カインとアベル① ~実はアベルよりカインのほうができるやつだった~

【カインとアベル】


 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主(神)によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。

 主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。

 主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」

 カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」



 創世記 4章1~9節



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 これもまぁ、ある程度有名な話ではある。

 アダムとイブの失楽園が、人類最初の「罪」なら——

 カインによるアベル殺害は、人類最初の「殺人」である。

 親子二代に渡って、何ともシビアなお話である。

 しかも、他人を殺したのではない。兄が、弟を殺したのだ。

(皮肉な状況だが、この時は地上に人類が少なかったので、殺したら近親者になってしまう)



 この物語も、どう解釈するのか意見の分かれるところである。

 一読すれば、「妬み」が問題だと感じる人が多いだろう。

 兄カインが、地の産物(農作物)を神様に捧げた。

 弟アベルが、いい羊の肉を神様に捧げた。

 神様に受け取られたのは、アベルの供え物のほうだった。

 なぜ?

 神様は、肉が好きだったから? (んなアホな!)



 アベルのほうがより神に近い立場、カインのほうがエゴに囚われた立場だと見る人も多い。

 アベルは、普段から神様に近い、信仰の優等生。

 カインは、どちらかというと自分勝手で粗野で、「不良キャラ」 。

 だから、アベルに対して「どうせオレなんか」という気持ちを持っていた。

 アベルのほうが、神様に愛されている、という思い込みがあった。



 そんな時、神様にお供え物をするイベントがあった。

 カインは、フツーに出来た農産物を供えた。特に工夫なく。

 しかしアベルは、聖書本文に「羊の群れの中から肥えた初子を持って来た」とあるように、供え物にまごころを尽くした。

 ただ、羊を供えるのではなく、その上にもうひと工夫凝らした。

 羊の中でも、「最上等」なものを神様に備えたのだ。

『ほこたて』ではないが、これはアベルの供え物のほうが勝っていた。

 ある意味、当然の評価なのであるが。カインにしたら自業自得であり、いま一歩だっただけなのだが。

 悔しかった。

 なぜ、アベルだけ? なぜあいつばっかり、オレより愛される?

 普段からそうだ。神のヤツめ。

 もし、オレが逆の立場だったら、アベルのような工夫を思いついたかもしれない。一番いいものを捧げよう、って自然に思えたかもしれない。愛されてる、って実感があったら、難しくなんてないはずさ。

 不公平だ。

 神よ、なぜアベルだった? なぜオレじゃなかった?

 せめて、なぜ同等に扱ってくれなかった?



 一般的な解釈に照らせば、だいたいこういうドラマになる。

 ここでの大前提は——



●カインの供え物は、アベルのものに劣っていた。

 キャラ的にアベルのほうが優等生的で、カインの方が劣等生的。



 これが前提として、解釈が行われている。

 今日は、これをひっくり返してみよう。



 逆転の発想をしてみる。

 


●実は、アベルの方が劣等生的で、ダメなやつだった。

 カインの方が頭がよく能力的にも優れていて、優等生的だった。



 こういうキャラ設定だったと考えてほしい。

 兄のカインは、イケメンで運動神経もよくて、インテリだった。

 たいがいのことをそつなくこなし、自分こそ神様に一番近い信仰者だと思っていた。一方、弟のアベルは精神的にも幼いハナ垂れ小僧で……いつも兄のおしりにくっついて歩き、「兄さんはすごいなぁ~」が口ぐせ。

 そんな弟を兄は決してきらいではなく、「しょうがねぇなぁ」と面倒を見てやっている。だがそれは、正体を正せば 「コイツはオレより下」という優越感である。

 脅威ではないから、安心して優しくできるのだ。



 でもある日。神様にお供え物をするイベントがあった。

 アベルとカインが、参加した。

 勝敗は、目に見ていた……はずだった。

 何事にも気が利き完璧で、優秀な兄カインが圧倒的有利。

 対して、アベルは神様を怒らせないようにできただけでも上出来、というレベル。


 

 間違っても、アベルが勝つなどということはあり得ない。

『ロッキー』というボクシング映画で、ロッキーがアポロに勝つなんてない、1ラウンドそこそこでマットに沈められる、とアポロ本人も大勢の人々も考えていたのと似ている。

 カインに、不安も焦りも、これっぽっちもなかった。

 すべては計画通り。神様は、まず間違いなく私の完璧な供え物をお選びになる——

(実際、聖書の原文においても、カインが完璧にお供えの儀式をこなした、というニュアンスで読める読み方もあるのだ。)



 でも、ここで大変な番狂わせが起こった。

 なんと、自信満々だったカインの供え物が、神様に選ばれなかったのである。

 その時の、衝撃を想像いただけるだろうか。



 ええええええええ~?



 うそだぁ!

 なんで? なんで? なんで? なんで? なんで?



 劣った人間が優れた人間を妬む。自分より幸せで、恵まれた人間を妬むというのは分かりやすい。でも、殺害するほどの動機としては、弱い。説得力に欠ける。

 そんなものよりも、もっと殺意の湧くエネルギーがある。

 もっと、破壊力のある動機がある。

 それこそが——



●どう見ても、自分の方が優れているはずなのに。

 どう見ても、相手の方が劣っているのに。

 その相手の方が、あなたに勝つ場合。

 その相手の方が、あなたよりいい目を見る場合。

 あなたのほうが、正当な評価をもらえなかった場合。



 これなら、カインがアベルを殺してやりたいと思った動機としては、しっくりくる。実は、我々人類においても、こちらの動機の方が、御しがたいのである。

 自分より優れた、恵まれた人間に対する嫉妬よりも、自分より劣った人間、自分よりできていないはずの人間が自分より評価された場合、幸運を得た場合に生ずる怒りの方が、もっと強力な負のエネルギーとなるのである。

 実は、カインとアベルの物語は、これを言おうとしたものである。

 劣った者が優れた者、よりよい境遇にあるものを妬んでの殺人など、三文芝居もいいとこだ。人類最初の殺人の動機としては、弱すぎ。



 本書に収録されている記事『ぶどう園のたとえ ~働かざる者、食べてちょ~だい!~』 の中で触れた話と重ね合わせてほしい。

 たった一時間働いた者と、朝から夕方までずっと働いた者が、同じ給料だった。

 当然、多く働いた者は 「不公平だ!」 と思う。比較をしてね。

 でも実は、朝から晩まで働いた人は、何も損をしていない。

 朝から晩まで働いていくらいくら、という約束で、納得した上でのことだったのだ。それを減らされたわけでも何でもない。

 ただ、雇い主が、ずっと働き口がなくて大変そうな人物を、助けてあげたかったのだ。雇い主が、自分のお金を好きなように使って、何が悪い?



●働かざる者、食うべからず。



 今の話で言うと、一時間しか働いていない者は、それ相応の賃金であるべきである。彼よりもっと働いた人物こそ、たくさん報酬を得る資格がある。

 なぜなら、この世界で人に与えられる恵みは、その人の頑張りや働き、能力に応じてであるべきだから。

 明らかにちゃんとしてない人物が、頑張っている人物と同じだけのものを得るなんて、ゆるせない!(ましてやそれ以上のものを得たりなんかしたら、もう殺してやりたい)

 長らく人類が苦しめられ、散々縛られてきたのは、この手のエゴである。

 エゴも、見方によって様々な現れ方をすると思うが——

 この種のものは、一番手ごわい。



 長らく、人間のDNA深くまで刻まれるに至った発想。



●何かを得るためには、それ相応の代価が必要。

 (等価交換)

●何かの結果を得るには、それ相当の原因がなければならない。

 (因果律)



 もう、これでやっていけないことが、長い試行錯誤と痛い目に遭ったことで人類は分かってきた。

 だから今、新時代と呼ばれる。人類の意識ステージが、全体として上昇しようとしている。

 もう、等価交換に疲れたのだ。

 原因と結果で何でもかんでも考えることに、限界を感じてきているのだ。

 その気付きが、広がっている。

 


 私は本書の中で、カインがアベルに抱いた「相応のモノでも喰らっとけ!」 精神をブレイクスルーするヒントを書いてきた、と自負している。本書を良くお読みになれば、読者はきっとあなたの中にある「カイン」に打ち勝てるはずである。

 打ち勝てる、という表現で気に入らなければ、そういう感情を認めて受け入れて、中和して取り込む、という言い方をしてもいい。「なくす」のではい。自分の中に感情バリエーションのひとつとして依然とあり続けるが、使用しない自由を行使できるというだけ。

 コンピューターで言えば、データ削除して二度と引き出せない、というのではなく、ハードディスク内にデータとして保存はされているが、ユーザーの意思で目に触れるモニター上にデータが引き出されない、というだけ。閲覧しない、という選択の力を得るということ。



 気付いていただきたい。

 自分より劣っている人物、下に見ていた人物が自分より出世したり、いい目を見たり、自分より評価されたり、自分が負けたりする時の感情こそが、この世ゲームにおいてもっとも強力な「ボスキャラ」なのだと。それこそが、エゴの最後の砦、最後の戦いだと。

 この戦いに参戦してほしい。強制する気はない。ただ、私の今の提案をスッと胸に入れることができたら、でいい。



●ケチケチしないで。

 限りある中から、分相応以上に取られたことを怒らないで。

 実はこの世界は、有限に見えて無限。

 豊穣の世界。

 豊かなのだから、あふれるほどにすべてはあるのだから。

 神である私たちは、ゼロポイントから無限に創造可能なのだから——

 豊かに、惜しみなく与えよう。



 アベル殺害の二の舞を防ぐには、個々人が「絶対こうあるべき」という思い込みから自由になることしかない。

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