第3話 滝行
金堂の裏から続く小道を少し歩いて林の中へ入っていくと、切り立った岩盤が目の前に現れる。見上げるくらい高いその岩盤から何本もの滝が白い糸のように落ちている。
水音がまるで地響きのように山全体にこだましていた。ここは滝行をするための行場。
山からいずる清水に身をまかせ、清める場所である。
バーンは臣人と國充から別れてからすぐにここへやって来た。
昔。3年前。
臣人に連れられて初めて日本に来てから、ここは彼の『故郷』となった。そんな安堵感にも似た思いに浸っていた。ここにいると不思議と心が安定した。ここにいると自分の力を怖れることなく、使うことができた。何度となくここで國充に鍛えられたことを思い出していた。術(力)の使い方を。闘い方を。
滝から風に乗って流れてくる霧状になった水が頬に触れた。
(精霊の声が…力が…強くなっている。)
透明で澄んだ水が流れている。その流れに視線を向けながら、バーンはあたりを見回した。
誰もいなかった。人は、誰も。
その代わり、深い森と山という自然に囲まれていた。その場所に住む動物たちにも。白い浄衣をまとい、1本の滝が流れ落ちる岩の上を目指した。凛とした空気が、彼を包み込んだ。
パシャ。パシャ。
静かに水の中に歩み入った。夏とはいえ冷たい水に震えたものの、そんなことはお構いなしにどんどん先へと進んだ。目的の場所まで辿り着く頃には彼のやわらかな金髪は水に濡れた状態になった。ゆっくりと、落ちてくる水の中に立った。10M位上から落ちてくる水に打たれるだけで、水圧で体は動かすことができなくなる。首や肩、腕に水が痛いくらいに落ちてくる。滝に打たれ始めると不思議と冷たさも痛さも感じなくなっていた。両手で胸の前に三角形をつくるとバーンは眼を閉じた。呼吸が浅く、非常にゆっくりとしたものになっていく。意識が目覚めているのに眠っている状態と同じになっていく。意識が自分の中に沈み込んでいくのと同時に、自分の中にある大きな扉を開けていく。
物質界と精神界をつなぐ扉。自分の中にある『光』。肉体という自分の殻の外にある『もの』。純粋な『意識』。何にも束縛されない『姿』。そこに意識を集中させていった。
(水の精霊たちよ。大気の精霊たちよ。大地の精霊たちよ。
そして火の精霊たちよ。我が声をきけ。我が声に応えよ。)
そう心の中で唱えた。すると、いつのまにか彼の耳から音が消えた。
あれほど聞こえていた水の織りなす轟音もなくなっていた。そして、痛覚も触覚も消えた。
彼は静寂の中にひとりたたずんでいた。意識は彼のなかからすでに広がっていた。
肉体は滝に打たれているのに、そこにはいなかった。眼を閉じていても周囲がわかった。
石ころひとつに宿っている“気”を感じることができた。
この場所で生きている全ての生命の“気”を感じることができた。午後の陽の光を受けてまばゆい水しぶき。風に揺れる色とりどりの草花。空を自由に飛ぶ鳥たち。
それを取り囲み慈しむようにある樹々。生命のあるものも、ないものも、ひとつひとつがそこに存在しているというだけで光を放っているように見えた。
この世界は美しい…と、そうバーンは思った。特にこの日本の自然が。
自分もこの豊かな自然のひとつを支える生きものでありたいと、そう願っていた。
「あれ? バーンやないか。」
臣人が同じ浄衣を着て、ひょっこり顔を出した。その声にバーンの意識は体に引き戻された。閉じていた眼を開けると向こうの岸辺には見慣れた顔があった。
「臣人」
驚いて、両手を下げた。そしてゆっくりと滝の中から歩いて出て、彼の方へ来た。
髪の毛から雫が次々と流れ落ちるのが見えた。
「だーーーっ!?」
その姿に、臣人はさっきバーンが言っていたことを思い出した。
「もしかしてお前、あれからずっと滝行してたんか!?」
あんぐりと口を開けたまま、臣人は呆れた。
「あれからずっと、って?」
きょとんとしながら答えるが、そう言ってみて初めてあたりを見回した。辺りはだいぶ暗くなっていることに気がついた。日もだいぶ傾いている。
「今、6時半やねん。わいらがここに着いたのは3時40分頃やろ。」
「そうか…」
「『そうか』って、えらく嬉しそうやないか。2時間半も滝に打たれとったら体が冷えてしまうで。」
臣人は濡れたバーンの肩に手を掛けた。
「ゔ。」
「……」
「熱い!? どういうこっちゃ?」
「心配はいらないってことさ」
バーンは濡れた髪をかき上げた。
「バーンさん。お久しぶりです。」
鳳龍がひょっこり臣人の後ろから顔を出した。
「!」
バーンは鳳龍に近づいて、うれしそうに頭をぽんぽんとなでた。
「背が伸びたな…。」
「ちょっとだけです。それより何とかしてくださいよ、臣人さんを。」
困った顔で鳳龍が訴えた。
「冷たいから滝行がイヤだって言うんですよ。ぼくは汗を流すのにちょうどいいからって誘ったんですけど」
でも身なりはしっかり『行』をする格好である。
「汗かいたから着替えただけや!別に滝行のためやない!!」
思いっきり大声で否定して、今度は逆に鳳龍の後ろに隠れるようにして臣人が言った。
じっと、大人げないという眼で彼を見た。
鳳龍はバーンと臣人の顔を交互に見ていた。
「さ、いきましょう。臣人さん?」
にっこり笑って鳳龍が臣人の浄衣の袖を引っ張りながら促した。
が、臣人はひょこひょこ歩いていき水際に行き、そ~っと足の親指の先を水につけた。
「つ、つめたーぁ!」
「……」
「よくこんなんに2時間も入ってられるな、お前!?」
身をブルブル震わせながら、もうイヤだという顔だ。鳳龍はあきらめてひとりで滝に入っていった。滝の下に入ると両手を合わせて、経を唱え始めた。
その様子を横目で見ながらバーンは薄暗がりの中で濡れた着物を脱ぎ、着替え始めた。
臣人は何も言わずにその様子を静かに眺めていた。
しばらく二人は黙り込んでしまった。臣人は空を仰ぎ見た。両手を腰にあてながら、身体を弓のようにしならせた。西の方はまだほんのりと夕焼けが残っていたが、反対の東の空は漆黒に染まっていた。大小様々な星がまだ暑さが残る空気を通して光って見えていた。
「臣人。」
小さな声ですぐそばにいる彼を呼んだ。
「うん?」
空から視線を戻し、バーンを見た。
「今から山に入るよ……」
その一言を聞かなくても、彼がこの場所に来た時点でそれはわかっていた。
ここは、円照寺はいろいろな意味でバーンが俗世のしがらみから解放される場所でもあるのだ。それは嫌というほどわかっていた。
「夕餉の準備ができたってじじいが言うとったでぇ。食ってから行ったらいったらええやん。」
バーンは首を横に振った。ふうっと臣人は深いため息をついた。
「ホントお前は言い出したらきかんさかいな。」
「お前ほどじゃ…ないさ。」
笑いはしなかったものの、バーンにしては珍しく穏やかな雰囲気だった。
「“回峰行”なんて久しぶりやな。」
「“行”をしに行く訳じゃないが…な。」
黒いTシャツとジーンズに着替え終わったバーンが臣人に近づいてきた。
「臣人、」
「なんや?」
何かを言いかけた。口を動かして、何かを言おうとした。
「いや、いい。」
しかし、何を思ったのかそれを途中でやめてしまった。言わない方がいいと判断したようだった。
「何や変なヤツやな?」
首を傾げながら臣人が眉をひそめた。
「そうか?」
「なんだかな~。」
気にも止めないような軽い調子で言いながら、横を向いた。滝に打たれている鳳龍の方を見つめた。なんだかバーンの顔を見ていることはできなかった。彼の右眼に全てを見透かされそうな気がして。
「じゃ、」
短くそう言うと臣人の肩を軽く叩いた。そのままTシャツの袖を肩までまくり上げながら、バーンは走り出した。足は靴も履かず、素足のままで走っていった。臣人には彼が言いかけたことはわかっていた。わかってはいるが。
その事よりも自分の中にある迷いをバーンに悟られまいと取り繕うのに必死だった。
何も言わずに。何も言えずに臣人は薄暗がりに消えていくバーンを、その姿が見えなくなっても見送っていた。
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