失楽園② ~人が分からなくなった神~
主なる神は人に呼びかけて言われた
「あなたはどこにいるのか。」
創世記 3章9節
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聖書の最初に載っている、失楽園の物語の一幕である。
神様は、最初の人類であるアダムとイヴに言った。エデンの園の真ん中に生えている「善悪を知る木」から実を取って食べてはならない、と。
でも、結局食べてしまった。
その後で、神様がやってくる足音を聞き、約束を破った二人の人間は身を隠した。
探す神様は言う。「あなたはどこにいるのか」。
ちょっと不思議ではないだろうか。
神様が全知全能であると仮定するならば——
アダムとイヴがどんなに人間の浅知恵でかくれんぼしたところで無駄なのは自明の理である。だって相手は「神」なのだ。まるっとお見通しだ。
なのに、神はこんなセリフを吐く。
「お前たち~どこだ~」
まるで、二人の居場所が分かっていないかのようではないか。
もちろん、キリスト教のスタンダードな解釈として、神様は二人の居所など分かっててあえて言っている、というのがある。つまり、そんなセリフが出るほど、人が大事な戒めを破ったという神様の悲しみは深かったのだ、というわけだ。
では、筆者流の解釈では、どうなるか?
●神は、本当にアダムとイブがどこに行ったのか分からなかった。
最初、神(
神はすべてであったが、世界に自分しか存在しなかったので、自分を認識できなかった。他の「何か」を通してしか、自らを認識できないからだ。
人が、生まれてから世界にひとりだけだったら、自分がカッコいいとか背が高いとか分からない。頭がいいのか、かけっこが速いほうなのかも分からないのと同じだ。
だから、神は主体として「対象」を創造した。
それを通して、楽しもうとした。
でも、ここで大事な補足事項をひとつ。
神は、自分に劣るものを創造することができない。
キリスト教は、そうは考えないようである。神が頂点で絶対で完全で、この世界はあくまでもつくられたもの。被造物。人間などに至っては、「本来の状態から堕ちた」罪びと。
神と同等なんてとんでもない、というのがあらかたの宗教だろう。
ここは大事なので、もう一回目立つように言っておく。
●神は、自分より劣るものを生み出すことはできない。
できるのは、自分と同等またはそれ以上のものを生み出すことのみ。
だから、神(
しかも、話はそれだけで終わらなかった。
神は、完全だった。
完全であるということは、不自由だということでもある。
なぜなら、何もする必要がないからだ。いや、何もできないからだ。
完全である、ということはそのままで何もする必要がない、ということだ。
ゆえに、神が「何かをした瞬間」、完全神話が崩壊することになる。
神は、何かをする、ということのために「完全性」の放棄を迫られた。
さぁ、どうする?
完全を守るために、何もせず永遠の静寂として存在し続けるか?
それとも、それを捨ててまで有限というもの、変化というものを楽しむ冒険旅行に乗り出すか?
神は、後者を選んだ。
神が神(人間)を生んだ。
そこで、どういうドラマが生じたか?
第一の神(空)が、想像もつかないものを、第二の神(人。または知的生命体)は生みだした。
二元性世界を創造した時点で、「変化」というものや「分離」というものが生まれるだろうこと程度は分かっていただろう。しかし、これにはたまげた、というものがあった。それは——
●愛。
そう。この世界で皆さんが大好きな言葉ナンバーワンであろう、「愛」。
愛は、プリズムのように、様々なものに姿を変える。
親の愛。男女の愛。友情……
そのすさまじいエネルギーは、超クールな神(空)には持ちえないものであった。
(持ってはいるが、この世界を観察することを通じて初めてそれが分かった、というのが正確)
神は、実に驚いている。
そして、ワクワクしている。
だから、神は愛ではない。
神が愛だから、その神が創ったこの世界も愛、なのではない。
神は、それを持たなかった。(成分は所持していたが、組み立てなかったのでないのと同じ)
愛は、情的力は、この世界印。メイド・イン・二元性。
人類最初のアダムとイヴ。生まれて直後や少年・少女期はただ無邪気だったが、成長して男女の愛、という次元の異なる感情が芽生える。
「取って食べるな」というのは、神が理解できないためその価値を推し量れず「怖いからやめとけ」と言ったもの。でも、人類最初の男女は、その後の長きにわたる「男と女の愛の物語」の幕開けを見事に飾るのだ。善悪知る木の実を食べるということは、「愛に目覚める」ということだったのだ。もちろん、それはただいいことばかりではなく、憎しみや葛藤といったドラマを生むこともセットだったが。
そう考えると、冒頭の創世記の神のセリフが理解できる。
「あなたはどこにいるのか?」
つまり、神(空)に認識できる範囲を越えてしまったのだ。
第二の神が、神の力で独自のものすごい発明をしてしまい……
第一の神が驚いて、口にした。
「それ、本当にあの時のお前? ウッソー!」
例えば、子供時代に会ったっきりの友人に、何十年ぶりかで会うとする。
昔当時は、泣き虫のはなたれ小僧だったかもしれない。
でも、今会ってみれば、当然だが立派な大人。
昔の情けない姿しか知らないその人にしてみれば、一瞬「誰?」って思う。
同一人物だと認識できないのだ。
空がこの世界をつくり人間をつくった時、すべての可能性は持っていたが何をするかは未知数。
人間は、その記念すべき歩みの1ページ目に何をしたかというと……
聖書で言う「神の戒めを破った」。
そう表現をすると悪いことのようであり、失敗のように聞こえるが、実は「いいこと」だったのだ。
●自由意思というものを持って、好きなようにする。
決めつけられたからといって、それに従わなかった。
クールな、元「完全」出身の空には、想像もできないことだった。
それはちょうど、今まで親の言うことを聞いていい子ちゃんで生きてきて、それが当たり前となっている子どもが、親の言うことだから先生の言うことだからと何でも従うということをせず、時に逆らい自分の意思を貫こうとする子を見てびっくり仰天するようなものである。まるで、宇宙人を見るかのようなショックがあると思う。なんで、そんなことができるんだ?と。
だから、空には大変貌を遂げた「第二の神」のことを、にわかには理解しがたかった。そもそも冒険をしたくて始めたことだから予想はしてたけど、その予想をはるかに超えていた。
だから、「どこに行ったのか?」と言った。
それは裏返せば、「お前、ホント変わったな~」ということであり——
そしてそれは悪い意味で変わってしまった、ということではなく、「まぁ面白くなりやがって!」という最大の賛辞であり、感嘆なのである。
前回の記事でも書いたが、失楽園とは、人類歴史最初の事件の真相は、人の失敗・神への裏切りなどではなかったのだ。
それどころか、人が神として、何かに縛られることなく自分の思いで選択できた、という——
●自立記念日
……だったのである。
親(空)が、第二の神が空の操り人形ではない独自の動きを始めたことに対する評価と、そのお祝いだったのである。
「これからも、オレの中の可能性を沢山見せてくれよな」
空は、そう期待しつつ全幅の信頼を置いて、私たちにこの世界を任せてくれているのだ。
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