十字架の道 ~イエスが本当に悟ったのは、実は死ぬ間際~
三時にイエスは大声で叫ばれた。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコによる福音書 15章34節
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植物の種には、すべてが仕込まれている。
あらゆる情報が詰まっている。
どんな風に育って、どれだけ伸びて、どんな実を付けるのか。
あの小さな小さな種の中に、始まりの中に「その後のすべて」がある。
もちろん、環境という外部要素(雨が降らない、場所の日当たりが悪い、日照り続き)や動物や人間に食べられたりむしられたり、という植物自身にとってはどうにもならない要素に左右はされるが、その邪魔さえなければ種にすでに仕込まれたプログラミング通りに生きる。
それと同じように、人間は生まれた時すでに「種」であるとも言える。
まだ赤ちゃんでも、幼児期の顔も青年期の顔も大人になった顔も決まっている。
時間という幻想の直線進行軸というレールにのって、あとは順繰りに観察していく。それは肉体的なものだけでなく、それは精神世界にも及ぶ。
人は、自分でも説明のつかない思いに突き動かされ、それぞれ全く違う選択をし、ドラマを描いていく。それはもう、監督から役の台本でももらっているかのように、一人として役がだぶらずに演じ分けている。
皆さんの中で、『内命性に従う』という感覚のある人はいるだろうか。
種が、その内にあるプログラミング(遺伝情報)に従って成長プログラムを進めていくようなもの。自分の内側から、自分のすべきこと、言うべきことが湧きだしてくる、という感じ。ちょっとニュアンスはずれるかもしれないが、一番分かりやすい言葉に置き換えると「使命」ということになる。
イエス・キリストという人物も、その「内命性」に従ってきたタイプの人なのではないだろうか。内なる声にいつも忠実で、それに従うことを喜びとしていた。そしてその内命性に従うためならば、多少の常識逸脱や批判すらも厭わなかった。
イエスは、
なぜなら、内から湧き起こる 「これをしよう、これを言おう」とする内命性に従うことは、「神の御心」に従うことだと思っていたから。彼が「神の子」と言われるゆえんである。「父(神)と私はひとつである」と常に言っていたイエスにとって、自分の内側の衝動に従って生きることこそ、それを起こさせている内なる「神」に従うことそのものだから。
でも、さすがのイエスも、少々考え直しを迫られるハメになった。
それはいつかと言えば、十字架にかかっていよいよ死ぬという場面だ。
イエスほどの大人物でも、ひとつ思い込んでいることがあった。
●自分の内命性に従って正直に生きていれば、絶対に良い方向へ行く。
だからこそ、いつ何時でも、イエスは他者の顔色を窺わず批判をものともせず、心の命ずるままにすべての選択を内命性と言う名のナビゲーションに委ねてきた。
もちろん、すべてが最善になる(イエスにとって)と信じて。
でもさすがに、十字架の上で不名誉の死を遂げる以外ないと分かった時に——
「内命性にちゃんと従った結果が、これかよ!」
ここで、ひとつ重大かつ残念なお知らせがある。
それは、死の間際にイエスが知って愕然とした情報である。
●内命性に従う(心の声に従う)という行為の連続において——
それが、必ずしも人間側の都合によいという意味での「良い結果」にならないこともある。
忘れてはいけないのは、宇宙(この世ゲームを仕掛けた側の思惑)の目的は、善悪やいい悪いの概念など超えたところで、すべての体験の可能性を回収することである。ということは、あなたが「どんな役を振られたのか」によっては、自分の気持ちに真っ直ぐに生きる(内命性に従う)ということが、分かりやすい人間の幸福に繋がらないこともある、ということだ。
●内命性の仕事は、あなたを人間側のエゴが描く「幸せな状態」にすることではない。あなたにいかに、割り振られたシナリオをきれいに「務めさせる」ことができるか、にある。
冷たい話だが、あちら(観察意識側)の関心は、あなたを幸せにすることというよりは 「他がしないあなたオリジナルの体験を、あなたがいかに立派に演じ上げてくれるか」ということにある。
そのためにあちらは指令を送るのであり、心の命ずるままに生き「文字通り、絵に描いたような幸せをつかんだ!」という人がいたとしたら、それはたまたまあなたの自我の願いと、向こう側があなたに演じさせたかった内容とが大まかに一致していたという偶然である。
心の声に従い続けて、「悲惨」になるケースもある。その場合は、むこうがそれをあなたにさせたかった。その体験を回収してほしかった。
●心の声に従えば幸せになる、というのは扱いの難しい言葉である。
「皆が思い描くような幸せ」になることを保証しないからである。
ただ、心の命ずるままに生きることで得る幸せは、種類の違う「幸せ」である。
あえてその幸せを言葉にすると、それは「清々しさ」である。
経験のある人もいるかもしれないが、スポーツの試合で全力を出し切れた、という感触があった時って、結果負けたとしても、そう「悔しい」「残念」という思いに囚われにくいものだ。かえって「清々しさ」を感じたりする。そこまでやった自分を褒めてやりたいような。
だから、心の声に最後まで従った時の 「ご褒美」 は何かと言うと——
●そこまで従いきった、という清々しさ。
自分の魂に対して一切の後ろめたさがないので、その満足感は千金に値する。
イエスは、時間にしたら数時間もない短時間の内に、ものすごい内的変化体験をした。心の声(彼にとっては神の声と同じ)に従って生きてきたのに、なぜ今こんな目に? という疑惑を抱き、普通何十年もかかって出すようなその問いへの答えを、本当に短時間で出した。
そうか! これを体験するためだったのか! な~んだ。
そしてオレの死が、後の世や色んな人に影響を与えることになるんだな。
まぁ、実に壮絶な役どころだったな……
聖書によると、イエスが最後に「成し遂げられた」と言ったとか、「父よ、我が霊を御手に委ねます」と言ったと伝えられているが、定かではない。
どんな言葉を言った言わないにせよ、イエスは最後、ある納得に帰着したのではないか。
神様に「なぜわたしをお見捨てになったのですが」と叫んでから絶命するまで、数十分、もしくはそれ以下。その短い時間で、前言を覆すような「納得の境地」を得たのだ。これは、ものすごいことである。
心の声は、あなたの人生に問題が起こらないとか、お金の心配がなくなるとか、一般にこれがあれば「幸せ」と定義されるような、そういうもののために聞こえてくるんじゃない。
あなたがあなたらしく、あなたの人生を走り切るために与えられるもの。
それは、あなたの自我が喜ぶ「幸せ」を保障するものではないが——
お金じゃ買えない「清々しさ」を手にすることができる。
役者の喜びは、どんな時でも「与えられた役を見事演じきれた時」のもの。
我々人間キャラクターが得られる喜びも、本質はそれ。
残念なことに、時として「与えられた役を見事に演じる=世で言う幸せな状態になる」というようにはいかない「難役」もある。イエスなどはまさにそうであった。
でも、イエスの最期の大悟、「キューピー3分間クッキング」も真っ青の——
●イエス・十字架上で神を疑ってから納得して死ぬまでの数分間早悟り
これが偉大であったがために、後の世にも語り継がれる伝説となったのだ。
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