Episode03 狼の少女Ⅰ

 睡眠に伴う深い呼吸が流れる薄暗い部屋の中、布団を蹴り飛ばした少年の姿があった。

「あぁ、腹減った」

 不十分だけど半分以上の太陽光を遮断してくれるカーテンから差し込んできた光で目覚まし時計の発光ボタンを押さずに現在時刻を確認できた。

P.M.ピーエム16か」

 ちょっと変わった言葉遣いをする悠慧は、今朝僧侶との戦いで負わされた火傷などのために塗ったやや強い刺激性の薬で痛む鼻を、ミイラと互角以下の量の包帯でぐるぐると巻いた手を使って抑えてみた。

「あっ痛てぇ……臭いぷんぷんしすぎて鼻が痛くなってきた……ああ、くそ、最悪だ」

 この一睡で身体の苦しみも大分和らげてくれた。手足と顔の傷は完全に疼かないわけじゃないけど、今は鼻とお腹以外、特に不快と呼べる感覚はない。

 ベッドから立とうと脱力気味の足に力を入れる。

「あっ、これも痛っ」

 火傷とは別、飛ばされて地面に落ちたときにできたかすり傷は、今の動作によって見事にガーゼと分離してじりじりと痛む。

「ったく、運が悪っ……ハンバーグ食べるか」

 寝癖の酷い頭をさらにかき回してのろのろと厨房に入って、人工肉で作られたハンバーグで調達しようと、すでに保温になっている炊飯器が目に入った。

 ぼさっとしているうちに、誰の仕業かすぐに分かった。

 冷蔵庫を見てみて、はやりその上に便箋が貼ってあった。

 悠慧が寝てたからご飯を作っておいたよ。冷蔵庫に肉じゃががある。食べるときはめんどくさがらず温めてから食べてね! と、細めのきれいな字で書かれていた。

「まったく、面倒くさいことしやがって、食堂もあるんに」

 仕方なさそうに苦笑しながら悠慧はおかずを冷蔵庫から取り出し、電子レンジで温める。

 天音が研究所に住み始めてまもなく、悠慧の洗濯、掃除、料理など一式の家事の自主権はほぼ半強制に取り上げられた。どうして半強制なのかは、天音は常に先走りするからである。別に悠慧が遅いではない、単純に天音が早すぎるのだ。

 今までの生活習慣の一部を変更されたことを除いて悠慧も彼女がしてくれたことに抵抗はない、それどころか後ろめたい気持ちも強くなりつつあるのだ。しかし、どうして家事を接収してくれたか、その理由はさっぱり分からない。

 悠慧はトレーに載せた中途半端に熱した料理と白飯を食卓に置き、椅子を引き出す。

 なんで俺なんかのためにこんなことできるんだろう? 住所を提供したからか? いや、でも研究所は俺のもんじゃないし……俺、あいつになんかしたか? 天音の父ほしかわさんの保護役をしてたからかな? それだったら……だめだっ。

 巨大な恐怖さえ伴う罪悪感が悠慧の精神を支配し、ぞっと心臓や胃などの臓器に力が抜けるような感覚と同時に軽い目眩が襲いかかる。

「ぐう」

 ゆらゆらする身体を支え、ありったけの精神力で考えを他のものに誘導した。このことをこれ以上深堀りするといつか天音に顔を合わせるだけで倒れそうになるかもしれないと、悠慧は心のどこかで心配していた。

 正直、今でも彼女のことを思い浮かぶだけで暗然とした気持ちになる。さらに酷いことになっていないのは単純に悠慧は自分に、自分は天音の父ほしかわさんとの約束を果たしているし、彼女もそれで納得して、楽しく生きてると、言い聞かせているからだ。

 嘲弄すらできることに、これが本心で物を語る者やり方である。彼自身はそれに気づいているかは彼しか知らないだろう。あるいは、彼でさえ知ることができないかもしれない。

 素早く食事を済まし、悠慧は皿も洗わずに水槽に入れて三階にある澪の部屋へ歩いていく。皿を洗わないのはそんなことする気分ではないと、今は水に触れていい手ではない。

 今朝拾った女の子の容態は今すぐに知りたいし、聞きたいこともある。早く両親のもとに送り返さないと彼女も両親も不安なのだろう。

 三階と四階は近いから悠慧はいつも通りに階段を使っている。ゆっくり段を下げきって間もなく横からエレベーターの作動音がした。

「あの子大丈夫かな、早く刑事さんに親を探してもらっ、ぁっ! 悠慧」

 思わず振り向くと同じく三階に上がってきた天音の姿があった。

「おぉ奇遇、何しに来たんだ? お前もあれか」

「ちょっと昼に助けたあの子を見に来ちゃった」

「やはり。俺も一緒……あっ、そういえばご飯ありがとう……」

「いえいえ、私、好きでやってるんだから……だから悠慧はそんなふうに思わないで」

「いや、うん、そうか。ただいつも世話になってましてなんかあれだな」

「なんか水臭いな」

「そう」

 照れ隠しするように悠慧はドアから必要以上に詰めた距離で三○二号室のインターホンを押した。

 朝とは状況が違って、今は急ぐ必要がないから悠慧も無礼に人の部屋には不法侵入したくない。というか、この部屋は必要がなければ入りたくもない。

『どうぞ』

「ぐっ、はやっ」

 ほぼ聞こえない小さな声でつぶやきながら悠慧はインターホンから伝わってくる朗らかな声に従って天音とともに部屋に踏み入れる。

 リピングルームの中は誰もいなく、その更に奥の寝室から物音が聞こえた。

 ドアに軽く三回ノックし、悠慧は「入るぞー」と言って入っていく。

「野暮ですね」

 弾んだ声で言った澪は悠慧たちに背中を向けたまま振り向きもせずに身体の陰に隠している何かをいじっている。

「は?」

「返事も待たずに女の子のプライベート・スペースに入るなんて、軽くて刑事犯罪ですよ」

「お前が『どうぞ』っつーったろうが」

「それはリーピングのことで、ここではないですけどね」

 さっきよりもさらに愉快にしてしまった気がする。

「うわ、うぜーなこいつ。お前、帰るぞ」

「帰ってよろしいのですか」

「げっ、くそ」

 不満そうな顔を他所に向けながら悠慧は仕方なく澪を待つことにした。横に立っている天音の微笑ましい表情を見て悠慧は息を吐く。

「てか、何やってんだ? きったねぇとこを見せないように隠してやがんのか」

 収納棚などを利用して清潔に整えられた寝室を楽しそうに見回して、澪に悪意の孕んだ発言をする。

「違いますよ。私の部屋は悠慧くんみたいに散らかしていませんから」

「いや、なんで俺ん部屋が汚い設定になってんだ!?」

「別に程度とか言ってませんよ。ちょっと待ててくださいね」

「へええ……お前のキレイは俺のキレイとはレベルが違うとでも言いたいのかよ……うん? 俺らあの女を見に来たんだけど……」

 ベットの上には誰も寝ていない。澪も昼みたいに悠長な態度でいて、手元も人くらいの高さで何かをまさぐる。

「こう見てみれば、さぞ救急成功だな」

 目を細めて悠慧はほっとしたよう様子で口の端を上げる。

「医者ほどではないですけど、これくらいは楽勝ですよ? こんな私に何か言うことないんですか?」

「ないね。てか、言い方がシケてんだよ。ここはもっと策略を詰め込んで言わせたいことを引き出すべきなんじゃねぇか」

「悠慧くんはそういう回りくどい言い方の方がいいんですか? それとも、言いたいけど恥ずかしくて言えないんですか? えへへ、私は別に気にしないですけどね」

「取り合ってられんわ」

 澪は身体がぐるっと半周回って向き直してくる。

「あっ、星川さんも来たんですね」

「はい、ちょっと私も気になったのでお邪魔しようと、そこで悠慧と一緒に」

 ずっと無礼のないように黙り込んでいた天音も声を掛けられて礼儀正しく返事をする。

「澪さん澪さん。これだからダメなんですよ。人の言いたいことを当てようするのが正真正銘の無礼ですぞ」

「まあ、別にいいですよ。この社会に溶け込めるようにアドバイスしてるつもりだったんですけどね」

「まさか……今さらか? 俺、修学旅行で俺と同じ部屋のやつらにボロクソ悪口言われてたんだぞ」

「あら? またですか? その話はこの後聞かせてもらいますよ。今はもっと大事なことありますから。この子について」

「いや、正直、そんなことを厚かましく言うつもりはないんだけどな……で、そいつ治ったんだろ?」

 こっちに身体を向いてきたときから視界に捉えていたが、今澪のスカートに小さな手でしがみついているのはもちろん澪の後ろに隠れている小さな人物のだろう。

 片目だけを澪の影からはみ出させて、怯えて覗いてくる。悠慧に直視されると、まるで天敵に脅かされた小動物のようにまたすぐに頭を引っ込める。

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