第5話 月見酒 (1)
円照寺に臣人は戻ってきた。表門をくぐると、がらんと誰もいない広い境内が広がっていた。境内は草木の手入れはされているものの、室外灯のようなものはなく真っ暗だ。
今は新月の頃か、空には月もない。ここは山奥のため、街場の人工の明るさがない。
空の星の明るさをたよりに、臣人は金堂の裏へと向かった。
そこには今の時間ならば、國充が戻ってきているかも知れない。
顔を合わせるのは嫌だった。何を言われるかわかっていた。自分がどんな顔をしているのかも。
臣人の足は、自然と滝行の場へと向いた。
暗闇でも滝はとどまることなく、昼間と同じように水を流れ落としていた。
昼でも鬱蒼と暗い場所は、夜にはもう不気味という以外になかった。
真っ暗な中にただ水音がこだまして、まるで何か化け物が叫んでいるようだ。
そんなことは考えもしないのかお構いなしに、臣人は行場へと突き進んだ。
ようやく暗闇に目が慣れてきた。
落ちる滝の水と飛び散る水しぶきがほんの少し白っぽく見えた。
水際に着くと、臣人は草履、足袋、袈裟、黒衣の着物を脱ぎ、浄衣になった。
夕方とは打って変わって、何の躊躇いもなく滝のなかへと入っていった。
バーンが行をしていたところよりひとつ奥にある、さらに激しく水が落ちている場所を目指した。
足を組んで座り、手を合わせた。ゆっくりと目を閉じた。
「くっ」
夏だというのに水は氷のような冷たさだった。
息もできないくらいの大量の水がもの凄い水圧で自分の体に落ちてくる。
水の冷たさも相まって、体の感覚はすぐに無くなってしまった。
体に力を入れ、『気』を入れていないと押しつぶされそうである。
だが、そんなことはどうでもよかった。この場所に、自分ひとりしかいない。そのことがほんの少し彼の気持ちを慰めていた。
自分を繕う必要がない。
自分を偽る必要がない。
そうして初めて自分自身と対話しはじめた。少しずつ。ひとつずつ。
(わいは、何しにここへ戻ってきたんや? じじいに呼び出されたからか?
バーンが来たがったからか? じじいに会うためにか?
なんで、わいは円照寺に戻ったんや? なんで?
ここは、わいの「家」やない。 ここで育ったけど、帰るところはここやない。
わいの帰るところは、もう。違う!わいは)
臣人は唇をギリッと噛みしめた。中学卒業後、高校へは行かなかった。
あんな毎日がなんの変化もない平穏なところにはいたくなかった。自分が学校で学ぶことなど、もうないと思っていた。喧嘩ばかりしていた。そんな頃、國充からひとつの仕事を任されて渡米した。サンフランシスコへ。大きな仕事だったが、そんなに危険な仕事ではなかった。そう思っていた。
ある新興宗教団体の構成メンバーのひとりを探し出して、日本へ連れ戻す。それだけの仕事。だが、現実はそうではなかった。日本から追いかけてきた構成メンバーは行方不明。
『銀の舟』という新興宗教団体は壊滅。
そして、バーンはラシスを失った。自分はバーンとラシスという二人の人生を狂わせてしまった。そう思っていた。止めることはできなかった。立ち向かうことも。守ることも。
(このままでええのか? わいはこのまま、バーン(あいつ)と一緒にいてええのか?
いっそのこと離れて、二度と顔を見ん方がお互いのためや無いのか? こんな、わいと。
こんなええ加減なわいと。わいと一緒にいるっつう事は、あいつは常に7年前の「事件」と向き合うことになる。
7年前の「事件」を悪夢として見続けなぁあかん。恋人が、ラティが死ぬ原因をつくったヤツと四六時中、顔を突き合わせていることになる。
わいがあいつなら、そんなこと。御免被りたいはずや。耐えられんはずや。
ホントなら顔見るのも嫌なはずや。目の前で恋人に死なれて。それも、普通の死に方やない。)
臣人は両目を見開いた。うつむいたまま、自分の合わせた手の先を見つめた。
冷たい水が目に流れ込んだ。それでも瞬きをせずにじっと見つめていた。
(わいは? わいならどうする? あいつと同じ立場なら?
…………八つ当たりでもこの手で、殺したい! そう思うよな。)
臣人の耳に、昨夜のバーンの言葉が甦った。
『ラティが死んだのは臣人のせいじゃない…』
『俺の唯一の『救い』だよ。』と。
(ホンマにそう思っとるんか!? バーン。わいは…??)
清めるというレベルではなかった。それ以上に自分の体を痛めつけていた。
臣人自身が滝行で自分の心を問うかのように。
自らと向き合うように。
自らを罰するように。
自らを捨てるように。
しばらくして。
ようやく滝からあがってきた臣人は紺色の作務衣に着替えた。
今度は闇の中で、拳を繰り出して、汗だくになりながら型の練習を始めた。いつものように『息吹』の動作を繰り返す。
長く吐き出す息とともに、自分の体を巡る気を感じ、一カ所に集め、動かしていく。幼い頃から國充に仕込まれたのは、密教の術だけではない。日本古来の古武術の流れを組む、その一派の長である祖父に技もたたき込まれていた。
生業を退魔行とする彼にとって、術の修行はいつものことであった。が、武術となると久しくこう本格的な稽古とは離れていた。幼い頃、泣きながらやった型の稽古。
頭ではすっかり忘れていても、拳を握ると体が勝手に動いていった。
「はっ!」
今日、鳳龍に負けたのが悔しかったのか?
あるいは鳳龍の成長で、自分の技が錆びついたのを知ったのか?
どちらにしても、臣人は考えるより体を動かしていたかった。
いつもの明るく、ヘラヘラした表情ではない。
そこには指先まで力を込め、拳を打ち込む真剣な彼がいた。
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