Episode01 突如、幻影Ⅵ
「大丈夫、分かってる。別に気にしてないんだから」
「ごめん」
「いいのいいの、謝らないで」
「あ、ありがとう」
「むしろ私たちについてきただけじゃなくて、悠慧自身の役にも立てたら嬉しいな」
そんなふうに言葉を、優しさを、善意を放つ天音に、悠慧の精神は渦巻く不思議な浮遊感に吸い込まれそうになっていた。
理解できない。初めてではないはずなのに理解できない。どうして人間はこんなふうに物事を考えられるのか。
「ごめん」
気恥ずかしく頭を下げて、悠慧はもう一度小さくつぶやいた。
「もし俺に何かできることがあれば」
「そうだね……悠慧、私、前に朝ごはんはちゃんと食べてって言ったよね」
「ああ、言ってた気がする……ってまさか」
何かよくないを思い当たったように悠慧は歯を噛んだ。
「これからはカップ麺を朝ごはんにしないでね!」
「えぇ……えぇえ。それは、ちょっと、無理……」
生活へのこだわりがほぼゼロに近い少年が理解する朝ごはんとは、生活に支障を出ない程度のエネルギー摂取である。それ以上に食べる必要なんてない。よって、インスタントラーメンが最適解となった。
もちろん、食べ物に味を感じられないわけではない。誰だって不味な物をわざわざ味わおうとしない。
ただ、朝ごはんには朝であるし、食欲が湧いてこないし、寝坊するから時間もないしという数多くインスタントラーメンで我慢する理由が存在する。
「なんで悠慧はいつもカップ麺しか食べないの……? すぐ二階にも食堂があるのに」
「食堂なんざ朝ごはんを食べるとこじゃねぇ。それで食べてたら遅刻しっちまうじゃねえか」
「もっと早く起きればいいでしょ」
「いやいや……うん? そういえば、この頃……」
右手を顎に当てて悠慧は考え込んだと思うと、いつも出さない大声で天音は思わず後ずさってしまった。
「……毎朝毎朝おまえにたたき起こされてたな! 八時半登校が六時半に起こされるのってなんだっ! ふざけんな! 寝かせろよ」
身の近くに舞い降りた寝坊抹殺事件にさっきまでの穏やかさを失った悠慧は思わずその犯人を愚痴った。
夢の中という桃源郷から起こされてパニック状態になるのは決していい体験とは言えない。人に無理やり呼び覚まされるくらいでパニック状態になるのは神泉悠慧という男も正直、ある意味では腑抜けなのである。
「ごめんね……でも、私はやはり規則正しい生活がいいと思う」
「十分健康的のつもりなんだけどな……」
通常の冷静的な口調に戻しつつ指を折って数えるかのように練習メニューを羅列する。
「ほら、俺の練習メニューだと筋トレと心肺と反トレと射トレとか、か?……まあ、反射と射撃だけそこそこやってるけど、さすがに筋トレと心肺をする時間はない。それにやりたくないし、あいつらみたいなムキムキなんかを目標にしてねぇし」
大仰に手を振り回しながら悠慧は次々と無駄言を吐き出した。
「てかそこまで鍛えてたら本当に寿命が減らないのか? 軟骨をすり減らして老後になって毎日階段をのぼるのが精一杯で、二回建ての家なのに一階しか使ってないとか。そもそも、こんな話があるだろ、『神は人間を作り、コルトは彼らを平等にした』って。銃が一撃で人間を行動不能にできるようになった時点で、人の強さはどうでもいいだよ。銃があれば、空間把握能力と運のいいほうが勝ちなんだ」
肩をすくめて悠慧は侮るような口調で同じ組織の仲間に無礼を働く。同じ組織で仲もいいが、悠慧は何かのノーマルな言葉で褒めるつもりすらない。
人聞きの悪い言葉だろうとなんだろうと思っていることを言い放つだけだ。
「は、反射? って何?」
明らかに話についてきていない。悠慧も話を理解してくれ、なんて過分の望みはしない。これは常識的な話ではないことは百も承知だが、人を蔑まずに文句をつけるのも彼にとって大切なものである。
軽く頷くと悠慧は右手を伸べた。
別に何かのファンタジーの力が宿っているわけではないし、封印を開放すれば手のひらから世界を滅びる呪いが掛けられたわけでもない。何の変哲もない男の子の手だ。
ただし、見える変哲はすでに洗い落とされ、残されるのはただ見えない歴史だけだ。
「反射とは反射神経トレーニングで、射トレは……ええと、俺は狙撃手だから通常の射撃練習を兼ねて狙撃もやらないといけないんでな。観測手がいなくて自分で計算とかをしなきゃいけないんだよ」
その手で葬った者はいくらもいた。
「悠慧も大変だね」
「……そうだよ……大変だよ」
少年は後悔してはいない。最初に人をあの世に送ったのは仕方がなかったという理由で、殺人の拒絶心理が薄くなっているのも可能性の一つかもしれないが、多分今まで、そしてこれから人を殺害することを支える柱は本当に「仕方がない」の一つだけだ。
彼自身も覚悟は決めている。人を殺しているのなら自分が殺されても悔いることはない。
だから、その「大変だよ」は絶対に軽い慨嘆ではない。
「……ふふん」
たちまち天音は口元を隠してくすくす笑った。
「んだよ?」
思わず顔を歪めてしまった。
当初この話を聞いたときは目を丸くして辟易していたくせに、今になってはおかしなことを聞いたように笑うなど、その意味が分からない。
「最初に会ったときは頼れる人だなあって思ったんだけど、一緒に暮らしてみたら、朝起きれない、ご飯もちゃんと食べれない、しっかりしてない人って知ってしまったのに……なんだかこうやって話してみると、なんだかんだですごい人だなあって改めて思ってしまった」
「お前、一ヶ月前はドン引きしてたよね、俺が人殺しって知ったとき」
「ううん」
天音はゆっくり頭を左右へ振った。
「本当のことを言うと、まだ少し怖い……と思う。でもね、分かってるんだよ。悠慧は仕方がないって。だって、みんなと自分自身を守るために殺すしかない」
こわばる微笑みを眺めていると、悠慧は自分の顔の筋肉も引き攣っていることに気がつく。
「それに悠慧は殺さないで済むなら殺してないでしょ」
「ああ、そうだな。そこはあいつらに見習ってほしいわ」
悲しめばいいか、喜べるか分からない複雑な心情で悠慧は日本支部のほかの人を茶化した。
あいつらは作戦レベルで人の生死を決めている。敵を殺さないで残すのは人道とも呼べるが、違う捉え方をすると一般市民や友軍を危険に晒すことにもなる。
さらに奥に進んでいくと、人間の文明からも離れていく気がする。こんな枯れた植物が散り敷くこの場所なら本当に人狼がうろついているのかもしれない。
「おっかしいな、散歩のはずだったんになんでここまで来てしまったんだ? 俺ら入りすぎじゃねぇか?」
ここから入口まで約十分の道のみだ。当たり前のことだけれど、この間は何も見えていなかったし、何か変なことも起こさなかった。
「はあ……もう戻ろうぜ、あいつが来てから探索を続けよう」
長髪を風に靡かせる少女は首をすくめながら言う。
「うん……今日は昨日より寒いしね。悠慧は大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫。多分天気のこともあって、それに森中だし。日も当たらないし。もう四月なのになんでまたいきなり寒くなるんだよ、ったく」
足を止めて、スマートフォンのナビゲーションで出る方向を確認する。
近年、環境保全のために、全国範囲で造林が一部の企業や団体などに義務付けられた。それのおかげで日本の緑化面積は大幅に拡大し、道路脇に植え付けた街道樹で夏では悠慧のような学生の通学路にも長い日陰ができて、日向で汗を流しながら歩くことが少なくなった。
そうであっても、さすがに首都圏あたりの森を無限に広げては困る。小さめに造った分、仮に迷子になっても同じ方向を歩き続けば大抵安全に出られる。
ここは森のど真ん中じゃないが、何の特徴も持たない森の中ではやはり方向感覚が狂いやすくなる。どこのチンパンジーでもないのに、こうやって森の中にうろうろ歩き回るのは誰だってしたくない、ゆえにスマートフォンで方向調べが絶対事項となった。
「よし、行こう」
ナビゲーションで正確な方向を見つけ出し、スマートフォンは便利になりすぎた、と心の中で感嘆しつつその方向を歩き出そうとするその時のことだった。
「……っ!」
不意に足が杭で打ち付けられたように止まった。
「……どうかしたの?」
動きを止めた悠慧の不審に気づいた天音は頭を上げて聞いてくる。
まるで高空から落とされるような無重力の感覚が全身を襲う。
知っているようで、知らない感覚。どこかで感じたことがあるのに、そのときはこれほど直撃されなかったからだろうか。
ドキっとした心臓が強く打つ鼓動で天音の声がまったく聞こえなかった。
悠慧はなにか見たくないものを見た気がした。
違う、気がしたじゃない。
確実に見てしまった。
尋常ではないスピードの何かを……
目の当たりにしてはいけない何かを……
今までの常識を容赦なくぶち壊す何かを……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます