第6話 月見酒 (2)

月が出ていないので時間もわからなかった。

が、臣人が円照寺に戻ってきてから何時間も経過していることは間違いなかった。

おそらくは、もう深夜。

「ふんっ!……はあああぁぁぁ。」

臣人はようやく動きを止めた。立ったまま空を仰ぎ見た。

目を閉じると風が体を吹きぬけていって心地よかった。

汗が次から次から流れ、作務衣に染みをつくっていた。

苦しい思いがほんの少しだけ汗となって流れ、自分から抜けたような気がした。

しばらくその風に身を任せた。昔と変わらないやさしい風。夜の匂いのする風。

その風を胸一杯に吸い込んだ。

ため息のように細く長く吐き出した。目を開けて、そのままの格好で金堂の方へ向かって歩き始めた。



真っ暗な金堂を横切って、寺務所の玄関を目指していく。

小さい頃から慣れ親しんだ道なので、暗闇でもさして苦にはならなかった。

金堂の中へとのぼる階段の前に差しかかった時である。臣人は人の気配がしたので、思わず立ち止まった。

「今、帰りか?」

怒るようでもなく、静かなその声に臣人はギクリとした。國充が階段の途中に座っていたからである。見るとぐい飲みで日本酒の入った徳利を片手に一杯やっていた。

(待ってたんか?)

そう臣人は思ったが、口には出さずに黙っていた。國充はぐっと日本酒を飲み干した。

ちらりと片目をつぶったまま臣人に向けた。

「そんなになるまでやるとは。お前にしては珍しいかの」

まるで全てを知っているように言った。真っ暗で、臣人の格好など肉眼では見えない暗さであるのに。しかし、いつものケンカ越しの口調ではなかった。

どことなくいたわるような穏やかな口調だった。なんと言われてもバツが悪いことには変わりなかった。

臣人は、何も言わずにその場を立ち去ろうと思っていた。國充は空いたぐい飲みにまた新しい酒を注いだ。

「臣人、久しぶりに、飲まんか?」

その申し出に、正直驚いた。こんな事を言われたのは初めてだった。

「…って。」

「そうしょっちゅう帰ってこんからな、お前は」

困ったように苦笑いをした。確かにここを出ていった春以来、初めて戻ってきた。

5ヶ月近く会っていないことになる。

「悪かったな」と、バツの悪い顔で吐き捨てた。

「ところで、何でこないなところにおるんや?」

國充はまた一口酒を口に含んだ。

「月見酒じゃよ。」

「!? 今日は新月やから月なんて見えへんのにか!?」

思わず大声を出してしまった。國充はその言葉を聞くや、『やはり若いな』という顔をした。

「新月だから見えないという思いこみが、見える月を見えなくする」

「……」

「新月の月もいいもんじゃ。お前はまだ若いから、老人の戯言と思うかもしれんが、」

杯の中味を飲みきった。

「この世に存在するものは、それがなんであれみな“力”を持っている。それに気づくか気づかぬかは、『受け手』の問題じゃな」

臣人は変なじじいやなと思った。仕方なくそばに行って、横にドサッと身を投げ出すように座った。國充は何かを持った手を臣人の方に差し出した。

ぽってりしたぐい飲みを預けられた。そして、酒を注がれると勢いよく中味を飲みほした。

「迷いははれたか?」

飲み終わるか否かの瞬間に、そう言われた臣人は目を丸くした。國充は暗闇の中から彼をじっと見ていた。

臣人はぐい飲みを盆の上に置くとさらに手酌でもう一杯注いだ。

「何でもお見通しかいな」

不機嫌そうな口調で臣人が言った。

「さてな」

國充も杯を空にした。

「すこし誤解があるかもしれんからな」

國充は臣人から視線を外すと、また空を見た。

「お前が16才以降音信不通なっていたことを今更とやかく言うつもりはない。男にはそんな時期が誰でもある。儂もそんな時期があった」

(特に、若い頃はな。)

不思議な気持ちだった。臣人は今まで見たことのない國充の一面を見ている気がした。自信家で、口が悪くて、何事にも厳しく、ひとつの手抜きすら許さない。まるで鬼のような國充が、今はじめて普通の祖父として話をしている。臣人にはそう思えた。

「それにな、臣人。儂はお前に跡を継いで欲しくて、いろいろなことを叩き込んだんじゃないぞ」

臣人は動揺を隠そうとさらに酒に手を出した。

「儂は、これしか頭にない人間だ」

声のトーンが落ちた。國充は、右手の拳をぐっと握りしめ、それをながめながら話を続けた。

「お前に残してやれるものといえば、『術』と『技』、それにこの『寺』しかない。それを受け継いでくれる者が世に残れば、儂がしたことも少しは報われるかもしれん。」

「……」

「まあ、人情としては孫がそうあって欲しいという願いはあるがの。ただ、それだけの事。正直、儂のわがままよ」

(孫か……。)

臣人は心の中でその言葉を繰り返した。

「鳳龍に技負けしたからといって、その日の内に鍛え直そうという根性があったということだけは褒めてやるぞ」

昼間のことを思い出して、國充は豪快に笑い飛ばした。

(好きに言ってくれるぜ。ったく。)

臣人はムスッとして、酒をがぶ飲みした。しばし、笑い声が響いたかと思うと、今度はしばらく黙り込んだ。

鳳龍あれは、」

臣人の何も言わずに杯を傾け続けた。

自分から話す気にはなれなかった。

「『武』にかけては天賦の才を持っておる。あやつはまだまだ強くなるはずじゃ。」

「……」

「お前が負けたからといって、気に病むことはない。おまえは並の強さじゃが、あいつは化け物並の強さじゃからのう」

ひげを手でさすりながら國充は言った。が、すぐハッとしたように手で額を数度たたきながら続けた。

「やれやれ。いかんの。武術の師としての自分が長いゆえ、なかなか祖父としてお前に話せんわい。やはり年かの?」

「そうだよ。きっと。」

ちょっとさっきより和らいだ口振りで臣人が答えた。國充は優しい目を横顔の臣人に向けていた。臣人はその視線を感じているのか、努めてそちらの方を見ないようにしていた。

「儂はな、臣人。あとどのくらい生きておられるかわからんが、生きている限りお前が帰ってくるところを守っていたいだけじゃ」

(帰ってくるところをか。)

「ここがお前の『家』なのだから。」

(じいさん。ホンマにそう思ってるんか!?)

臣人は何か言葉を返したいと思ったが、口が動かなかった。酒だけを口に流し込む。

また、沈黙が続いた。

國充は杯を運ぶ手を休め、ぼんやりと庭を見ていた。臣人は最後の酒を注いでそれを飲みほすと、杯を盆に置いて立ち上がった。座っていた階段から数歩前に進み、空に目を移すと星々が光っているのが見えた。黒い木々の影の向こうに星が瞬いていた。

「さっき、『受け手の問題』。そう言うたな」

臣人は意を決したように、國充の方に向き直った。

「なら、答えてくれ!わいのしていることは、これでええんやろか? 」

國充が臣人の方を見た。

「これで正しいんかどうか?」

臣人は堰を切ったように話し始めた。自分の迷いを。誰かに聞いて欲しくて。

誰かに肯定して欲しくて。誰かに導いて欲しくて話し始めた。そんな思いに駆られるのはじめてだった。

「わいはバーンあいつが好きで一緒に居る。この気持ちに嘘はない。そやけど、」

何も言わずに臣人の言葉にじっと耳を傾け続けた。

「もし、わいが一緒にいることで、あいつが苦しんでいたら!?そう思うといても立ってもおられんようになってしまった」

バーンは自分より他人にとても気を遣うタイプの人間だ。自分が苦しんでいてもそれを表には絶対に出さない。それを見落とさないように、気を付けて生活してきたつもりだった。

「このまま一緒にいてええのか?わいはあいつのお荷物やないやろうか?せめてわいがもう少し」

「……」

「もう少し、強うなれたら。どんなヤツがあいつを狙ってきてもそれを祓える、退けられるくらい強うなれたら。」

「……」

「7年前のドジを繰りかえさんくらい。バーンあいつが二度と苦しまんように。」

國充は少しずつ険しい顔になっていった。

(それが柄にもなく悩んでいた真相か。)

「答えてくれ、じいさん。わいは、」

ここで臣人の言葉は途切れた。同時にここまで話した自分自身に驚いた。

他人ひとに自分の人生を左右されることほど嫌なことはあるまいに」

杯を置いて、立ち上がった。

「その答えを儂に聞いてどうする?」

臣人はハッとしてうつむいた。國充は腰の当たりで手を後ろに組んで、ゆっくりと歩み寄ってきた。

「儂はお前ではない。お前がした選択が正しいか、間違っておるかは儂にも、誰にもわからん。ただ、」

ちょっと厳しい口調で國充は話し出した。

「それを…『道』を決めるのはお前自身だということを忘れてはいかん」

70才を越した人物には似つかわしくないほど力強い声だった。

「お前の人生だ。好きにするがいい。苦しんで苦しんで出した答えが本当のお前の『道』だ。物事の本質を見落とすことなく、自らの心のままに『自由』に生きよ、臣人。お前の『自由』に」

「わいの『自由』に?」

不思議そうに臣人は顔を上げた。何度も祖父の言葉を心の中で繰り返した。

「人生に『後悔』はつきものだ。それと『束縛』もな。ひとつのことを成そうとすれば必ずそれに見合うだけの『代償』を払わねばならん。これはこの世のことわり

ハリのあった声が急に沈んだ。

「儂の『代償』は『家族』だった。」

脳裏に一人の女性が浮かんだ。自分が想いを寄せていた女性。長い黒髪に、翠玉のような瞳を持った女性。幼い頃、彼女と結んだ約束を。今も果たされていない約束を。

それを守るために、この『道』を選んだ自分自身の人生を振り返った。

「お前にも、お前の両親にも済まないことをしたと思っておるよ」

静かにそう告げた。

「その『代償』を引き替えにしても儂は『それ』を手に入れたかった」

(『それ』のために今度は、お前を『犠牲』にしようとしているのかもしれんな。

儂の代わりに、儂ができなかったことをやらせるために。お前の意志に関係なくはじまった事件ことが、儂の父親の代に始まった事件ことが、すでにお前自身を巻き込んでおる。これも何かの導きか?それとも、運命なのか?……だとしたら、皮肉なものだ。)

そんなことを國充は思っていた。臣人の顔が自分のよく知る人物の顔に重なった。

久しぶりに見た彼の顔は同じ年頃だった彼の顔にそっくりになっていた。それがうれしくもあり、悲しくもあった。いずれ、時期が来たら臣人に話さなければならない真実ことだった。事実として。現実として。それはそう遠いことではないのだろう。そう自分の心が告げていた。

「『後悔』はしていないと言えば嘘じゃが、だからといって『後悔』ばかりしていたのでは前に進むことはできぬ。同じように『束縛』の力に自らが負けてしまえば、それ以上に過酷な状況が待っているやも知れぬ」

諭すように、静かに言って聞かせた。

「今のお前は、ある意味それかの?」

國充が臣人の横に並んだ。

バーン君あやつの心配もいいが、お前自身としてはどうじゃ」

「わい自身?」

「お前にその『代償』を払えるだけの強さがあるのか。」

そう問いながらも、國充は臣人を信じていた。彼にはその強さがあると信じて疑わなかった。そう聞かれて、臣人はもう一度思い出した。

自分がバーンの前で誓ったあの事を。どんなことになろうとも、バーンの側から離れない、と。彼がひとりで立てるようになるまで。彼が許してくれるまで。

その事を、あの誓いを思い出した。

「バーンと一緒におる。それしか、わいには償える方法が…ない。」

臣人はきっぱりと答えた。それを聞いて、ふっと國充は笑った。

「そう決めたのならあきらめんことだ。何があってもな。」


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