Episode02 少女は迷い込むⅣ

 現実を歪めるように振れる燭火は、僧侶の周りに奇々怪々な文字の形をした火の玉を引き起こす。文字は瞬く間にその模様を失い、炎の奔流と化して波を打ちながら悠慧を呑もうとする。

 なんだ!? さっきとぜんぜん違うぞ!?

 これを見る瞬間に悠慧は気づく。

 この攻撃は先ほどの攻撃と比べ物にならない。質も、量も。

 さっきの焔をガスバーナーで作る火と例えるなら、今のこれは金属を錬成するための溶鉱炉の烈火に当たる。

 出し惜しみしてたのか!

 刀を盾のようにして両手で突きだす。いくらもしないうちに疼痛が手の甲を襲う。

 巨大な運動量と伴って、炎の奔流は悠慧の髪を、頬を、首を、手を、あらゆる衣服から露出している部分を炙り、後方に押し返そうとしながらも、気管や肺臓を焼け爛れる熱気を鼻に注ぎ込もうとする。

 最初の鈍い痛みが急に針に刺されたかのようになって、最後になるとほとんどの感覚すら失って、細かに刺されるようにしか感じられなくなっていた。

 ひとしきり凌いでいると、火の流れが細まっていき、そのうちに吐息と同様の気流になってかき消されていく。

 辛うじてひび割れるほど水分を奪われた両手を動かす。そのたびに皮膚が引き裂かれるように疼く。

 これくらいでは勘弁してくれないようだ。僧侶が周囲に生成した火の文字はすでに次の攻勢を整えた。

「これは……させるか」

 文字が融け始めた頃合いに、悠慧は刀を肩に乗せ、僧侶を目かけて迅速に投げ出す。

 これで攻撃を中断できると踏んだようだ。

 高速回転する刃が僧侶の身体に切り込む寸前に、文字は変換を終えた。

 炎の奔流とともに悠慧の思い描いていた理想図絵の色も褪せていく。

 勢いを十分付けたはずの刀はトルネードに呑まれた紙きれのように吹き飛ばされて泥水にたたき落される。

 そして、極限まで縮小した悠慧の瞳を真っ赤に染めた炎の奔流は、ついに寸鉄も帯びない悠慧の前に迫る。

「っ……!」

 質量を持った火炎から頭を守ろうと、腕を上げる。まるで湍流を搔き分ける岩礁のように、悠慧は炎の奔流と抗う。

「ハァァ? ……やってやろうじゃねェか? クッソヤローがァ」

 赤く染めた口元には、こんな苦境に似合わしくない愉快で狂気な笑みが浮かんだ。

「あっ」

 と、我に返ったように小さく息が漏れる。服の裾が何者かに掴まられた。その手には微かだが、感じ取れる恐怖が宿っていて、小刻みに震えている。

 彼女は何をしているのだろうか……唇を噛み締めて我慢しているのだろうか。それとも、あまりの恐怖に泣いているのだろうか。

 でも、どっち道、せめて最後に託された約束を破りたくない。あの人との約束を。

 止んだ激流のように緩んだ悠慧の瞳は僧侶を注視する。

「武器を捨てたと言うことは、やっと抵抗をやめるつもりになったのですか」

 今度、相変わらずに立ち尽くす僧侶は火の文字を呼び出さなかった。

 悠慧が逆らうのを止めたと勘違いしたのか。それとも、悠慧は刀を取り戻せないと判断したのか。どっちにしろ読み外れだった。

 悠慧はひどく乾いた目をパチパチさせる。

 森にはいまだ風は吹いている。微かだが、燭火を消すほどの風力はあるだろう。それなのに、僧侶の持っている蝋燭は消えないばかりか、平然と燃え盛っている。

 手を下した悠慧はぎりぎりと歯を食いしばる。制服に火は付いていないが、すでに半面ぼろぼろに焦げていた。

「そっちの方が得でしょう。もとより攻撃するつもりはありませんでしたので」

「ちっ」

 ゆるりとずたずたに火傷した右手を上げる。

「なんなんだ、こいつは! まったく、癪なんだよ」

 すると、投げた刀は無形の手に引っ張られたように、手に戻った。

 ただ都市伝説とかを辿っただけだっていうのに、なぜこんな羽目になってしまったんだ? と神泉悠慧は思わずにいられなかった。

 二年も着こなしてきた制服の赤いネクタイを緩めて僧侶から目を離さずに見ていた。

「面白い現象ですね」

 悠慧は何も言わずに待つことにした。何か現状を打破することに繋がるひびを探ろうとしている。

「汝もこの状況に不都合を感じているでしょうが、我々もそうです。我々は汝等を敵視するつもりはありません」

 僧侶は四月の冷たい風に寒さも感じないように佇むだけだった。物理法則上、照らされてはっきり見える顔の部分は相変わらず腹立たせる陰になっていた。

「だったらなんで俺たちを攻撃した?」

 黒く焼かれていた木の裏に隠れている少女を守るように左手をもう少し広げた。彼女が軽く裾に掴んでいる手に震えが感じる。

「我々が身の危険を感じたのです。それが無意味だと判断した今はその行為を繰り返さないでしょう」

 危険を感じたと? ひょっとして俺が追っかけたときか? じゃ今はつまり、さっき俺がこいつを攻撃しなかったから敵意がないと判断したのか?

「じゃ、ここで颯爽退場してもらえねぇか? もしそっちに去る気がなければ、こっちがどっかに行くのも構わねぇよ?」

「当然です」

 はぁっ? こいつわざわざこれを言いに来たってんのか? と思っていてもこの言葉を聞いて、悠慧はやっと少しだけ胸を撫でおろすことができた。

 でも、最後の最後まで予想できなかったんだけど、ややこしいことにならずにこれで平穏に——

「ですが……」

「……っ!?」

「汝等は知り過ぎています」

「どういう意味だ」

「そのままの意味です。汝等は知り過ぎています、我々について。なので、それを漏らさないように我々の処置を受けなくではなりません」

「受けるかどうかは内容によるな」

「術を施します。そうすれば、汝等はこの件に関することすべて、二度と干渉しないでしょう。どちらにも得になるやり方です」

「どこまでも、術を見せないってことか。受けないって言ったら?」

 干渉できないようにするのに拘束という方法があれば、ここで死体になってもらうのも方法の一つとして除外されることはない。悠慧の回答は明確ではないものの、拒否に大きく偏っていた。二度と干渉させないやり方は山ほどある。

 けれど、僧侶はまるで困らない様子で質問に答えた。

「我々にも時間がありません。しかし、我々の存在が世に知られないことが最優先です。そのため、今回の目的を捨てても汝等を止めます」

「この先は決まりのようだな」

「どうしますか?」

「決まってんだろ!」

 張り詰めた顔が険悪な表情になり、右手の黒い刀を握りしめた。

「させてたまるか!」

「そうですか。仕方がありません」

 僧侶は身動き一つせず、蝋燭の燭火がいきなり揺れた。

 文字のような形をした火玉は僧侶の周りに現れ、迅速に周囲へ広がっていく。不幸なことに、悠慧もその領域にいた。

「またか! どうすればいいだよっ! こんなの」

 刀を体の前に構えて火玉の衝撃と熱量を受け止める態勢に入る。

 熱を帯びる爆風が顔にぶつかったのち、火玉が手や顔、露出した皮膚を容赦なく痛めつける。

「……くっ」

 まだ回復していない身体がさらに水分を奪い取られて、脳に苦しさを告げていた。大面積の攻撃が刀と衣服で止めたとは言え、このままではやられるほかならない。

 相手の攻撃パターンはこれしか分かっていない、もしかしたら近距離を対応する技がある可能性もある。けれど、やるしかない。

「隠れてろ」

 しばらくして、炎の波が止む。

 悠慧はその攻撃の僅かな間隔を掴んで、僧侶のもとへ走っていった。

 僧侶も悠慧の行動を見過ごすわけがない。静止して燃えていた蝋燭の火がさっきと同じのように揺れた。

 それが攻撃の前兆だと、さすがに悠慧も気づいた。

「……来やがったか」

 僧侶に纏わる火の文字は形を変えて、不規則な流弾と化す。一瞬のうちに悠慧の進路を埋め尽くした。

「……ちっ!」

 刀を右下から左上へ斬り上げ、目の前に飛んできた流弾を撃砕しようとする。円滑に切り込んだ刃が尾を引く流弾を通過した途端、それはあっけなく散り落ちる。

 左手を添えて悠慧は次々に飛んでくる流弾でできている弾幕を一掃する。ついに切っ先が届く間合いを詰めたところで、走った勢いで回転し、その後ろに隠す僧侶を斬りかかる。

 刃が当たる寸前に、悠慧の精神に体全体を押しつぶしてしまいそうな莫大な圧力がかかった。

「……くっ!」

 見えないが、僧侶がにやりと笑っていることがなんとなく伝わる。

 危険だと感じたのだ。

 その一瞬、確かに蝋燭の火は揺れた。

 揺れてしまった。

「破壊します」

 どんな目的も質量も持たない言葉が、ただ無意味に伝えられた。

 刃先が何かに切り込んだ感じがした、本来なら空気で充満している僧侶の前の空間で。

 その見えない何に運動力が奪われ、スピードが消されて刀がぴたりと空中に止まった。

「……なっ!」

 何もないのになぜ刀が止まったか、悠慧はそのことに困惑した。

 そして、彼が思いつく前にその答えは浮かび上がった。

 刃先が空気を裂いたかのように、その空間に異空間と繋がっているような挟間ができ、その奥から赤い光が迸る。

 光が瞬く間に燃え上がり、辺り一面に広がった焔は際限なき火の幕となった。

 その幕は小さな人影の見えているものをすべてを飲み込む。

 悠慧の視界を真っ赤に染める。

 その力の中心である挟間から膨大な熱量が放出され、炎の雪崩のごとく悠慧を吹っ飛ばした。

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