Episode02 少女は迷い込むⅢ

 その方角だけが焔に阻まれていない。

 にやりと僧侶の口元に笑みが浮かぶ。

 笑みばかりか、一瞬ゆらりと震える蝋燭の火にすら気づかなかった悠慧はついに僧侶とあと三メートルのところにたどり着いた。

 刀を逆手もちにし、高く振りかざした刀の目標は僧侶が予測した目標物ではなかったようだ。

 刀を振り下ろす瞬間、悠慧の前にはレンガのような長方形の火の塊が僧侶の背後から飛び出し、あっという間に滑らかな火焔の石垣が積み上げられた。

 真っ赤な光に染めた瞳は恐慌の次に困惑が浮かんだ、その困惑はまた一瞬のうちに不敵となる。

 今日だけは本当に……幸運だ

 蝋燭の火の震えの直後に僧侶が構築した火焔の壁は衝撃を受けなかった。

 悠慧のこの一撃の狙いは地面だった。

 深く地面に挿し込んだ刀で前に突っ込んでいく慣性力を止めるのと同時に、身体を半周回転させて焔の群れに向き直す。その勢いで身体をもう一度思いっきり旋廻させ、走った分の運動力をすべて込めて、一番近い焔をぶち切る。

 焔は思うように二つに割れて消えることはなかった。

「……っ?」

 金属や鉛で作られる砲丸に当たったような、切り込んだ感じはまったくしなかった。それだけではない、硬いものを殴ったときに返されるはずの振動も全然なかった。あの焔は質量のある圧縮した気体のようだ。

 ただの力押しになるのか!?

 力を振り絞って腕を振り下ろす。

 ここまでの力を使ってでも地面にはたき落とすことしかできなかった焔は本来の色を失った。

 落ち葉や雑草をぶつかって、土壌に転がると瞬く間に中心を包む炎が消え、焔から黒いブラックホールのような球体へと変わっていく。そのブラックホールのような球体は土の中へ急激に食い込み、泥水を巻き起こしながら地面に十メートルほどの弾痕を残してやっと進まなくなった。弾痕のはずれにはブラックホールのような球体は、空気にでもなったかのように消えていき、それを包んでいた泥土はどこにでもある気泡のようにあっけなく弾けた。

 それらに構う余裕など悠慧にはなかった。次々と懐を狙って飛んでくる焔は人間みたいな知能はもちろん持っていない。仲間が何人やられようと標的を骨になるまで焼き尽くすのみだ。

 左手を刀に添え、刃先の向きを変えて力いっぱい右上へ振り上げる。

 今度は障害物も際涯もない曇り空を、流星のように真っすぐに飛ばされていき、ほどなく見えなくなった。

 手にさっきと同じ感じが返される。

 物質を刀でぶつけた時の手ごたえはどこにもない、ただ力を力で押し返す力比べでしかなかった。

 無理に斬るときの感覚を言わせるなら、刀と焔の中心が接触するとき、ほんの一瞬だけ吸われたように「粘った」。

 磁石が引き合うときと似た性質の「粘り」だった。

 奥歯を食いしばって、悠慧はさらに早い斬撃で焔を斬り飛ばす。

 焔の最後一つを遠い木の幹に打ち付けるそのとき、悠慧もほぼ限界に達した。

 でも悠慧は動きを止めなかった。最後の一振りをした後、ちらっとさっきからぼうとしていた僧侶を見て、ゆらりと重心を整えながら踵を返して駆け出していった。

 長いことが経ち、僧侶はやっと我に返ったように悠慧の走っていった方向に振り向く。

「我々の中でも名が通っていた傭兵だと聞いていましたが、こんなものですか。所詮は才能に恵まれた者のことです。無骨でしかありません。

 あの少年には予想したような敵意を感じ取れませんでした。さては、このやり方では少々過剰ですね。しかし、もう少し無害なやり方でこの件を締めくくりたかったのですが、あの少年も気の毒です。もし反抗しないでここで片付けさせていただけたら、あの少女を巻き込むこともなかったでしょう……この結果もそれほど惨めではないかもしれません。先刻のような乱暴な方法を使わずに処置をさせていただけると、彼の選択も間違いではないでしょう。ただし、今のような反抗をしなければの話なのですが」

 口元にちらっと不気味な微笑を浮かべると、突然燃え上がる炎に包まれた。


 さっき、背中をあの坊さんに晒してたのに、攻撃の気配をちっとも感じなかった……いや、この言い方のほうが適切かもしれない。危険な気配が一切なかったから、俺は背中を豪快に見せられた。それに、今もなぜか追ってこない。だけど、なんで? 何を考えてるんだ? あいつは!

 息を切らして悠慧は走り続ける。一体どれだけ白い影を追っていたかは分からないけれど、かなり遠くまで離れてしまったようだ。

 こんなに追ってしまった何分前の自分を責めながら頑張って環境と記憶を重ねて道を確認する。

 方向は合っている、これなら天音の横を通れば絶対にどっちらか一方が相手に気づくはずだ。

 と思って間もなく、茶色と深緑が混ざり合う森に一点のピンクが目に映った。

「あっ!」

 と、そっちも気づいたようで、小さく口を開き、こっちに顔を向ける。

「悠慧!」

 天音は仄かな笑みを浮かべ、手を掲げてそっちへ走っていく人の名を呼ぶ。

 でも悠慧は彼女の横を通り過ぎることになっても走りを止めなかった。

「走れ!」

 耳元に囁くと、天音の手を強く掴んで無理やり走らせる。

「その、ゆうっ! あっ」

 急に後ろへ引っ張られた天音は、重心を失ってしまい、ふらふらと何回も転倒しそうによろめき、蹌踉とした足取りがしばらく続いてやっとしっかりと立てた。

「な、何かがあった?」

 追いつけるように両足を動かし、慌ただしい悠慧の横顔を見て心配そうな顔をする。

「後で話す」

 今すぐに説明したいところだけれど、現状ではそんな気力も、状況に与えられた余裕も残されていないようだ。

 忌々しい予感はまた悠慧の頭の中を駆け巡る。

 焔に襲われた時ほど強烈ではないが、この場は紛れなく危険のままだ。

 おおよそ帰り道の三分の一の道のりを進んだところだろうか。男の子の悠慧はまだ余裕の色が見える。でも、こんな高強度なランニングを前に、あまり鍛錬しない天音はとっくに方で息をし始めた。

 こんな境地にいる二人を包む空気にひっそりと異常が再び染み始める。



 ちらっと後ろを見る。

 苦しそうにあえぎながらもついて来ようと頑張って走る少女に胸がチクリとする。

 どういうことなんだ、こんなに走ったのに、それでもあの坊さんを振り切れねぇのかよ!

 胸の奥に今でも響き続ける危険のアラームに悠慧の精神も、天音の身体もそろそろ耐えられる限界の直前にくるところだった。

「ちっ」

 口に出てこられないほどに小さく舌打ちをした。

 もしこれがいつまでたっても続くのならこの場であの僧侶と決着をつけた方がずっとマシだと、悠慧が思う瞬間、行く手に自然現象を超越した細い炎が現われ、その火先が振るう途端に炎が膨張し、その中から不愉快な人物が歩き出す。

「まったく、しつこい災いだ」

 手を広げて天音を庇いながら少しずつ後ろへ下がっていく。

「決着つけるって思ったけど、今思えばナイスタイミングじゃねぇな」

 危惧めいた笑みがぼんやりと露出させる悠慧は歯を噛み締めた。

 本当に今だけは攻撃しないでくれ、と心底から祈りを捧げた。

 神にではない。俺は神に嫌われている、と悠慧は思っているからだ。もちろん馬鹿みたいに僧侶に祈ったはずもない。

 さながら悠慧が神に祈らないことを神様が気づいたように、神様は因果の中で最悪な一つを下した。

「最後の件は終わっていませんので、もう少しお時間をいただかねばなりませんが」

「ああ、分かってる。分かってるさ。自己中だな」

 ただ独り言をつぶやき続ける悠慧はようやく身を隠せるくらいの樹木に天音を隠した。

 期せずして僧侶も最初の攻撃を仕掛ける。

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