実は誰も復活したイエスを見ていない ~人は希望のためなら捏造する~

 婦人たちは墓を出て逃げ去った。

 震え上がり、正気を失っていた。

 そして、だれにも何も言わなかった。

 恐ろしかったからである。



 マルコによる福音書 16章8節



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 イエスが死に、墓に納められて後日の話である。

 イエスを慕っていた女性たちが、用事があってイエスの墓に出かけた。

 墓は洞穴の中で、入り口の穴は大きな石でふさいであった。

 それはかなり重いもので、男手が必要だった。

 墓前の石を動かしてもらう助っ人を手配するのを忘れていたようで(ボケボケやな)、「どうしよう」と悩んだが、着いてみると誰がやってくれたのか、石がどけてあった。

 一体誰が? と思い女たちが墓の中に入ると——

 天使がいた。

「驚くことはない」

 天使は、女たちにイエスが復活を遂げられたことを知らせるのだが、せっかく驚くことはない、と言ってくれているにも拘わらず、彼女らはびっくらこいで——

 ただ、恐ろしがって終わる。

 実は、マルコによる福音書は本来ここ16章8節で終わる。

 この後イエスの復活の話が続いているのは、後世の付け加え。

『恐ろしかったからである。』これで終わりなんて、粋なサスペンスドラマみたいじゃないです?

 その後どうなったかの解決編なし。ご自由に想像してください! ってかんじで。



 でも、このままではキリスト教信者には物足りない。

 いくら正直ありのままがいいとは言え、この終わり方はないだろう、と思った。

 だから、後に16章8節以降が何者かの手によって付け加えられた。

 そして、ハッピーエンドの、皆が納得する終わり方になっている。



 聖書に福音書は4つあり、マルコが一番古いとされている。

 マルコでは、イエスの墓に行ったご婦人たちは、怖がって逃げかえり誰にも何も言わない。

 でも、のちにできたマタイ・ルカ・ヨハネの各福音書では、そこの描写はどうなっているかというと——



 【マタイ】


 婦人たちは恐れながらも大いに喜び、帰って弟子たちに知らせた。

(マタイ28:8)



 【ルカ】


 婦人たちは、冷静である。天使の言葉を落ち着いて考えた結果、これが生前にイエスが言っていた「復活」のことなんだ、という気付きを得て、帰って弟子たちに伝えている。



 【ヨハネ】


 ここでは女はマグダラのマリヤだけしか登場しないが、感動的なイエスとの再会ドラマになっている。



 女性たちが怖がって口をつぐみ何もしなかった、という事実のみをシンプルに伝えたのが、付け加え版になる前のマルコのみで、あとは、皆女性たちは恐れを克服して行動している、という教会に都合の良い創作になっている。

 ひどいのでは、墓の前で復活したイエスと感動のご対面、ということになっている (ヨハネ)。福音書も4つ目となれば、かなり話が初めとはかけ離れてくる。

 時代が後になればなるほど、伝説化(美化)の程度もすごくなる、ということの良い例である。



 私たち人間の特徴として——

 神としての超客観(全知全能)を捨てた、超主観(限定的な視点から、勝手に見る)の立場である、ということがある。

 しかも、見たいように見るということをもう少し意地悪く指摘すると、『自分に都合の良いように見る』ということである。



 イエスが復活した、と天使が言っているのみで、女も弟子たちも誰も復活したイエスに出会っていない。

 でも、それではあんまりだ。

 イエスを慕う者からすれば、「せっかく復活したのなら、会いたいではないか。それを、姿も現してくれないなんて寂しすぎる。あんまりだ」と思うはず。

 そして、イエスの十字架刑に関しても、やってる最中でこそ熱病に浮かされたように実行してしまったが、頭が冷えるとあれは間違いだったかも、と思うと罪悪感がやってくる。その罪悪感を癒すためにも、復活したイエスには、その元気な姿を見せてもらい「お前たちをゆるす」と笑顔で言ってほしい。

 イエスの復活とは、人々の一方的な願望と都合が産んだものだ。



 人の罪なき想像力、というのは脅威である。

 本来、イエスの墓に天使がいて、死体がなくなっていたというところで終わっている話を、よくもここまで想像が書けたものだ。

(マルコ以降のマタイ・ルカ・ヨハネ)

 人は、動機さえ十分なら平気でストーリーを捏造し、しかもそれを「本当だ」と思い込める能力すら備えている。その場合には、ウソという自覚がないので罪悪感も発動しない。 

 こうして、聖書に書かれたのは神の言葉であり偽りのない真実、という旗印のもとに、キリスト教は二千年に渡って信じられ、人を幸せにも不幸にもした。

 人は、自分に都合の良いストーリー(物語)を作り出すプロである。



『星座』というものもそうではなかろうか。

 古代人が、羊飼っているヒマに寝転んで空を見上げ——

 あの星とあの星を結んだら、~に見えるなぁ。という遊びから生まれた。

 冷静に考えてほしいのだが。

 サソリ座の星は、「私は~サソリ座(の女?)だ」と自覚していると思いますか?

 オリオン座が、「あたしたちオリオン座よ!」と思っていると思いますか?

 全然。

 こちらが、勝手に見立てただけ。こちらが勝手に、星と星を線で結んだだけ。

 私たち人間が朝から晩までやっていることは、これである。すべて視覚、聴覚などの五感で捉えられるデータを主観で分析し、勝手なオリジナルストーリを創作すること。決して無数いる個人で同じにはならないので、誤解が起こる。

 推理小説が面白いのも、皆主観でしかものを見れないからだ。だから、自分の主観を越えた視点に気付いた時、「あっ」という驚きとともに、知的快感が押し寄せる。



 しかし、ここはあきらめが肝心である。

 この世界に人間形態をとってやってきた目的が、なんと『主観でものを見る』ことだからだ。そして、無数の別視点を楽しみ尽くすまで、やめない気である。

(ということは、視点は無数だから、永遠に終わらないということである)

 主観でしかものを見れないという人型体験装置のスペックを嘆くのではなく——

 むしろ、喜ぼう。

 完全という退屈極まりない世界に、永遠の静寂とともに過ごさねばならないよりは刺激的である。



 イエスにまつわる、感動的な復活物語を悪気なく勝手に作り上げたのも人間。

 夜空の星を結び付けて、星たちとはまったく関係のないところで星座を作り出したのも人間。

 人の言動を、思いっきり自分なりのストーリーで解釈し、思いっきり誤解するのも人間なら、少しのヒントからものすごい素晴らしい思い付きに至れる才能を持つのも人間。何もないところからでも、思いの翼を広げ壮大な物語を創作できてしまうのも人間。



 ああ、楽しいなぁ。 

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