ユダ、イエスへの裏切りを企てる③ ~鎮魂歌(レクイエム)~

 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。

 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

  イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」 と言うと、イエスは言われた。

「それはあなたの言ったことだ。(お前だ)」



 マタイによる福音書 26章21~25節



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 イエスが、弟子のユダの裏切りを指摘する場面である。

 本文中、このような言葉がある。「人の子(ここではイエス)を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 普通にここを読んだら、皆さんどんな印象を受けるだろう?

 お前なんてことしたの! っていう「断罪」に読めますか?

 人類の救いのためにやってきた私裏切るとは、お前どれだけとんでもないことをしたか分かるか? 重い罪か分かるか? 

 そんなお前は、生まれて来ないほうがまだマシだった——。

 つまりは、ユダのしでかしたことをとがめる意味の言葉として、「不幸だ」「生まれないほうが良かった」という言葉を考えてしまいませんか?

 実は、ちょっと違う。



 有名な文学作品であり、よく舞台や映画にもなる『レ・ミゼラブル』。

 劇中、お世話になった神父の家の銀の食器を盗んだジャン・ヴァルジャンが捕まる。警官は彼を神父に突きだし、「これはお宅から盗まれたものですね?」と確認してくる。しかし、神父はジャンにとっては衝撃的なことを言った。 

「いえいえ、盗まれてなどいません。これは、私が彼にあげたのです」

 それどころか、「なぜ銀の燭台も持って行かなかったんですか? 遠慮深い人だなぁ」みたいなことまで言う始末。いくら警官が怪しんでいても、一番の被害者本人がそう言い張るのだから、警官もそれ以上どうにもできない。で、ジャンは無罪放免となる。



 罪というものは本来ないが、それを言ったら話が成立しないので、ここではあるとして。本当の「罪のゆるし」って何だと思いますか?

 それは、たとえば警察とか、司法(裁判)とか、そういう公の機関の判断が下すものだと思いますか? たとえば10年の懲役だったら、10年服役を全うすれば、もうそれで完璧に「償った」となるでしょうか?

 今の社会の法律的には、義務としてはそれで果たした建て前になる。

 でもそれは、人間が勝手に作った社会的ルールにすぎず、本当の償いではない。

 でも、スピリチュアル的な面から「何をもって最終的にゆるされたと言えるのか」 というと——



●一番の被害者に当たる人間が、ゆるすこと。

 その人物の感情が、納得すること。



 先ほどの例で言うと、、盗んだのが事実ならジャンは本来盗みという罪に相当する罰を受けねばならない。でも、盗まれた神父本人がゆるしている。

 人が救われる、という現象が起きるためには、その人物が一番罪悪感を感じている相手、済まないと思っている相手が、ゆるしてくれることである。

 


 さて、その視点から改めて、イエスがユダにかけている言葉を見てみよう。

 我々が、人間目線でベタにイエスの言葉を聞けば、イエスはユダを責めているように聞こえる。オレを裏切るなんて大それたことをして人類歴史に汚点を残すお前は、生まれなかったほうがマシだったな! というように。これほどの不幸はない、と。

 でも、私にはこう読めるのである。



●生まれて来なかったほうが良かった、と思えるくらいの辛い人生シナリオだったな。

 


 一番の被害者は、裏切られたイエスである。

 でもそのイエスは、実はここでユダを怒ってるんでも非難しているんでもない。

 憐れんでいるのである。でもそれは、「可哀想に」という種類の憐みというより、ねぎらいの憐みなのである。

 この世界に生きる人間には、無数の 「お役目」がある。

 そのお役目の中には、人間感情では理解がついていかないものもある。

 ユダも、その人生は無限の可能性の中の、立派なひとつの道筋だった。人間感情では、納得いかなくても無理はない。怒るなら、この書から離れたがいい。

 イエスは、自分が被害者となって傷付くと同時に、傷付ける側のことも思った。

 そこが、人としての器の違いが現れるところである。



 イエスには、ユダの苦悩もまた見えた。

 その体験は宇宙が存在する内に誰かが担当することになるが、それがよりによって苦楽を共にしてきた、愛するユダという男にそれが当たった。イエスは、まさにジャン・ヴァルジャンを神父がゆるしたように、ユダをゆるしたのだ。

 一見、全然ゆるしたような言葉に見えないが、こう解釈してほしい。



 ●人の子を裏切るその者は不幸だ。


 → 不幸な人生だったね。つまり、イエスはユダの人生が「不幸」だった(そういうシナリオを担当してくれた)と認めた。



 ●生まれなかった方が、その者のためによかった


 → 生まれないほうがよかった、と思えるほどの辛さがあるだろうな、その人生は! イエスは、そのような人生シナリオのユダの深い「痛み」を思いやった。



 これを、『逆呪い』と呼ぶ。

 普通の「呪い」は、死ねとか苦しめとか、実際に相手を攻撃しようとする意図をもって言葉を唱える。一方、逆呪いとは言葉だけを見ると一見呪いと誤解するが、実は相手を守るための呪詛である。

「お前は不幸だ」 は、相手が不幸だと被害者が認めることで、「相手が悪魔のように悪い」 という責任論における非の部分は薄れる。まったく何もなかったというわけにはいかないが、相手が必要以上に苦しむのを被害者側が望まない場合。また、精神ステージが高く、「受け入れる器」に余裕がある状態で、不幸なシナリオを担当した魂を思いやること。



 逆呪いの特徴として、「言葉の表面的な意味とは逆に作用する」というのがある。

 イエスの場合、相手を責めるような言葉として読めるが、実はそれはそのような道を辿ったユダの苦しみを軽減してやる意味があった。

 神父の 「この銀の食器はあげたのだ。そら、燭台も持って行きなさい」はものすごい優しい言葉に聞こえるが、実はこれ、鋭い刃(やいば)である。

 ジャン・バルジャンの魂を血まみれに切り裂く、凶器だった。

 でもそれは、「魂の大手術」をするのに必要なメス入れの痛みであり、流す必要のあった血。



 聖書によると、ユダはその後自殺したとされる。

 使徒言行録という書では、かなり過激な最後に書かれている。



※ユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。


 使徒言行録 1章 18節


 

 これは、かなりまゆつば物の話である。聖書に書かれてあることは信じないといけない、という信者のような事情でもない限り、本気にせんでよろしい。



 地上での人生すべてを終えた後、ユダを担当した意識は何を思っただろうか。

 知る由もないが、少しでも自分をゆるせない地獄の苦しみが軽減されていたであろうことを信じたい。私は、イエスが生まれて来なきゃよかった、とユダの人生を否定したと考えたくはない。



 きっと、生まれて来なければよかったと思えるほどの辛く険しい旅路を行ったのだな、お前は……という、命を見つめる神のような眼で、イエスはユダを見た。

 人間的には、不幸なことであったな——。 



 その言葉は、地獄を端から端まで渡りきらないといけない義務を課せられたユダに渡された、数日分の水や食料・思いやりからの「お弁当」に相当するギフトであったと、思うのだ。



 この次元世界では、それを鎮魂歌(レクイエム)と呼ぶ。

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