『神との対話』の神の正体は? ~パウロの手紙とペテロの手紙がにせ著者の理由~


『神との対話』(ニール・ドナルド・ウォルシュ著)という、有名なスピリチュアル本がある。筆者は以前、この本には大変お世話になった。

 先日、読者から寄せられた質問の中で、「神との対話のあの神って、ホントに神なんですかね?」という質問があった。今回、そこのところを整理してみたい。



 この問題に答える前に、整理しておかねばならない前提がある。

「神」 というものをどう定義するか、である。

 神との対話が誕生した土壌は、キリスト教文化圏である。

 そのことを踏まえると、あちらで言う神とは——



 ①唯一神。日本の神様みたいに、人間チックに色々いたりしない。

 ②天地創造を成し遂げ、世界のすべてを統べ治める全能の存在。

 ③すべての真理を知っている最高の知恵者。(神だから当たり前)

 ④完全なる善。(悪はない) 完全なる愛。(エゴや醜い心はない)



 まぁ、だいたいこんなところだろう。

 では、「神との対話」に登場する神が、キリスト教が指す神そのものズバリかと言えば—— 



●神ではない。



 ……って言うか、キリスト教が言うような「神」自体がいないのである。

 神との対話の神が神ではない、というより、そもそも宗教が考えるような神がいないのである。

 悟り系スピリチュアルの世界においては、『くう』という言葉がよく登場する。

 よくある誤解が……



 くう=神



 宗教で言っている神を、くうにまるごと当てはめる。

 これは、かなり乱暴な行為である

 では、くうが神とどう違うか、相違点を挙げてみる。



 ①意思がない。

 ②意思がないから、考えない。考えないからしゃべらない。自発的に何かをしよう、と思わない。

 ③自他という概念がないので、自我がない。だから「私は神である」 なんて言ったらおかしい。

 ④愛とか光とか善とか、何かの属性で語ることができない。すべてであるか、「無」か。



 神も空も、「これ以上上をたどれない究極存在」 という意味では共通している。

 しかし、それ以外が全然違いすぎる。

 神の方は、一元性の究極存在としての条件をことごとく満たしていない。

 何かをしようと思うやつだし。しゃべるし。悪の要素がないらしいし。

 自我があって、人間のように意図を伝えて来たり外部に働きかけたり……それを神と呼ぶのは自由だが、究極存在などではない。



 ここまで考察した時、神との対話の「神」がどういうものか、浮かび上がってくるではないか?

 神との対話の神は、人間とベラベラしゃべっている。

 つまり、「自分」という分離意識を持ち合わせている。

 だからまず言えるのは、こいつは究極存在ではない、ということ。

 根源ではない。

 それどころか、この二元性世界に属する存在である。



●おそらくこいつは、何らかの高次の霊的存在である。



 多分、あちらには似たようなやつがゾロゾロいると思う。

 その中のひとりが、確信犯的に人間の考える神の役割を演じたのだ。

 神は唯一というイメージは、あまり推奨しない。

 どちらかというと、日本の神様のような多神教っぽく考えたほうが、実際に近い。



 だって、究極存在(くう)が、自分からは何もしないやつなんで。

 下っ端というか、配下というか。実行部隊が必要だった。

 それこそが、「神」だ。だから神は、自分というアイデンティティを持つことができ、人間にメッセージを与えたりと、我々の次元の世界にアクセスする能力がある。

 


 神との対話の神は——

 究極根源をあくまでも神だと定義したい場合は、あきらかに神ではない。

 しかし、宗教で言う神、この世界を創造した神は、そうすることのできる自我意識を持った存在なので、究極存在どころか単なる霊的存在に過ぎない。それを神と呼んでいいならば、神だと言える。

 筆写がいくつもの執筆記事を通して言い続けてきたことだ。すべては二面性があると。切り口によって、神との対話の神は「神でないと言うこともでき、神だと言うこともできる」。



 最後に、この話題に触れておこう。

 なぜ、神との対話の神は志村けんのように「あたしゃ神様だよ!」なんて名乗ったのか。



 ①ある意味、本当に神だから。

 ②ウソも方便。



 ①に関して。

 究極は、ワンネス。2も3もない、ただの『ひとつ』。

 そういう意味では、この宇宙は大掛かりな一人芝居。

 これがホントの、『劇団ひとり』 !?なんてね。

 だから、この霊的存在が自分は神だ、というのもまるっきりのウソではない。

 成り立たなくはない。それを拡大解釈したら、私たちだって「神」である。

 


 ②に関して。

 これは、聖書時代の昔から行われてきた。

 新約聖書に、パウロ(キリスト教の創始者)の手紙とされる文章がいくつかある。

 イエスの弟子のペテロが書いたとされる手紙、ヨハネが書いたとされる手紙。

 


●これらのほとんどは、本人の作ではない。

(注:いくつかは本人の作と認められる文書もあるが、数としては少ない)

 彼らの名を語った、どこかの誰かが書いたものである。



 なぜ、そんなウソをつく必要があるのか。

 昔、教会というものができた当時、なかなか組織をまとめるのが大変だった。

 教会の責任者ごときが指導したり注意したりしても、皆勝手を言ってなかなか従わない現実があった。困り果てた指導者たちは、苦肉の策を思いついた。

「そうだ。これをあのパウロ大先生やペテロ大先生が言ったことにしたら? 皆言うことを聞いてくれるんじゃないか?」

 そういうことで、有名人の名を語って勝手な手紙を書いたのは、人々に言うことを聞かせるために、良かれと思ってやってしまったことなのだ。

 あなたが言ったんじゃダメで、「あの人が言ったんなら」ということで従ってくれることってありますよね。

 だから、神との対話の神は、これが本になり世界中で読まれることを想定して、一番欧米人が聞く耳を持ちそうな設定……つまり、あのキリスト教の「神」が語っているのだ、とすることで、受け入れられやすくする効果を狙ったものと思われる。



●なかなかやり手じゃん、神との対話の神って。



 この世で「神からの声が聴こえた、あるいは聴いた」という場合は、唯一絶対の存在からの声ではなく、高次元に大勢いる霊的存在の一人からのチャネリングに過ぎない。ましてや、「空からのメッセージ」なんて、あるわけないものの最たるものである。「空に触れた」「空を体験した」「空につながった」「空からのメッセージを受け取った」などの文句に出会ったら、ちょっと気を付けたほうがいい。

 本当には分かってない可能性大である。

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