Episode01 突如、幻影Ⅳ
約束の土曜日の朝、天音と彼女にたたき起こされた悠慧は平日と同じ時間に研究所から出ていき、電車を何度か乗り換えて、ようやく森の近くにある待ち合わせ場所の駅に着いたのだった。
「やっと着いたか、朝っぱらから……なんなんだよ」
学校制服のポケットに内ポケットに乗車カードを入れて、悠慧はやっと電車内という名の精神的束縛から解き放たれ、心弛びをしつつぼやいた。
他の乗客の邪魔にならないように手に持っていたバットらしき物の入っている黒いソフトケースを背負う。
「付き合ってくれてありがと、悠慧」
後ろからついてきた天音は左側に回ってきて悠慧を見上げてまた礼を言った。
「これで何度目のお礼なんだよ。あんまり感謝されたら、こっちだってあれなんだよ……変っていうか、ばつが悪いっつーかなんつーか」
言うと、悠慧は急に歩調を緩めた。
「……う?」
悠慧の消失に気付いたように天音は振り向いて探そうとすると、いつの間にか天音の左側に来ていた。
天音は小首を傾げるのを見て、悠慧はただ淡々と「気にすんな」とだけ言って流した。
「……ったく、せっかくの休みっていうのに、こんな無計画な都市伝説のせいで長時間乗車するわ、金曜に忘れ物して、このあとまた学校に行って取らなきゃならないわ……本当に、まったく散々だぜ」
そして、毎日のように天音に直してもらったばかりの黒髪に魔の手を伸ばす。
どういうわけだろうか、重力でずり下がった袖の下に普段みない腕輪を付けている。
「……悠慧が西宮先生の話が聞かないからでしょう? いつもあの先生の授業になるとふざけるんだから」
すこし困った顔を作り出し、天音は叱るように言った。
「確かにそうだけど……でも、仕方ねぇだろ? あの先生面白いし、学校の珍宝というか」
「……もう! 悠慧ったら……」
「からかわずにいられるかよ。そういえば、西宮先生って結構生徒にいじめられてるな。よくそれで先生の尊厳を保てた……尊い」
「悠慧がもっと優しく接すればいいんじゃないかな?」
「頑張るわ。てか、俺は一度も先生のことを悪く思ったことねぇよ」
「先生もそう思うといいね」
「多分大丈夫、この前はなんか、ツッコミ方えぐいとか言われたからな……で、こんなに早く出て、何をしに来たんだ?」
人の波に逆行して駅から抜けてきた二人は、整然と区割りされた広大な畑とその果てにある重畳とする続く山並みを眺めていた。
少女は控え目に浮ついているが、もう一人はそうではなかった。花見にすら行かないほどきれいな物事に無関心な少年にとって、こんなところは所詮自然が動物のために用意された広大なアリーナ、その上人間が守るべき場所にほかならない。
自然が嫌いなわけではない、きれいなものなら他にもたくさんあるだろうと思っているだけだ。
悠慧は目の前に広がる景色に視線を定める場所を見つからず、やがては左側に立っている少女を見ることにした。
「こんなのを見て、何が面白いんだろう……」
微風に揺曳する長い髪の何束が華奢な肢体に絡みつき、透き通った瞳に彼女が見ている向こうの景色がきれいに映る。少年はただひたすらにそんな自然で、物静かで、しかしどこか不屈で、現実的な雰囲気を漂わせる少女に飲み込まれていた。
「悠慧って、いつも家に引きこもってるでしょう? だから、こうやって自然と触れ合って息抜きするのも悪くないって思っちゃって……迷惑だったかな……?」
どうしてそんなふうにものを考える人がいるんだ……?
悠慧はとても不思議に思う。そして理解しようとする。
「別に」
彼女はそんな心配させるほど思いやりのあるように育てられてきたのだ。
「でも今日は元々大自然と触れ合うために来たけどね。約束もしたし、なんにもわざわざ早く来る必要なんてなかっただろうが」
悠慧にとってこの猶予のない探検にあまりはっきりとした意味を感じられず、どちらかというとただ山ほどの時間を雑草や樹林にぶち込むのほうに似ている。
「それもそうだけど、早く来たほうが……あれ? 今日は大自然と触れ合うために来たの?」
「お前らにとっては探検かもしれないけど、俺にとってはただ虫に刺されるために来たんだよ……イノシシと出くわすかもしれないしな、それに」
「えっ、え? イノシシ出るの!?」
「適当に言っただけ。はっきりは分からないけど、今は確か狩猟期間だった気がする……それとも三月までだったかな……とにかく、おそらく出てくる時期なんだよ」
おどおどしていると、天音は不安な視線を寄こしてきた。
「案ずるな。腹減ってるか、子どもを守ってるときじゃないかぎり、たいていの野獣は人間を襲わない」
「そ、それなら安心だね……」
そうは言っているものの、変わらずに心もとない顔に見えた。
「正しく」
「そうだ。少しの間、散歩してみない?」
「さんぽ? どうしてだ?」
「だって悠慧の一日ってちょっとぎしぎしすぎじゃない? だから普段と違うところでゆったりしようって思って」
「うん? いや、ぎしぎしでもないと思う……いいよ。でも今日の主役が散歩してる間にここに来てしまったらどうするんだよ」
「ちょっと電話で連絡を取ってみるね」
「ああ、頼みますわ」
制服のポケットからスマートフォンを取り出して、連絡先から「あかねちゃん」の欄を探し出した。
まさかこいつ、連絡先を作るときは本名ではなく呼び名で作っているじゃないだろうな……
スマートフォンで人の名前を「天谷あかね」ではなく「あかねちゃん」と保存したことを偶然に見えてしまった悠慧は心の中で汗顔した。
「先に行てるねって伝えておきな」
「わかったよ」
しばらく待つと、あかねが電話に出たようだ。
「もしもしあかねちゃん?」「おはよう、今どこにいるの?」「……うん、早く来ちゃったからいまから悠慧とすこし森を歩こうって思って」「……うん」「……うん、わかった。ありがとう」「うん……じゃね」
「どうだった」
通話が終わったのを伺って、悠慧はその結果を聞いた。
「着きそうだったら私たちに電話するって……では、行きましょう」
楽しそうに天音は明るい笑顔を向けた。
「おまえはなんだか……上機嫌だな」
目を細めて前を見つめて悠慧はつぶやいた。
「え? そうなのかな……」
「まあ……おまえが喜べばこの遠足も無駄ではない。どうせ後で学校にも行かないといけないし……ふん、そいえば、ガキっぽい質問なんだけど、バナナはおやつに入ると思う?」
「ええ? 入らないじゃない、かな……?」
「つまり、遠足のときはバナナならいくら持って行っても問題ないってことだな、常識的に」
「ええと……それはちょっと、ね」
難解な笑顔をなんとかして浮かべる顔には困惑の色が覗ける。悠慧がしようとしている何か非常識なことの応援になるのではないかと迷っていると見て取れる。
ただ自分の足を強く信じ、まともな道を選ばず、適当に入れそうなところを森の入口として入り込んだ悠慧だった。
「そんじゃこのことが本当だとしてもやつらには報告する必要がないか、常識的に」
何度も悠慧に繰り返された「常識的に」だが、その言葉はおそらく彼が天音に肯定を求める権化なのだろう。
短い思考の後、天音はやっと悠慧の言ったことを理解した。
「……あっ、そういうことか」
「お前も言っただろ? バナナはおやつに入らないって。じゃ、この件はバナナかどうかを俺が先決めちゃえばいいんだ……いや、そもそも俺は独自で調べればいいんだ。それに俺、個人的には〈管理委員会〉に足を突っ込んで欲しくないなあ。この前の件もあって、やっぱり俺の直感は合っていた。やつらにこれ以上の実験台になりうるものを渡すべきではないんだ。もしあの時、
悠慧はあの時のことを想起してしまって、今でもその悔しさに歯をかき鳴らす。
悠慧はある組織の構成員である。クラブや同好会のような友好的なものならまだしも、どこまでも物騒な組織であり、興味もない超自然のためにここに来たのもその組織に所属しているからだ。
その名称は〈
それどころか、まったく性質の違う、「組織」なのだ。正式名称は〈
その〈
そんな組織に所属している彼はある情報を不注意でPKOの附属機関である〈補助機関〉の一つ、〈
さらに正確的に、客観的にいうと、情報漏洩ではなく情報報告であり、通報したのも悠慧ではなく、同じ組織に所属する
ところが悠慧はそのこと見越せられなかったことに、今でも胸の中に息が詰まるほどの重い何かで苛立っている。
たとえ今の〈管理委員会〉は何かをできる立場ではないし、何かをしようと企てているわけでなくても、くじ引きを引き続けば必ずいつか中たりが出るように、よくないことがやってくる。
そうであると悠慧は信じている。感性が信じたくなくても。
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