12話 密室殺人事件との戦い

 子供のころほどではないにせよ、いまKたちと対峙しているヒョンヒョ郎も、なお周囲の人々から好意を向けられやすいムードをただよわせていた。観光地など歩けばしょっちゅう道を尋ねられ、そのままなし崩し的に名所を案内する流れとなり、しまいにはうちとこの養子にぜひと口説かれるなど日常茶飯事であった。それはそれでやりがいのある人生ではあるのだが、いい歳になったヒョンヒョ郎は他人のためだけでなく自分のためにやりたいこともあった。しかたなく、なるべく他人を遠ざけるために、珍妙な格好をするにいたった。

 その目論見どおりに分別のある大人からはそうそう声をかけられなくなったのだが、今度はKたちのような好奇心旺盛な青少年らの興味を惹起しやすくなってしまい、行楽地などを歩けば子供たちに囲まれて握手やサインをねだられることしばしばであった。

 しかし、それはヒョンヒョ郎個人が解決するべき課題として、我々は我々として本題を進めなければならない。


 話は戻るが、あのあと、Kは自らの発言についてヒョンヒョ郎から提言を受けていた。

「きみ、さっきの発言、一概にまちがっているというわけではなく、あるいは言葉遊びとかレトリックとして成立する場面もあるとは思うゆえ、これはいらぬおせっかいを承知で不粋をするのだけれども、念のため広く一般的な用法について認識のすり合わせを図りたいと思うがどうだろうか」

 そうしてKは自らの誤りに気づくことができ、「はー、そうだったんですね。ありがとうございます」などと殊勝に会釈などもして、将来恥をかく可能性をわずかではあるが下げることができた。心根が素直で純朴なKはそんだけで案外この人は悪い人ではないのかもしれないと思い始めていた。

 だが、これはこれそれはそれとして、Kにはやらねばならぬことがあった。恩を仇で返さねばならなかった。こんなことなら情を知る前に始末をつければよかったと人の世のしがらみを嘆いた。だけどやるんだと決意し、心拍数が上がり、息継ぎもままならず、しどろもどろになりつつもなんとか発言した。

「決田さん、この際はっきり聞かせてください。つまりあれはそういうことだったんで、要はあなたは、その、全くあれですよね。すー。実にあれだ。まさしくあれだ。さだめしあれだ。すこぶるあれだ。正真正銘あれだ。あれ・オブ・あれだ。押しも押されもされぬあれだ。見上げたあれだ。とてつもないあれだ。前人未踏にして空前絶後のあれだ。統計的に有意にあれだ。頭のてっぺんからつま先まで余すことなくあれだ。完膚なきまでにあれだ。畢竟独自のあれだ。鳥でも飛行機でもスーパーマンでもましてやラーヴァナでもなくあれだ。神武以来のあれだ。天地開闢未来永劫ずうっとあれだ。はーはー、ふー。よくないですよ、そういうの。ほんとよくない。みんなそうだといっていますよ」

「え、何が」

 結局、Kにはやれなかった。いくら言葉を重ねたとて、ゼロにゼロを足してもゼロであった。ヒョンヒョ郎が嫌なやつならどれだけ楽だったろうかと整理できない感情でジレンマに陥っていた。でも、そういうところがKの美徳でもあるんじゃないかな。

 Kの発言を受けて、周囲の生徒らも「そうだそうだ」と声を上げて援護したが、実際のところ、生徒もヒョンヒョ郎もKが指しているのが何かよくわかっていなかった。その衣装が売っている店舗はどこかとか、自作なら製作期間はどれくらいかとか、そういうのを知りたがっているのだろうかと思っていた。


「はい、通ります。空けてください。とーりまーす、すみませーん」

 自縄自縛で言葉を思いつかないKをよそに、ヒョンヒョ郎は「しからば拙者はこのへんでおいとまさせていただきやす」てな具合でドロンしようとしていた。しかし、それでは話が広がっていかないので、しかたなく、新手の何者かが生徒会室にやってくるようであった。

「はいどうも、すみませんね。いろいろやることあるもんで……。おろ、Kじゃん。何し。というかめちゃくちゃ混んでるけどなんなのこれ」

「よ、ジバコ。えっとね、いろいろね、人生ってやつはあるよほんと」

「それはわかる。高校生ってこんなややこしいとは思わんかった。私もいろいろありすぎてその気になればいまから二秒で憤死できるわ」

 やってきたのは七七高校一年生、生徒会長の伝馬ジバ子。彼女はKと幼馴染というほどではないが、子供会の地区がいっしょだったのでまあまあ遊んだこともあるし、何度か同じクラスになって一回ぐらいは同じ班になったこともあるし、学校への道のりがそこそこ重複していたので、登下校中に姿を認めれば無理に書店などに立ち寄ったり曲がらないでもよい角を曲がるなどしてやりすごしたりはせずに近づいて、週末の過ごし方とか宿題の愚痴とか南泉斬猫とか終末のラッパの調などといったありきたりな会話をしながらいっしょに歩くぐらいの関係性ではあった。

「わ、あいつ例の人殺しだ人殺し。えらい格好してる、人殺しのくせに。なんでここいんの」

「声が大きいよ、ジバコ」

 彼女は悪い人間ではないのだが、若干、デリカシーに欠けるところがあった。

 たとえば中学校の修学旅行で美術館を訪れたときのことだが、ダビデ像のレプリカを見るやいなや、ジバコはなかなかの声量で、

「うわー、ちんちんだ。ちんちんだよちんちん」

と発言して周囲の人々をずっこけさせた。部屋の隅で忍者のように気配を消して座っていたキュレーターの職員は吹き出してむせた。ちょっと離れたところにいたKの耳にもその声はしっかり届き、やはりKもずっこけた。

 先ほどの発言も彼女の中ではKとのひそひそ話のつもりであったのだが、余裕で周辺に響き渡るよく通った声であった。ジバコをとりまく生徒らは「あー、やっちゃったよ」といった感が半分、「よくやってくれた」といった感が半分で、ただただ苦笑するよりほかなかった。ジバコを形ばかりにたしなめたKではあったが、その実、彼女に感謝していた。

 当のヒョンヒョ郎はどうか。まず、ジバコが生徒会室に入ってきたときのヒョンヒョ郎の第一印象は、表情には出さねど「変なやつが来た」であった。というのも、ジバコは両目をそれぞれテレホンカードで覆っていたからである。右目は金さん銀さんの絵柄で、左目は清水寺であった。清水寺のやつは電電公社時代の一品であるというから年代物である。

 しかしもちろんいうまでもなく、これにはれっきとした理由がある。その事情を七七高校の生徒らは既にして了知していたので、ジバコが色物バンド然とした奇矯な格好をしていても完全にノーリアクションであった。そんな周囲の反応を察したので、ヒョンヒョ郎も「なんか事情があるのだろう」と深くは考慮しない態度を決めた。

 なにゆえジバコが両目にテレホンカードを貼り付けているのか説明せねばなるまい。彼女は中学校時代の半ばで視力の低下を感じ始めた。何か深刻な病気を患ったわけではなく、現代の科学文明の中で生きる人間にとってはよくある事象であった。

 よくある話であるから無論のことよくある解決法が確立されているわけで、眼鏡をかけるなりコンタクトレンズをつけるなりすればいいのである。みんなそうしてる。文科省の調査によれば、視力矯正が必要な中学生の割合は三割程度とのことで、実際、ジバコの同級生にも眼鏡をかけている生徒なんざいくらでもいた。

 じゃあ、ジバコも眼鏡をかければよいではないか。当然の指摘であるが、ここで我々は彼女の事情もおもんぱからねばなるまい。ジバコの家は薬局を経営していた。ほんで、販売している商品の中に、眼精疲労に効くとか近ごろ本をよく読むようになったんですよとか世界に対する解像度が上がったとかなんとか、薬機法のぎりぎりを攻めている、というか当局が本気出したらひと月以内に販売会社の社員らはブタ箱行き、むしろ善良なる市民として通報すべきでは、というしろものがあった。

 ジバコは懸命に考えた。薬局の娘が眼鏡などをかけてしまえば、あいつんとこの薬は効かないんだな、と陰口を叩かれ客足は遠のき、果ては竈を破って一家離散の憂き目にあうのではないか、と。

 そこでジバコは担任の先生に、

「近ごろとみに黒板の字が見づらいことがあるのですが、眼鏡をかけるほどではないのですが、いかがでせう」

と相談してみた。

 先生答えて曰く、

「テレホンカードの使用済みを示す孔からのぞくとよかが。ピンホール効果じゃっど」

 思い返してみれば、どうも小中学校という組織はなるたけ金をかけずに済む解決策を提案したがるきらいがあったような気がする。空き瓶とかトイレットペーパーの芯とか竹とか、そんなもんを理科だの図工などで活用したりする。ベルマークなどは最たる例だろう。ところでこれは本当の話なのだが、筆者が小学校たしか三年生のとき、当時筆者が通っていた小学校のPTAのまとめ役が「ベルマークってクソだよね」と喝破してくれたおかげでベルマーク集めがきれいさっぱりなくなったと母から聞いたことがある。かのまとめ役の顔も名前もいまや知る由もないが、尊敬に値する人物であったと確信している。

 次の日、教師は二枚の孔の開いたテレホンカードをジバコにくれた。さっそく孔を通して黒板を見てみると、くっきりとまではいわないが、後ろの席からでも読める程度の視界を得られた。

 爾来、ジバコはテレホンカードを両目に貼りつけて生活しているのである。彼女はそのなりで学校はもとより日常生活も過ごした。

 当たり前だが、年頃の娘の奇行を目の当たりにしたジバコの父親は仰天し、「それはなんなの」と慌てて尋ねた。こん子はちと足らんのじゃろか、と本気で心配した。しかし、ジバコがその経緯と自らの思いを余すことなく伝えたところ、父親は娘の献身的精神に感動するとともに娘の正気を疑った自身を愧じ、それに加えて、出入りの業者の押しに屈していかがわしい商品を店頭に並べざるを得ない我が身のふがいなさをおおいに嘆くと滂沱と涙し、金輪際、ジバコの変な格好について問わないことを決心したのであった。

 ジバコは両目テレホンカードのいでたちで堂々と七七高校の入学試験をも受けた。一限目の試験時間、試験監督を担当した七七高校の教師は、教室の受験生らを見渡してジバコが視界に入った瞬間に「変なやつがいる」と首をかしげた。が、あれが悪ふざけのたぐいであれば引率の教師が止めるはずであるから、そうはなっていないということは何かやむにやまれぬ事情があるのだろうと判断して放っておいた。一方、引率のジバコらの中学校の教師は「ちょっとでも何かいわれたらすぐにやめさせるつもりだったが、何もいわれなかったのでああいうのはOKらしい」と胸をなでおろした。二限目はほかの教師が試験監督の担当であった。ジバコを見るなり直ちに「変なやつがいる」との感想を抱いたが、「しかし一限目を担当した先生から何も引き継ぎ事項はなかったし、あれは別になんでもないのだろう」と考えてやはり静観するだけであった。三限目以降も同様である。

 そうしてジバコは卒業式でも入学式でも初見の人々に「変なやつがいる」と思われながらも結局は一切何も指摘されることなく今日まで両目テレホンカードで過ごしてきた。彼女自身も「やってみるまでは周囲の人々に変なやつと思われないか心配だったが、特に何もいわれないし杞憂だったらしい」と認識するに至った。変な女、ジバコ。ウパウパティンティン。


 人殺し呼ばわりされたヒョンヒョ郎は、Kが危惧していたようなキレ方はせずに、フッと寂しげな感じで鼻息を垂れただけであった。考えてみれば、あれだけ連日にわたり各種の報道機関で扱われていたのであるから、いまさら高校生に人殺しといわれたところで特段の感情の波紋を生じさせるわけなかったのである。

 ヒョンヒョ郎は新たな登場人物であるジバコが気にはなったが、じろじろと視線を送っていい性質の事象であるかどうか判然としなかったため、若干のばつの悪さを感じながらも横目でちらちら見るにとどめながら、現在の新たな状況を分析していた。

「会長、お疲れさまです」

「疲れたなんてもんじゃないよほんと昨日なんて六時間しか寝てないんですから育ちざかりだってえのに」

 K以外にもいくらかの生徒がジバコに声をかけていた。そこから彼女は生徒会長であるらしいとヒョンヒョ郎は推測し、であれば、もしかしたらこの生徒会室の備品について詳しいのではないかとダメ元ながらも期待を抱いた。

「会長、しょっちゅう聞かれることだと思うんですけど、それって周り見えてるんですか」

「うんにゃ。あんま見えない」

 やはり表情には出さなかったが、ヒョンヒョ郎は内心で「あ、やっぱり見えないんだ」と呆れていた。実際、ジバコは部屋に入ってくるときに「ゴン」と扉に頭をぶつけていた。

「見えないって、危なくないの、それって」

「家なんかだと見えなくても大丈夫なんですけど。高校入って、こっちの造作の間合いとかはまだあんまり会得できてなくて。どこそこぶつけるんです。さっきもぶつけたし。だからこれかぶってるわけ」

 そっかあ、それは大変ですなあ、と他人事として思いながらヒョンヒョ郎は改めてジバコをチラ見した。なるほど、頭をしょっちゅうぶつけるらしいからヘルメットをかぶってるとはな。そいつはご苦労なことだ……待った、ヘルメットだって!?

「あ、きみ……ああそう、伝馬さんですかどうも。私は決田です、よろしく。ええ、ええ、そうです、人殺しの。ところでそのヘルメット……、ちょっとよく見せてくれませんか……」

 はやる気持ちでヒョンヒョ郎の声はずいぶんと上ずっていた。泰然自若で知られるヒョンヒョ郎ですら、お目当ての品に出会えた興奮は抑えきれないようであった。

「いいですよ、ほい」

 ジバコはかぶっていたヘルメットを快くヒョンヒョ郎にわたした。そのついでになんのためらいもなくヒョンヒョ郎の奇天烈な着衣をなでたり引っ張ったりまさぐったりして、その末についに胸ポケットに仕込んであったトグルスイッチを見つけ出すとみじんも躊躇することなくスイッチを入れた。ヒョンヒョ郎の衣装のあちこちに設置してあるLEDが点灯・滅灯をはじめた。そのかっこよさに、いならぶ生徒一同らは「おおー」と感嘆の声を上げるのだった。だがそれに満足することなく、飽くなきジバコの獰猛な好奇心とそれに反比例する自制心はとどまることを知らず、最終的にはKが「バッテリー切れるかもしれないから」と止めに入る始末であった。どういう仕掛けかは知らないが、ヒョンヒョ郎からはラデツキー行進曲(New year edit.)が流れて、拍手のタイミングで肩から鳩時計の鳩が出たり引っ込んだりしていた。

 平時であれば、ヒョンヒョ郎とてジバコの蛮行を断固とした態度で拒絶して手を振り払うところであったが、いまの彼は夢にまで見たヘルメットを手にしてそれどころではなかった。

「ほら、この傷はまさに六四闘争のやつだ! 機動隊員の警棒を……相手は左利きでね、だからこの向きでこう傷が入ったわけだ。いや、しかし、話に聞いてたとおりだ……。ああ、失礼、きみらにこんなこといってもしょうがな……、おお、ほらこの陥没跡! これはね、血の友引事件のやつで、PN団のやつが流れ弾を受けたときので距離は八百メートルだったか……」

 ヒョンヒョ郎は興奮気味に、しかし残念ながら対照的に周囲をしらけさせる風情で、ヘルメットをながめてなでまわして早口でまくし立てた。不運にもヒョンヒョ郎と会話をするぐらいの間合いにいてしまったKとジバコは、衣服でたのしませてもらったことに対する返報性の原理にもとづく浮世の義理として、失礼になるかならないかというぎりぎりの態度で「へーはーふーん」とあいづちを打つのだった。

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