Episode02 少女は迷い込むⅦ
「おい!
研究所の北西角に位置する特別寮の二階にある休憩室のドアは肩でバタンと乱暴に押し開かれた。
しかし、その中に誰もいない。
あるのは大きな液晶テレビと淡色の布製ソファー、ソファーの後ろに長いテーブルが置かれており、その上にノート型パソコンがバラバラに並んでいる。部屋の一角を据える料理台の上に設置されているコーヒーメーカーとその他の機材はほこり一つないほどに掃除されていた。
よく見てみると、ソファーの横にある猫の巣の中も空っぽである。
「ここじゃないか、そんなら」
大急ぎで踵を返し、エレベーターに向かおうと、さっきから付いてこられなかった天音がちょうど真正面から走ってきて、危うくぶつかりそうになっていた。
「悪い! 先に戻ってていいよ。あとは俺がやるから」
「あ、うん」
どこか心配そうに返事した天音に気付かずに悠慧はエレベーターを待っていられず、階段を上って三〇二号室へ向かっていった。
「まったく、こんなときに限ってどいつもこいつも!」
できるだけ懐に抱えているぐったりとしている女の子を揺さぶらないように、手元の振動を抑えながら悠慧は走っていた。
三○二の札がついている鉄扉の前に減速したものの、次の瞬間プッシュプルハンドルを力いっぱい引っ張り、隙間が空いたところに足で蹴って、勝手に入室していった。
鼻腔をいきなり充満したのは女子特有の甘い匂いだった。通常なら誘われても入らない部屋だが、今は前提条件が違う。
「澪! いるだろう? いつも引きこもってるのに今の任務中だとか言うんじゃないぞ」
「なんですか? 悠慧くん。そんな勝手に女子の部屋に入るのは無礼ですよ?」
リビングルームから女の子の声がした。口調に仄かな笑いが混ぜているのも分からなくはない。部屋が入られるのがそんなにいやではないようだ。
「ったく、そんなこと言ってる場合か? 早くこれを」
リビングルームのドアノブをも壊してしまいそうなくらいの力で開けて、視線の先にはさっきまで見ていたマンガをローテーブルに置いた少女の姿があった。
肩に触れるか触れないかの水色の短髪を片手で撫でて、親和力が満ちる真っ青な瞳は勝手気ままに女の子の部屋に入り込んだ悠慧に見つめてきた。
その愛おしい瞳も少年を見当たったら、驚かされたように大きく見開いた。もはや重ね重ねのリアクションに悠慧はこの事件性を薄く感じるようになりそうだ。
「あら、ぼろぼろじゃないですか? 薬塗りましょうか? あと、何があってそんな汗だくになってるんですか?」
「なんかみんな同じこと言うなぁ。お前ら予め話し合いでもしたか? って俺はいいから、これを見てくれ」
悠慧は大事そうに抱えている布団の中身を見せると、澪のびっくりした表情は何かを理解したような表情にシフトした。
「懲りませんね。今度は人を誘拐したんですか。ダメですよ、悠慧くん。また
「違う。俺がそんなことするような人間に見えるか? どこからどう見ても真っ当な人間だろう?」
悠慧は片目を細めて、つまらなさそうに否定した。
「とにかく、この子は森の中に寝てたんが俺らが見つけて、おそらく低体温症になりそうなところだと思うけど、やばそうだから連れ戻してきた。早く手当てをしろよ」
「分かりました。では私が見てみます」
手渡してきた布団を引き受けて、悠然としていた澪も初めて危機に脅かされる時の緊張感を漂わせた。
布団を抱きかかえて寝室に入る前に、帰ろうとする悠慧を呼び止めた。
「悠慧くんはどうするんですか?」
「へぁ? ああ、おれ? このまま薬塗って昼寝する、眠くなったし」
起きて何時間も経っていない今に寝るのは確かになんとなく廃人じみたことだが、戦いの後の悠慧なら言い訳もできるだろう。
「では、何かあったかはこの子が落ち着いたら聞かせてください」
「別に大したことじゃないけど……ね? うん? いや、そういえば大したことだったわ」
「えぇ? どういうことですか」
「いや、そんな頼りない目下の人を見るような目で俺を見るなよ。後で教えてやるからさ」
「年上ですもん」
「だからその態度は嫌いなんだよ。子ども扱いしやがって」
「はぁ、分かりました。またそのときはよろしく」
気まずさを隠すために手を振って、悠慧は少女が寝室に入るのを見送った。
ドアが閉まられてから、深呼吸を一つして、悠慧は部屋を目で掃きながら外で出ていった。
澪のやつ、こんなセンスが問われるところに才能があるよな……ってそれだけじゃなくて、こいつどの方面でも才能があるし、やっぱり女子ってもんだからかな……
ピンクと白を代表色としてデザインされた澪の家は、実用性を原則にした悠慧の物よりずっと清潔で家の雰囲気をした。
天音がここに住むと決めたときに、悠慧も一緒に家具の買い出しに付き合っていたが、あのときも澪を連れて行くのが正解だったみたい。
「こいつに天音の部屋の家具を買わせようかな」
そんなことを独言しながら、自分の住んでいる四〇一号室に戻る悠慧であった。
って、あいつさっきマンガ読んでた気がするんだが、また勧めてくるんじゃないだろうね……
「なんだったんだろう、あれ」
ぼんやりとつぶやく一人の少年が木に寄りかかって座っていた。
きれいな濃い青髪が長く垂れて、すでに目の半分をさえぎってしまった。少々陰気な目はよくない人物像を想像させてしまいそうなところだが、身の回りに纏わる優柔な雰囲気は彼と人との間にはある大きな断崖を物語っているようだ。
まだ幼い顔立ちはその年齢をあらわにした。十五、六歳だろうか。だが、そんな少年が来ているのは彼には絶対に似合わない衣装だ。
ちょっと緑がかった黒色の軍服のポケットの中にさっきまで手で持って遊んでいたひし形の立方体をしまい、凭れかかっている木の右側に立てていた狙撃銃を手に取った。
「今朝のは猟師の音響弾だったのかな」
あの実験台を研究員の女に逃されたのを知らされて、朝からここを見張り始めたが、なんの収穫もないまま一日が過ぎようとしている。
少年は狙撃銃を地面に突き立てて、座り込んでいる身体を起こした。頭を灌木に似た植物の団塊からちょこんと出して、なんの異状もないことを確認した。
見ていたのは狩猟小屋であった。わずか錆びついた有刺鉄線のフェンスに囲まれている敷地の左半分には、電車の車両に似た白い小屋が据え置かれ、山積みになっている木材を覆う木製の屋根とやや大きめな倉庫が右側に組み立てられている。
敷地内の落ち葉はしっかり隅の方に集められていて、土地に人や車が通過した跡でできる道路もフェンスの外まで伸び、その先は今や雲の隙間から夕日がこぼす金色に塗りつぶされ、不鮮明に輝く森林の奥を指している。
「いや、でも今は狩猟期間ではないなんだけどな……なんだったんだろう? それにしても一日を待ったっていうけど、彼が帰ってこなければ何も始まらないんだよな。第一、本当にあの女と一緒に実験台を隠したのかも確認できない。翻訳の仕事のはず、僕が実験をしに来るときはいつも平日だし、翻訳だから自宅で働いてるってこの前にも言ったんだが……こんな時間に帰ってこないってことは、つまり——」
次の瞬間、温和で柔らかいな口調は豹変し、攻撃的かつ狂気な口振りとなった。態度も一変し、空気にでも敵対心を起こす刺々しさは優柔を取って代わる。
「あの化け物はあの女と絡んでるってことかっ! くそっ、これでは凛太郎さんの夢が叶えられないだろうが!! あの女はともかく、あの化け物め、少しだけとは言え、信じてたのに。今ときはあの女とあの実験台のことを話してるんだろう?! あの女もなんでだ? 僕らを差し置いてどうしてあの実験台を逃げした!! 〈進化協定〉も、何様のつもりだ!? この僕らを指図しやがって、僕はただ凛太郎さんのためにお前らとこでやってるんだ、それにお前らとは協力関係だろうが! ふざけんな!!」
言えば言うほど、長髪の少年は全身を打ち震わし、突然、びりっと青い閃光が少年の握っている拳から迸った。その閃光は彼が持っている狙撃銃に吸い込まれたかのように銃口から銃身へ誘導され、途中で消えてなくなった。
少年はこれを見て、軽く深呼吸をし、気持ちを落ち着かせてからさっきひし形の立方体を入れたポケットから立方体を一つ取り出した。その形は特に変わっていないことを確認したらまたポケットにしまう。
「武器を作ってくれたとは言え、この狙撃銃もなかなか当たらないし、こいつらを持ってたら雑に能力を発動すると自爆してしまう。くそ」
少年はまた目を狩猟小屋の方に向け、依然として人っ子一人いない様子だ。
だが、今に限ってそっちのほうが少年にとって都合がよかったかもしれない。もしこのタイミングであの男が帰ってきたら、怒鳴り声でここに隠れる少年の簡単に見つけられるのだろう。
少年は何も話すことなく小屋を眺めるのをやめ、また背中を木に預けて狙撃銃を手放した。そして、懐から取り出した可塑性爆薬に目線を落とす。
瞳の奥に秘めるのは複雑だが、攻撃性を欠けない光だった。
僕はもう、信じることができない。どうして……どうして……
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