも険しい山脈超えをしなければならない。よく富貴后さまの御忍びで使った山道だ。ここを抜けたら蓬莱都の山東。村を作るには険し過ぎるからか、山賊の姿も見ない。
でも何かが潜んでいる。
「……そこねっ」
薙刀を力いっぱい闇の方へ投げる。ビイインと音がするが、多分地面に突き刺さったナタが震えた音だろう。愛琳は刺さった薙刀を構え直して、腕を降ろした。空気が元に戻ってゆく。
――閑古、静寂。
『何か』は去っていったのだろう。愛琳は額の汗を拭う。――この嫌な「何か」がいる気配には覚えがある。この黒い気配は、母を襲ったものと同じ。母は山賊に殺されたとして富貴后が手厚く埋葬してくれたために、今は郊外の墓地に眠っているが、本当は違う。
(黒いものが母さんを襲った。私も狙われた。でも、何かが助けてくれた。でも、私は見た。黒い大きな白鳥が母さんを包み込み、首を締め上げた)
あれと同じモノなら、私が殺さなきゃいけない。私ひとりの手で、やってみせる。
明け方の風が愛琳の髪を攫ってゆく。山東の山脈付近の気候は山麓の芙蓉国よりも少し低い。早く蓬莱に辿りつかなければ、風邪を引くかもしれない。
「何もいなくなったね、屡紗、ゆくよ」
まだ腑に落ちないように熊猫娘は後ろを振り返っていたが、やがて勢いよく馬を走らせるのだった。
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