Episode02 少女は迷い込むⅤ
「がぁっ、はぁ……っ」
ヴァルサルヴァ法を利用しようとして肺臓に詰め込んだ空気が無理やり押し出されて、悠慧は奇声を上げる。
身体が何周も転がって四肢を地面にこすり付け、悠慧は厚く積もる枯葉にどさりと倒れ伏した。
高く弾かれた黒い刀は一拍遅れて、五メートルほど後ろに落ちていった。
地面に葉っぱや雑草があって、ダメージを減軽くれたとはいえ、その衝撃はかなりの傷害となった。
「……なんだ、それ」
苦しげに身体を動かして、立ち上がろうとみっともない姿を見せる。
際の見えない火の幕はすでに消えてさった、炎の欠片のいくつかが水蒸気のように漂い、空気に掻き消されていく。
妙なことに、悠慧が猛烈な攻撃を食らったものの、周りの樹木や植物は火を付けられる気配をまったく見せない。炎に撫でられたところに焦げたような黒い跡しか残されていなく、先ほどまで悠慧が立っていた地に生える雑草でさえ表面が燻ぶられたようにしか見えない。
「心外ですね、これは」
不格好に手を伸ばして武器を取り戻そうとする悠慧ではなく、
「その刀、もしかして
「なんだ? それは……」
グレースと言われても、なんのことかは全然わからない。
ただ一つ、今に分かったことはその僧侶のしたことも言ったことも、今までの常識とかけ離れていることだけだ。
それは間違いなく悠慧のちょっと変わった日常に大きな歪なひびを入れてしまった。
「もしくは
倒すとまで言われると思わずドキっとした。幸い、悠慧の刀は人工物ではないらしい。
「ありとあらゆる武器を破壊できるつもりだったのですが、予想外の展開になりました。インソーセル以外の方法でしたら、我々の知識に入れておく必要性があります」
ありとあらゆる武器を、破壊? ってなんだ?
多種の材料、もしくは既知のすべての物質を破壊できるというのならまだ分からなくもない。すべての物質は力によって破壊されるからだ。
しかし、武器……そのような多様性を持ちながら、分割線すらはっきりしていないものを目標とした攻撃はどうも引っかかってしまう。
この僧侶はやはり今まで出会ったことのない力、言わば「異能」を行使している。その異能の一つは、指定した一つのものだけにある効果が発揮させることができる。
悠慧は世界の可能性を信じる男だ。以前から、ないと思い込んではっきりと否定したことはないが、今ではいきなり目の前にそれらしきものが現れたと言われても、逆に信じがたい。
「まさか、マジで魔法か? さすがに魔法……じゃないよな」
「いけませんね、これでは必要以上に面倒なことになりかねません。我々にも残り時間は少ない。始末させてもらいましょうか」
何回も見たように蝋燭が弱く揺さぶったに応じて、僧侶の周りに文字のような火の玉が何のよりどころもなく空気を燃やしてぐらぐら現れる。
今でも焼かれている疼く身体を意志力で支え、僧侶の次の攻撃に立ち向かおうとする悠慧だった。
しかし、その火の幕を突破するすべをいまだ思いついていない。たとえ今回の攻撃を凌げたとしても僧侶に有効な攻撃を与えなければ、一方的に虐げられるだけだ。
もしくは相手の時間切れまで防御を徹するか。
いや、僧侶は確かに時間が少ないと言っているが、それはどれくらいかは分からないし。その前にくたばってしまっては話にならない。
そもそも、僧侶の話は信用していいのだろうか。そう言っているのが敵で、もしかしたらこっちを惑わすために言い出した、ただの嘘という可能性も切り捨てられない。
「単に殴られる戦い方も性に合わないし……やはり、ここは立ち向かうしかねぇな」
両手で刀を握りしめる悠慧は地を蹴って僧侶の脳天に一撃を入れようと勢いよく飛び出る。
悠慧が踏み出すのと同時に、文字のような形をした火玉もさっきと似た流弾となって襲ってくる。
同じ攻撃を何度も仕掛けて通じると思われているかはよく分からないが、とりあえず舐められないようにそれらをぶっ飛ばそうと刀を水平に振り払った。
すると、流弾が半分に切られた瞬間に加速し、切り目の方向、すなわち悠慧を襲い掛かる。
爆発。至近距離の爆発。それに一度ではすまない。
「——っ!!」
気づいた瞬間はすでに手遅れだった。刃が火球の表面に届こうとする直前は直感でその危険を感じ取れていたはずだったが、間に合わなかった。
僅か幅二メートルほどの空間に四、五回の爆発を連続に受けた括りに、左方へ軽々と吹き飛ばされた。
「悠慧っ!」
すべてを目撃した少女は悲鳴を上げる。自分の安否など構わず悠慧のもとに駆け寄ろうとする。彼がぼろぼろにいじめられるのが耐えられなかったのだろう。
「あっ、まね……」
霞んでしまった目は桜色の長髪を持つ少女を輪郭でしか見えていまいが、確かに近づいている。
「来るなっ……隠れてろ!」
ぼろぼろの少年は喉を絞る。これから僧侶は何をするか、すでに脳裏に浮かんでいる。
それを止める。止めなくではならない!
「汝も邪魔ですね。倒れてもらいましょうか」
「へぇ……?」
僧侶の言葉で少女はやっと目を覚ましたかのように再び周囲の事を観察する。
一瞬のうち、多数の流弾は少女の周りを埋めた。どれも、紛れもなく命の狙った攻撃だ。
奥歯を噛みしめる少女は思わず腕をかざした。その運命を怨恨しても受け入れることしかできないように目を閉ざした。
どうして俺なんだよ……
少年は思う。
どうして俺がこんなに現実を見過ごせなくて物好きで、あんな組織を自らの意思で入って、こんな異質な神父ハゲ野郎にすでに出来損なった日常を塗り替えられなきゃなんないんだ……
時と時の空隙がすぎた。
死ぬ前の一瞬は結構長く感じると言われている。しかし、いつまでも少女に死が訪れない理由は別にあった。
また時間が経つ。
掠れた少年の声がすぐ前に響く。
「ったく……」
ゆっくり目を開ける。
「……人に任された子どもを目の前に殺されちゃ——」
目の前に残されたのは、周囲へ散らかす火花。そして、刀を振り払った少年の後ろ姿だけだった。
「屑すぎだろう、俺」
滑稽な顔で不敵を、装う。
「まだ立ち上げる気力が残しているとはね」
「あんま舐められると困るんだが……」
正直、ここで立つことが精一杯だ。この先たとえ一発でも食らったら、多分耐えずに昏倒することになるのだろう。だから、今度の駆け引きで勝たなければ万事休すということだ。
切っ先を僧侶に指す。
「……今度こそ、切り刻んでやる!」
風に吹かれた木々はざわめくようにかさかさと音を立てる。
呼吸を整えると悠慧は再び目を開く。見なくとも危険を予知できる第六感を持つ悠慧には不意打ちされる恐れなどない。
ただ、感じ取れても避けられない攻撃に打つ手はない。
天音が悠慧の言う通りに隠れたすぐ、遠くにいる僧侶はまた何らかの動作を行う。
「切り刻むなどは汝の勝手ですが、先ほどにも言った通り、我々に残された時間は微かです。できれば次の一手に倒れていただきたいところですが」
「ほぉぉ!? それはそれは……ちょうどいい、俺もそろそろ終わらせたいところでね」
素早く一歩、前へ飛び出すと、僧侶の周りに再び火の文字が現われる。
火の文字が凝固して形成した流弾を悠慧は痴れ者みたいに触ることなく、俊敏に身をかわし、あっという間にもう僧侶の目と鼻の先まで距離を詰めた。
こんな距離にもかかわらず、悠慧はなぜ故か手にしている刀を全力で投げ出す。
「……っ!」
今までしてきた無感覚に近いリアクションと違って、今度こそ僧侶から人間じみた反応が見えた。
この動きに、さすがに僧侶も予想できなかったように口元がほんのすこしだけ痙攣した。
それでも、適切な判断をした。
僧侶の眉間のところまで飛んでいった刀は壁に衝突したかのように弾け、見えない壁から火の塵がさらさらと漏れる。
悠慧は刀が跳ね返された途端に再び柄を取り、火塵が漏れる隙間に向かって振り下ろす。
刀が通る軌跡に一本細長い切り傷が空間に生じた。赤い光が迸り、決壊した堤防のように火焔の洪水が湧き出る。
僧侶は満足したのだろうか。飄然と目の前に起こったことを眺めていた。彼はまた悠慧がぶっ飛ばされることを期待しているのだろうか。
悠慧は刀を最後まで振り終わる直前に、抵抗を感じた。刃が完全に空中に静止した。
そして、火焔の洪水が刀に追いつく。
「終いですね」
と、僧侶は告げた。
予想通り、刀を滑らせていたとは言え、少しでも力を出しすぎれば必ず火の幕に嵌めてしまう。そうなれば、同じ歴史の繰り返しでしかない。
僧侶は申し分なく滑らかな放物線を描く刀から視線を下へ移動すると、息が止まった。
いない……
僧侶は何かを探しているみたいに珍しく頭を動かした。
神泉悠慧はどこにもいない……
「まさか——」
すぐ身近から声が届いた。
おそるおそる僧侶は見下ろす。
「この距離ででもなんとかできるとは思えねぇな」
そこには数百度の火の幕を潜り抜けてきた何者か、一人がいた。
「そんなっ!」
初めて、悠慧が聞いた僧侶の悲鳴だった。なんだか惨たらしく聞こえる。
右手を広げるとまだ空中に舞う刀は見えざる手に引っ張られたように、悠慧の手に戻った。
右足を踏み出して身体を支え、体幹の力も込めて右手を振り上げる。
長すぎた刀身によって地面に触れてしまった切っ先が泥土を巻き起こして、次に僧侶の胸元を通過する。
衰えはてた外見では出せそうにないスピードで後ろへ回避していたが、結局のところ刀には敵わなかった。
暗闇の軌跡は幽闇の青い蛍光を発しながら紅い鮮血を撒き散らし、雑草に幹に梢に葉っぱに、長い血痕を描く。
「そんな……そんな訳がありません……このようなことが起こりえるのでしょうか……」
手に支えていた蝋燭の火は消え、半分はすでにばっさり斬り落とされていた。
純白のローブも避けられなかった凶器に破られて、赤黒い血液に染められる。
「もうこれでは……すぐに……」
苦しそうに身体をひねる果て、僧侶の身に炎が包み、悠慧たちを見もせずにどこかへ消えていった。
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