奪われたその目の先には

佐久間 空亡(そらなき)

第1話(一話完結)

 その日は、六月にしては随分と寒い、曇りの日だった。

 念のためと思い持って出た上着を着込み、家までの道を急いだ。


 横断歩道にて信号の変わるのを待っていると、向こう側の歩道に、一匹の犬を連れた一人の女性に目が留まった。

 別に、その女性の容貌が特別美しいだとか、連れている犬の種類が珍しいだとかというものではない。ただ、その女性が、曇天の中にもかかわらずサングラスを掛けていたと、ただそれだけなのだが。

 旅行客かとも思ったが、装いからしてそうも考えにくい。ストーキングのような気もしてなんだか気が引けたが、なんだかその女性から目を離せなかった。信号が青に変わり、その女性が入っていった公園に、一直線に足を踏み入れた。僅かな罪悪感については、今日のところは、一旦目をつぶろうと思う。


 とはいえ、その女性に会ってどうするというのは、まったく決めていなかった。女性が公園に入るところまでは道路の向こう側からも視認できたが、この公園は広い。きっと犬の散歩をさせに此処に来ているだろうから、探しつつ歩いていれば、いつか見つかるだろうと思った。

 さて、その女性を見つけたとして、どうしようか。何か落とし物を拾った訳でもなければ、犬と触れ合いたい訳でもない。……しかし、それが手っ取り早そうだ。あの連れていた犬に興味が湧いたことにしよう。

 ……おれは一体どうしたのだろうか。これじゃあ、まるで一目惚れをしたみたいじゃないか。


 公園を彷徨き回っていると、ほどなくして彼女を見つけた。彼女はかなりゆっくりと歩いているようだったから、追いかけずとも追いついてしまった。都合よく、彼女は正面から歩いてくる。つまり、おれがあれこれと考えているうちに、別のルートで追い越していたということだろう。

 おれは、なるべく警戒心を生まないように、心底、犬が好きであろう男性を演じた──犬は、嫌いではないが、特段好きでもない。

「こんにちは。かわいい、ワンちゃんですね」

「わ。び、びっくりした。ああ、モードのことですか? ありがとうございます」

「ああ、すみません。突然声を掛けてしまって」

「いえいえ、とんでもない」と返ってきたところで、この人の物腰というか、人との接し方が大体掴めた。拒絶反応を示されていれば、もうこの話は終わってしまうところだった。

「触っても?」と尋ねると、「ええ」と彼女は返した。そこで、ようやく落ち着いて犬からその女性へと目を遣った。彼女は、未だサングラスを掛けていた。

 もう、かなりの昼の領域が、紅く染まっていた。

 彼女がモードと呼んでいたこの犬、おそらく、ナントカレトリーバーとか云うやつだろう。かなり大きいが、初対面のおれが触っても身じろぎ一つせず、大人しく受け入れている。正直に言って、とてもかわいい。忠犬というのはこんな犬なのだろうか。利口で、かっこよくもある。お尻のところにあるハート型にも見える模様が目立つ。


 おれが一頻りモードを撫で回していると、少し歩き疲れてしまったから座って休みたいと、彼女が言った。

 おれは、すぐ近くにある古びたベンチが目につき、そこに腰掛けようと提案した。

 この公園の中心とでも言おうか、真ん中にそこそこの大きさの噴水があり、そこからパリの凱旋門から放射状に伸びるブールバールのような小道が、末梢神経のように公園の端まで引いてある。おれ達は、その噴水をぐるりと囲むベンチの、風上側にあるのを選んで座った。

 原っぱの方では、子ども達が駆け回っている。

「子どもは元気ですね。僕達も、小さい頃はああやって走り回りましたよね」

「そう、ですね……私は、あまり活発的な子ではなかったから……」

「あ、そうなんですか。これは失礼」

 モードとじゃれ合いながら、とりとめのない会話をする。

 しばらく他愛もない会話をし、ここで、おれは彼女に目を留めた切欠となる、あの話題に触れることにした。

「あの……もしかすると、また失礼な質問になってしまうかもしれないのですが」

「なんでしょう」と返す。

「あの、サングラス、外さないのですか? もう、かなり、陽も傾いていますから、気になってしまって」

 彼女は、少し驚いたように口を開け、そして少し笑った。

「ああ、すみません。今日の日没の時間はまだだと思っていました。六月とは言っても、案外、まだ昼は短いのですね」

 そう言いつつ、サングラスをゆっくりと外した彼女の目を見て、すべてを理解した。

 歩くのが少し遅い理由、おれが声を掛けた時に驚いた理由、犬を連れている理由、その犬の名前が「モード」の理由、そして、空が曇っていても、辺りが暗くなってもなお、サングラスを掛けていた理由を。

「……おれは、貴女に目を奪われたのです」

「……ふふ。面白い皮肉を言う人は、嫌いじゃないですよ?」


 その時、おれは、この人のことをもっと知りたいと思った。見ていたいと思った。今日の、おれのしたことの、殆どをこなせない彼女を。

 そしておれは、一時も彼女を見逃さぬよう、ぐっと目を凝らしていた。

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奪われたその目の先には 佐久間 空亡(そらなき) @soranaki_39ma

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