イエスは、終末の予言などしていない ~変化の中にチャンスあり~
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。
「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
イエスは言われた。
「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
マルコによる福音書13章1~2節
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イエスが十字架にかけられる一週間前あたりの出来事である。
首都エルサレムにて、弟子の一人が、立派な神殿の建物を褒めた。
すると愛想のないイエスは、空気を読んで「そうだね。すごいよね~」と相手に合わせた会話をする気などさらさらなかった。ここでもイエスは、人に気など遣わず言いたいことを言った。
結構、身もふたもない話をする。「こんなもん、いつかは壊れちゃうよ」的な。
キリスト教的には、このイエスの言葉は世の終わり(終末)のことを言ったものとしている。
実際にこのあとのお話の展開を聖書で読むと、イエスのさっきの言葉が気になった弟子が、こう質問している。「先生、そのこと (神殿が崩壊する日。つまり世界の終わり)はいつ起こるのですか?また、そのことが実現する時には、どんな徴 (しるし=兆候)があるのですか?」
で、その質問を受けたイエスの細かい説明がダラダラ続く。
今回は、冒頭で取り上げたイエスの言葉だけが大事である。
その後に続く、終末の具体的な説明は、教会の都合で捏造されたもの。
テキトーに流して読んだほうがいい。もし真に受けちゃったら、恐怖信仰のにわかクリスチャンが急造されてしまう。
悪いことを避けるための信心って、しょうもない。だから、「このままでは世界が危ない!」という切り口の布教はやめたほうがいい。
そんな切り口で集まってきた人たちなんて、大した力にならない。
イエスは、『世の終わりが来るぞ~!』 ということを言いたかったのではない。
(そうだと捉えちゃったのが、キリスト教である)
実は、ここは仏教とも共通する部分なのだが——
●諸行無常
●万物流転
このことを言いたかったのだ。
堅固で立派な神殿が崩れる時が来る、というのは何も世の終わりが来て一切が滅びる、みたいなことではなく、「すべて形あるもの、二元性のこの世界に存在するものは有限だよ。いつまでも同じ、というわけにはいかないよ~」ということを教えたかっただけ。それを、イエスの周囲の人間が誤解しただけ。(それも味わい深いシナリオなんだなぁ)
私たちは、どうしても見た目で考える。
時間の幅でものを考える。
堅固な神殿など、自分の死後も建ち続けているはず、と考える。いつか無くなるとしても、それは気の遠くなるほど未来のことだろう。ここで、人の頭の中で罪のないすり替えが起こる。
●(終わりが来るが) 途方もなく長い時間=(その人にとっては)ずっと変わらないもの
いつか死を迎える個体としては、「永遠」とさえ思ってしまう。
東京タワーや国会議事堂が、明日にでもなくなると思っている人はまずいない。
それは明日も明後日も建ち続け、自分の死後も建っているとほとんどの人が思っている。自分が死んで先もということは、言い換えればその人にとっては『ずっと』だということだ。
(キャラとしての)私たち自身が有限なくせに、滅多と変化しない物事に対しては「疑似永遠」と見てしまう。
実は、それこそが奇跡がなかなか起きない要因となっている。
「これは、こうだ」 という決めつけ。
今日の話で言えば、「この立派な神殿は、今日も明日も明後日も、この先もずっと建ち続けている」という、一見当たり前に聞こえる理屈である。でも冷静に考えれば「そんなこと誰も決めていない」 。
一体何が起こるか分からない世界である。一時間後に崩れてもおかしくはない。
百歩譲って、その神殿がずっと建ち続けていたとしても、日ごとに変わる。どこかが変わっている。傷ができたり汚れができたり、まったく同じ神殿として建ち続けることはできない。
変化がないなんて、ない。
それは、私たちの日常に関しても言える。
皆、口を揃えてこう言う。
日常に、何の変化もない。昨日も今日も明日も、同じことの繰り返し。
ああつまらない。何かいいこと起きないかな——
……あのね、何か分かりやすい大きないいことが起こって、見えやすい形の変化をボーッと待つ受け身の姿勢はやめない? 変わらないように見える日常は、実はどこかで変わっている。常に同じでない。
ただ、あなたの感性が鈍っているから、捉えきれないだけ。
それを捉えられたら、そこから人って変わっていくものだと思う。
一見何気ない日常に、キラッとするものを見つけられると思う。
オカネとヒマがある人間だから楽しめて、それのない人間が楽しめないなんて、誰が決めた?
人は、見ようとしさえすれば、どこからでも楽しむ要素を見つけ出せる。
結局、イエスは何が言いたかったか。
諸行無常だから、すべての物事は移ろうのだから、あきらめろと言っているのではない。むしろ、その逆である。
●変化を楽しめ。
せっかくだから、それを味わえということ。
こんな立派な神殿でも、いつか崩れちゃう日が来るんだね。儚いね、寂しいね……
違う。イエスは、そんな盛り下がることは言わない。
「こんな立派な、崩れるわけない、って思える建物でも、崩れる時には崩れるんだよ。そう考えたらさ、絶対なんてないんだからさ。物事は常に変化するんだからさ——この「揺るがない問題」「どうしようもない不幸」と思いこんでいるものも、案外もろいかもよ? 案外、解決の不可能なものでもないかもよ?
これは絶対動かへん、っていう思い込みをちょっと脇へ置いてさ。
ちょっと、「いけるんじゃないか」っていう魔法にかかってみいひん?」
そんな、イエスの励ましが聞こえてくるのである
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