高橋蓮
日暮れ前に彩月と別れた蓮は、ひとりで電車に乗り、自宅の最寄り駅へ戻っていた。
渋谷で買い物をしてから帰ると言う彩月に同行を言い出す勇気はまだなかった。
本当はもっと彩月に話したいことや聞いてみたいことがあった。
連絡先を交換したのだから、いつでも連絡は取れるようになった。焦ることはないと蓮は自身に言い聞かせる。
それでも彩月と顔を合わせて会話したいと思った。人によっては甘ったるいと感じるだろう彩月の声音は、蓮にはとても心地好かった。
蓮の父も、ふたりの兄も医師だ。祖父は引退しているが医者をしていた。亡くなった母方の祖父も医師の、医者ばかりの一族だ。
そう言えば長兄の
悠は悪い人間ではないが、少々押しが強いので蓮は接し方に悩んでいた。年の離れた兄は蓮も医者になることを前提に話してくる。
確かに今の成績をキープできれば、医学部を受験することは不可能ではない。
開業医の父も、おそらくそれを望んでいることは肌で感じていた。
現在、研修医として働くことと、わずかしかない休日にはアイドル声優を追いかけることで忙しくしている次兄の
蓮は絵を描くのがあまり得意ではなく、国語の時間に朗読をすると先生に誉められたので声優になりたいと小学生の時に思った。
子供だったので、アニメーション作りに関わる人がそれぐらいしか思いつかなかった。
今はもっと様々な関わり方があることをわかっているが、やはり声優になりたいと言う気持ちは変わらない。
大人に対して、蓮はわがままを言ったことがほとんどない。裕福な家庭の、歳の離れた末っ子なので甘やかされて育ってきた。その自覚はある。だから自分の思いをきちんと両親に伝えられるか不安だった。
ましてやお金を出してほしいなんて、一蹴されたら蓮にはどうすることもできない。
だけど言葉にしなければ、何も変わらない。
実際、声優になりたいとはっきり言ったことで、彩月に出会えた。
彼女は初めて味方になってくれた大人のような気がした。
善は急げと帰った蓮にとって、とても都合の良い状況が生み出されていた。両親がリビングに揃っている。
土曜日なので、父の仕事は午前中で終わりだ。
「と、父さん、母さん、話したいことがあるんだ……っ」
思いきって切り出す。固く握った手のひらは汗で冷たく濡れていた。
ソファーでくつろいでいた父は顔を上げ、母は蓮に座るように促す。
蓮は緊張して唾液を飲み込んだ。一度深呼吸してから、しっかり両足で床を踏みしめた。
座ってしまうと言えない気がした。
「俺、声優になりたい。それで、夏に養成所のオーディションがあって、受かったら10月からそこに通いたい」
蓮の頬は赤く染まって、息が切れていた。
両親は顔を見合わせて、それからもう一度蓮を見る。
「養成所?」
父の疑問に蓮はたどたどしいながらも懸命に説明した。目標としている声優養成所は一年で結果を出さなければいけないこと、そもそも倍率がとても高いと言うこと。通うとなると金額が六十万円ほどかかること。
それで両親は蓮が行きたい場所のことをなんとなく理解したようだ。
「大学はどうするつもりだ?」
「どう……」
声優になりたいと言う気持ちしかなかった蓮は答えられなかった。
ふと彩月に言われたことを思い出す。
「養成所に受かって、事務所にも合格できたら、大学には行く。学部はまだ決めてないけど、できれば演技に関係する学部に行きたい。もし今回ダメだったら、医学部を受験する。成績は落とさない。だから……」
自ら退路を断ってしまった。これだと本当に一回こっきりのチャンスだ。
「だから、費用を出してください!」
腰を直角に曲げて頭を下げた。
たった一回でも挑戦できないよりはマシだ。蓮は姿勢を保ったまま、両親の反応を固唾を飲んで待つ。
「……本気なのね?」
母の声が真っ直ぐ届いてくる。蓮は顔を上げて深くうなずいた。
「お母さんの貯金で何とかできそうだから」
小さく微笑む母の愛に蓮は胸が詰まる。
「家計から出せるならそうすれば良いだろう?」
父の言葉に蓮は目を丸くする。
「でも……」
母の肩に父はポンと手を置いた。
「こんなチャレンジは若い時しかできない。蓮が初めてやりたいことを自分から言ってくれたことも嬉しいよ」
父の言葉とはにかんだような笑顔。反対されるとばかり思っていた蓮は感情が追いつかないでいた。
「ありがとう……」
♪
彩月は買い物帰りで電車の中にいた。いつも使っている基礎化粧品がなくなりそうだったので買い足した。
車両は座れないが押し合いへし合いでもない程度の混み具合なので、音を消してスマホで恋愛ゲームをしている。
コミュニケーションアプリからメッセージを受信した通知が画面に表示される。蓮からだった。
開いてみると、電話で話したいとのことだった。今は電車の中にいる旨を送る。
夜の九時頃に電話で話す約束をした。
帰宅して夕飯を済ませると、もう九時は目の前だった。風呂は後回しにしようと彩月は自室に入る。
アプリを使えば無料で話せるが、こちらからかけるべきなのか、彩月はスマホをベッドに置いて腕を組んで考え込む。
悩んだ末、九時ぴったりに電話をかけても大丈夫なのかメッセージを送った。すぐに既読が表示され、電話がかかってくる。
「新川さん、こんばんは……!」
受話器の向こうの蓮の声は、少し息が切れていた。
蓮の話したい内容は何となく想像がついていた。しかし結果がどうだったのかまではわからない。慰めと励まし、両方の言葉を彩月は探す。
「新川さんの教えてくれた方法で、俺、頑張ってみます! 親も応援してくれるみたいで」
「よ、良かったね」
希望に満ちた弾む声の蓮を前に、まだ受かるかもわからないと水を差すのは悪い気がして彩月は微妙な表情になる。
顔の見えない電話で良かったと、蓮に気づかれないようにため息をついた。
このまっすぐなキラキラは彩月にはまぶしすぎた。胸も言葉も詰まってしまう。
しかしあの案を提示したのは彩月だ。このまま、じゃあがんばってねと突き放すのも気が引けた。
あの養成所は芝居経験者が多く受験する。つまり、基礎はできていて当たり前なのだ。
「高橋くんは、お芝居の経験ってあるのかな? 放送部だったら活舌練習はしてる?」
「幼稚園のお遊戯会くらいしか……。活舌練習は全然してないです」
十月に入所と言うことは、オーディションは八月。あと三ヶ月。
付け焼刃でも、何もしないよりはマシだと彩月は思った。基礎練習以外にもやることはいろいろある。
スケジュール帳を確認すると、次の土曜日も空いていた。
「今度の土曜日、空いてる?」
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