第15話 僕は長編が書けない

 楽天カードマンばりにいきなりですが、引用させてください。


『ミステリマガジン2001年8月臨時増刊号ノワールの時代』収録「【豪華対談】馳星周VSデイヴィッド・ピース――すべてはエルロイから始まった」から、馳星周の発言です。


「短編を書くのは長編小説よりもずっと手間がかかるのに、報酬はずっと少ない」

  

 いや、嘘だろう!


 そう思います。いえ、報酬の話は知りませんよ。問題は前半部です。


 短編を書くのは長編小説よりも手間がかかる?????


 本当ですか、それは。


 では、なぜわたしは短編が書けても長編が書けないのか。



 以前にも言った通り、わたしは2013年に創作をはじめました。


 ですから、今年で創作歴6年になります。その間に発表した小説はおよそ90作。そのほとんどが掌編を含めた短編小説です。あとは、中編小説が何作か。1作の最大文字数は5万字ほどです。


 つまり、そう。長編小説を書いていない。


 書こうとしなかったわけじゃありません。旧エッセイにも書いた通り、ずっと暖めていた長編の構想がありますし、その他にも何作か長編のプロットを考えています。中には、本編を部分的に執筆しているものもあります。それでも、完成させたことはない。


 なぜ。


 いろいろ理由は考えられるんですが、まずひとつに、調子の波が激しいことが挙げられます。


 例のスランプに陥る前から、書けるときと書けないときの差が激しく、書ける期間はもって2ヶ月といったところでした。その後、数ヶ月は充電期間に入ってしまう。一息に長編を書き切るには厳しいものがあります。そしていったん間が開くと、同じ話に対して興味を取り戻すのは難しい。


 もうひとつ。長編は短編に比べてより多元的な構造が必要になってくることが挙げられます。端的に言って、引き出しを多く持ってないと書けない。ほとんど人間力の勝負になってくるんです。


「それらに共通する構造を考えてみると、短編、中編よりも拡散的、写実的で、一見むだな卑俗な部分を含む緩い構成が特徴といえる。したがって、矛盾を含む多元多重的記述が可能で、論理的思弁を超える、複雑で不定形な人間心理や社会的現象をとらえるのにいっそう適し、それが逆に、近代の小説家たちに、総体的で実証的な現実認識と人間探究の手段として、長編小説を利用させるに至った」

 日本大百科全書(ニッポニカ)「長編小説」より


 とのことです。


 たとえば、特定のキャラクターを描くにしても、短編なら一局面を描けばすむところを、長編ではそのキャラクターの経歴だったり生活、社会的な立ち位置を描く必要が出てくる。その社会には、また別のキャラクターたちがいて、彼らにもそれぞれ生活があり、経歴がある……といった風に世界がどんどん広がっていくんです。


 かように、キャラクターが増えたことで生じる人間関係や、そこから見えてくる組織の性格、ひいては世界観など「特に書くつもりもなかったディティール」をいちいちリアルに描く必要が出てくるのです。つまり、考えるべきことが階乗式に増えていく。


 知識や経験、あるいは取材力がある書き手なら、自然にシミュレートできるのでしょうが、そうでないととてもじゃないけど描き切れない。もちろん、背景の解像度を下げることでシミュレーションを簡略化することはできますが、そうなると今度は内容が薄くなりおもしろくない。



 もちろん、短編にしたってディティールは必要です。しかし、長編ほど多元的な構造が要求されることがないだけ楽です。


 たとえば、1作で10万文字の長編と、何作か合わせて10万文字にした短編小説があるとします。みなさんだったら、どっちの方が簡単に書けると思います?


 わたしは絶対後者だと思います。


 というのも、長編は全体の構成から、必要とされるディティールの方向性が限定されてしまう。この話の展開なら、このキャラを掘り下げなくてはならないとか。この舞台を描かなくてはならないとか。


 対して、短編は自分が描けるディティールありきで話を組み上げることができます。そして、1作1作で完結するため、長編と違って全体の構成からディティールの方向性を限定されることもない。もちろん、短編にも「特に書くつもりもなかったディティール」は発生しますが、長編のそれに比べればわずかなものです。


 ね、長編の方が難しいでしょう?



 尤も、短編が大変だという理屈もわからないではないんです。短編はたしかに長編と比べて文字数は少ないかもしれませんが、かといって、一概に長編よりも世界が狭いとも言い切れない。


 そんなことを考えるとき思い出されるのが、ヘミングウェイが提唱した創作の技法、いわゆる「氷山理論」です。


「もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、水面下に隠された八分の七の部分に存するのだ」

 ヘミングウェイ『午後の死』(高見浩訳)


 ここで重要なのは、「主題を熟知しているなら」という点でしょう。つまり短編を書くにしても、表に現れる八分の一だけでなく、水面下の「八分の七」まで考えておかなければならない。


 氷山理論は主に短編で採用される考え方です。「殺し屋」に代表的なように、ヘミングウェイの短編はそれだけ読んでも話の全容が理解できない作品がままあります。しかし、おそらくヘミングウェイの中では、その全容がしっかり考えてあるのでしょう(なお、わたしも「喫茶カテドラル」という短編で「殺し屋」を元ネタとした氷山理論の実作に挑戦しています)。

 

 そうなるとけっきょく、長編を書く手間と変わらない、と言うことができるかもしれません……………………


 って、言える?


 本当に?


 ここまで引っ張っといてなんですが、わたしは疑わしく思います。


「その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである」


 これは、言い換えると、長編は短編が仄めかすに終わっているところを具体的に描くということです。だから下手をすると、わかりきってることをいちいち追認するだけの内容になってしまう。予想外のものが何も出てこない。そんな内容に。それじゃおもしろくありませんよね? だから、ディティールを鮮明に描くなりして世界を広げる必要がある。


 つまり、けっきょくはディティールですよ!


 そりゃあ、短編でも背景を考えなければならないかもしれない。けれど、長編ほど具体的な形である必要はないじゃないですか。それを書かないでいい分、長編よりは格段に楽なはずです。


 逆に言うと、だからこそ長編は難しいし、人間力が問われる、というのがわたしの自論です。


 人間力がないと、どうしても内容が貧しくなります。もちろん、プロの作品がみんな「内容」があるかというと決してそうではないし、「心地よいストーリーラインさえ設けられればわかりきったことの追認でもかまわないんだよ」ってスタンスの作品も少なからずあります。


 ただ、自分で書くならそういうのは嫌だなあと思ってしまいます。


 ですから、自分でハードルを上げてるんですよね。


 プロのやり方を真似できないので、自分なりのやり方を見つけるしかなかった。それがオリジナリティにつながった部分もあるかもしれませんが、けっきょく形にできてないのでどこまで有効かわかったもんじゃないです。



アーネスト・ヘミングウェイ「殺し屋」

http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/killers.html


「喫茶カテドラル」

https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054885331548/episodes/1177354054885337306

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