7話 密室殺人事件との戦い

 吉村というのはどんな人間なのか。何を考えて生きているのか。彼は山のことを考える人間であった。というより、この男は年がら年中四六時中、山のことばかり考える人間であった。例を挙げれば、日に三度の食事において、食物を前にすれば必ずや「これは山の何にどういった益があるのだろうか」といったことをいちいち考察するのである。さすれば当然いまこの瞬間も、吉村の思考の大半は今度の休みに計画している登山に関する事項によって占められていた。

 しかしながら、吉村は山に熱狂するあまり生活を破綻させているかというとそういうことはなく、業務はそつなくこなしていたし、借金もしていなければ年金も税金も納めていた。自宅や職場のロッカーだってきれいに整理整頓して暮らしている。

 吉村の性格を一言でいうならば計算高い人間ということになろうか。すわ、彼の名誉のためにすぐに補足しなければならないが、ここでいう計算とは、神算鬼謀の限りを尽くして他人を陥れることによろこびを感じるとか、周囲の人間たちを巧みにコントロールすべく暗躍しているとか、そういう邪悪な性質のものでは決して違う。

 山口瞳か東海林さだおのエッセイで見た気がするのだが、たとえば五六人ぐらいで居酒屋に行ったとする。最初に生ビールを人数分頼んで、すぐに来る枝豆を、まあ、二皿ぐらい頼むだろうか。それらで場をもたせながら、次、何を行く、という段になったとしよう。

 そんな場面で、吉村のような人種はだれの目にとまるでも記憶にとどまるでもなく、淡々とはたらくわけである。

 めいめい、メニューをあみだに眺めているうちに、だれかがふと、「串盛りがある」と気づくのである。それから、一皿ってことはないよな、じゃあ二皿か、いやまあ、ついでだし三皿いこうか、ということで話がまとまりかけたとする。

 さて、そこで計算高い人間の出番である。彼は店に入ったとき、ほかの客のテーブルにあった串盛りとおぼしき皿を横目に入れ、その内容が「トリ、カワ、ハツ、スナギモ、ネギマ」であることを既にして把握している。

 その上で、自分たちのテーブルに串盛りが三皿来たあとの出来事を冷静にシミュレーションするのである。……トリはすぐにさばけるな、カワも余ることはなかろう、ネギマは出足が遅れるが結局は全部売れるだろう。ハツとスナギモ、Aさんが一本ずつ取るのは予想できるけどその先は、どうかな。少なくとも、おれはあんまり好きじゃないし、ほかのメンツもそんな好きな方じゃないはずだし。けどまあ、変化球的にBさんはスナギモを二本目に行くんじゃないかな。でもそこから先、スナギモ、冷えるとどうしてもねぇ。冷たくなったスナギモが一本、いつまでもテーブルのすみの皿に乗ったままでいるシーン……、のように。

「串盛りは二皿にして、セセリとツクネ二本ずつ頼みましょうか」 

 おもむろに、計算高い人間は発言するわけである。周囲の人たちも串盛り三皿に固執しているわけではないし、それに、いわれてみればセセリとツクネも良さそうに聞こえてくるのである。

 かくして彼らのテーブルには過不足のない焼き鳥が来ることになる。各串は彼の想定のとおり消化されていった。さらにその先、刺身盛りを頼むかどうか、ご飯にいくタイミングはいつか、Cさんウーロン茶来ましたよ、今日は〆のうどんはよしときましょう、といった計算に余念がないことは論をまたない。計算高い人間というのは、飲み屋ですらかような深慮を繰り広げては、自分の思うどおりの展開になることに無上のイズ・マイ・ライフを感じる生き物なのである。

 吉村はどうか。彼は飲み屋では、そら、多少はするが、本気で計算力を発揮することはしない。自分のフィールドではないとわきまえているし、何より、彼は他者の動きに期待することを好まないのである。

 いうまでもない! 吉村の主戦場は山なのである。彼は登山において掛け値なしに全身全霊をかけて計算を行う。休みの日、目標の山の地形図を日がなにらんで過ごすなど珍しくなく、その内容をすっかり頭に叩き込んだら、業務中でも頭の中でにらみ続けるのである。

 そんな吉村が一見すると平穏にカタギの職を務めているのは山への狂気的情熱の欠如などではなく、総合的に計算した結論として、定職についていた方が山登りには有利であると考えているからである。

 何せ、山には金がかかる。いや、たとえ登山をしなくとも、生きていくには一定の、できれば安定したアンド・サム・マネーが必要である。いっときの感情のおもむくまま、長い人生におけるほんの短い期間において、心身と時間と財産のすべてを登山に注ぎ込んでしまっては、たしかにその一瞬は気持ちいいかもしれないが、残りの人生で思うような登山をできなくなってしまうではないか、という極めて現実的な考えを抱いたとしてなんの不思議もない。彼は狂人ではないどころか、むしろ反対に冷静沈着な人物なのである。

 おそらく世の人々はこう考えるはずである。なんだ、吉村というのは存外尋常な人間であるな、と。なるほど、世の人々を驚愕、畏怖、感嘆せしめる偉業を達成するには、自らの人生を後先考えずに投げ捨てる無謀さが必要であるかもしれない。それを踏まえれば、あまりにも吉村の人生は平凡な安寧を求めすぎていやしないかと軽侮するのは想像にかたくない。

 しかしここでまたしても我々は吉村を弁護しなければならないが、別に彼は人類の歴史の一ページに偉大な足跡を残そうとか、未来永劫にわたり名が響きわたる著名人になりたいとか、山で世界一になりたいとか、そういった思惑、彼にとっては皆無とまではいわないがさほど興味のない目標なのである。

 吉村が山に登る理由は自分自身との戦いのためである。ははーん、ということは吉村という男は、第三者に対してどのように評価されるかについては頓着しないにしても、自分やひいては人類の限界を試すべく、冬季エベレスト単独無酸素登頂をねらったりとかそういう手合いだな、と推測した人もいるかもしれない。しかしそれはあまりに早計である。別に、エベレストに登らなくとも自分の限界に挑み続けることはできる。そもそもエベレストを制覇することが吉村にとって真に彼の心技体の限界であるかどうかなぞ、傍が決める筋合いのものではないではないか。

 たとえばあなたはバーベキューに参加している。肉とか野菜とかしこたま焼いて、それをかたっぱしから食べた。もうおなかいっぱいだ。水の一滴ですら苦しい。おそらくは参加者全員同様な状態だ。にもかかわらず、アホが鉄板で焼きおにぎりを作り始めた。あれはだれが食べるのだろうか、とあやしんでいるところに、

「ほら、若いんだからもっと食べなきゃ。まだ入るでしょ」

なんていわれて、焼きおにぎりをあなたの紙皿に放り込まれたらどんな気分になるだろうか。私なら強い態度で「いやもうホント無理なんで」と苦笑いしてごまかすところだ。

 あるいは、いま、あなたは発熱している。非常に苦しい状況だ。熱を測ってみたら三十七度五分であった。さほど高くないと見る向きもあろうが、体調と体温には一定の関係こそあれど必ずしも強固に連動するものではない。七度とて耐えられぬほど辛いこともあれば、八度でも意外にしのげるということもある。どうやらいまのあなたは「耐えられない七度」の発熱であるようだ。今日は学校も仕事も何もかも無理だ。そこで休暇の連絡を入れたところ、アホが、

「は、七度で休むだって? そんなん、熱のうちにも入らんだろ。ほら、さっさと来んか」

なんていってきたらどうだろうか。やはり私なら「本当の本当にキツイんで」と蚊の鳴くような声を漏らしてどうにか見逃してもらうことを期待するところだ。

 個体の限界というのは、ときには第三者の専門家が下す判断の方が的確なことはあるだろうが、原則的にはその本人の主観を第一に検討するべきものなのである。

 そういうわけで、吉村は自分の限界は自分の計算によって決定しており、他人がエベレストに登ろうが電信柱に登ろうが郵便ポストが赤かろうが、彼には全く興味も関係もないことなのである。吉村が世界屈指の山に挑むことがあるとすれば、それは彼の脳細胞がそれらの山を制覇することが現在の己の限界を示すために最適であると導き出したときに限られるのである。

 吉村の登山とはいかなるものなのだろうか。直近の例でいえば、彼は県内の高々数百メートル程度の山に日帰りで登った。整備された登山道を進めば子供でも登れるような山である。

 吉村はこの山に質量八十キログラムは下らないアンティークな足踏みミシンをかついで登った。なぜかというと、そうすることが自分の限界を探るための難易度調整に最適との計算結果を得たからである。エクストリーム裁縫としてギネス記録をねらったとか、奇をてらい世人の注目を集めたいとか、そんなよこしまな動機は一秒も考えたことがなかった。吉村はもし自らの思考の畢竟として、裸でヤマアラシに腰掛ける必要があれば躊躇なく実行に移せるやつであった。

 かついだミシンを使って、山頂でエプロンを縫い上げた。それだけでなく、自らに厳格な時間の制限を課すために、首輪型時限爆弾を巻き付け、解除に必要な鍵を自宅に置いてきて、限界に臨んだのである。

 この日、吉村が帰宅したのは爆発まで三分に迫ったときであった。彼は顔色一つ変えず、自宅の鍵を開けるのと同じような風情で淡々と爆破装置を解除した。ほぼ予想どおりの行程を終えた吉村は、自らの計算能力の確かさと心技体の充実におおいに満足して、すやすや床に就いたのであった。

 吉村のこのような行為は傍目には極めて異様に映るかもしれない。しかし、吉村は自らの行為をだれかに話したり、見せびらかしたりすることはなかったため、身近な人間はだれも彼の特異性に気づいていなかった。

 せいぜい、

「ちょっと寡黙だけど思慮深い人」

ぐらいの認識でいた。

 吉村もときどきは自らの計算能力を山以外に使うことはあった。自らの生計を安定させるべく、必要にして十分な労力を一介の消防職員として発揮するのである。その稀有な機会に邂逅した消防職員らのことごとくは、

「おそれいる」

のが常であった。

 つい先日もこういうことがあった。署の幹部クラスが集まってミーティングを開いていた。吉村もレスキュー部隊の隊長という職位のために呼集されていた。議題は、市内を流れる河川の防災施策について、県から意見を求められたため、それに対する返答をどうするか、といったものである。

 昨年度に隣県で比較的被害の大きな河川氾濫災害があり、それを受けて、「うちの県もなんかやってますアピールしておいた方がいいんじゃなかろうか」とどこかの偉い人が言い出した、というのが事の発端であった。

 県としてはそれほど具体的な計画と実行に至る意欲があるわけではないらしいのだが、さりとて、こうして意見を求められているからには「何もしなくていいんじゃないですか」とは回答しづらい。万が一、くだんの河川が氾濫してしまえば、「あそこの消防署の連中は大丈夫っていってたんですけどねえ」などというそしりは免れない。

「P川じゃろ。あれがあふれるなんぞ聞いたことねえぞ、おい。きみら若い人らがまだ生まれてないぐらい、わしが子供のころ、ここらどえらい雨降ったことあるけど、それでも話題にすらならんかったわ」

「四年か五年ぐらい前に護岸工事しましたしね」

「そうそう、そのとき河川敷も整備されてきれいな散歩コースできたもんで、私なんかよく歩いてますよ」

「けどよお、なんもせんでよかろうとはいかんじゃろ」

「ですねえ」

 たいした妙案も出ないまま、幹部らはしけた顔つきでさえない話を繰り返していた。

 小一時間ほど経ったころ、奥の手を繰り出すといった感で、それまであまり意見を出していなかった署長が口を開いた。

「どうだろう、ここは一つ吉村君の意見を聞かせてもらえませんか」

 みなの視線がいっせいに吉村に注がれた。吉村、コクリ、わずかにうなずいた。彼は会議が始まってからいままでずっと、一言も発さず、末席で腕を組んでじっと瞑目し続けていた。

 うなずいては見せたが、それからまた吉村は微動だにせず目を閉じていた。しかし、この署の幹部ともなれば当然のことながら吉村の気質や才能は承知しており、かような態度を不遜に思ったり場違いに感じることなどはなく、とにかく吉村の深慮をご宣託のようにうやうやしく待っていた。

 一分ほど経った。卒然、吉村はカッと双眸を開くと、履いていたスリッパをおもむろに脱いで頭に載せた。

 この行為を見た署長ら一同はたちまち吉村の意図を理解した。

「つまり、P川全域にわたる堤防の補強となるとなかなかの工事になるし、そのわりにはリターンが乏しいというわけですか」

「河口域の浚渫を実施して流出能力を補強することで氾濫の危険性を下げる方が効果的だというわけだ」

「むかし、P川に廃液たれ流してた工場があったじゃろ。そんときのヘドロがまだ下流に残留しとるらしいからのお。あのへん、いっぺんさらうって計画があったが」

「いいんじゃないですか。県としても渡りに船ってやつでしょうし。それでまとめときましょうか」

「……ッス」

 かくして吉村らの消防署は県にそういう感じの意見を提出した。実際に県がその意見をただちに反映させるかはともかくとして、ほかの署とは違った路線を見せられたのは事実である。

「やはりあそこの消防署は一味違う」

と改めて認識され、署長を筆頭に幹部職員らはおおいに面目を保つことができ、吉村の株は上がり、彼の職場での存在感はますます高まり、ひいては山のための生活基盤をより安定したものにできたのであった。

 まあそれはそれとして、どうして吉村はそこまで山に執着するのだろうかというのは当然の疑問である。なるほど、確かに登山によって吉村は自らの限界を試すことができているかもしれないが、世の中にはもっとほかにも人間の限界を試すことは多種多様に存在している。ギネスブックを読むと「へーはーふーん」と思うような項目がたくさんある。あえてわざわざ山を選んだ理由があるなら聞きたいというのが人情だろう。

 吉村が山に登るのは山が高いからである。高いところにわざわざ登ることで、自らの存在の証明を果たすことができると信じているからである。

 さかのぼること吉村が小学校に入るかどうかというぐらいの出来事である。吉村の家族とはほとんど交流のなかった親戚が死んで、浮世の義理のために一家で葬式に行った。

 吉村はどこのだれが死んだのか、なんのために人々が集まっているのかもわからないまま、ただ、周囲の大人に連れられて焼香の列に並び、そこで生まれて初めて死んでる人を目の当たりにした。

 死化粧がきれいに施されており、ぱっと見には眠っているようにしか見えなかった。死んだ親戚がかかわる生前の思い出なども皆無であり、特になんの感慨も浮かばなかった。強いていえば「あっけない」ぐらいの感想で、ひたすらに退屈な時間でしかなかった。

 葬式が一段落して、大人たちは親戚同士がするような話をしていた。吉村を構ってくれる人もおらず、彼はほったらかしにされた。しかたなく、吉村はふらふらと外に出た。

 夕暮れの時間が長い季節で、親戚の家の前にあった田んぼには青々とした苗がそよいでいた。方々で蛙が鳴いて、用水路に水が流れていた。

 敷地から出て数歩を進み、一人、たそがれの景色を眺めているうち、不意に吉村は悲しくて泣いた。沈む夕日が悲しくて、流れる水が悲しくて、死んでいく人たちが悲しくて、吉村は泣いた。

 吉村は年相応に子供向けの科学雑誌をたしなんでいたので、地球が太陽の周りを動いていることを知っていたし、水が流れるのは重力のせいだとも知っていた。それらは単なる物理であり、はるかビッグバンからいまこの瞬間までの永劫ともいうべき時間、宇宙の星々は飽くこともなければくすりともせず、ただ無味乾燥な方程式に盲目的に従い、なりゆきに任せてきたというのだ。いたいけな少年は、夕日を見て、流れる水を見て、ふと、いまさらながらそんなことに気づいたのである。

 人間もただ回るだけの星々と同じようにこの宇宙に存在しているからには、人体を組織する細胞ひいては分子だの原子だのの素粒子、それらも無情な物理法則に従って動くことしかないのである。

 であれば人の自由意志とは! それがむなしくて、吉村は泣いたのだった。

 吉村少年は宇宙の途方もない時空間の中、孤独にさいなまれ、めそめそとした。不意に背後に気配を感じ、振り向けばこの葬式を取り仕切っていた僧侶が影のようにひっそりとたたずんでいた。

 僧侶は上下ジャージ姿で、微醺を帯びていた。さっきまでビールを飲みながら集まった遺族らと追悼テンピン麻雀に興じていた。トップ目のラス親でダメ押しの清一色ドラ三を上がって、卓を囲んだメンツらを木っ端みじんにぶっ飛ばし、ご機嫌でしばしの夕涼みに出てきたところだった。

 僧侶は缶ビール片手にツマミの堅い干し肉を口に入れてもごもごさせている。

 この僧侶は現状どこの寺社にも所属しておらず、正式な僧籍を持っているかどうかすらあやしかった。けれども普段は地元の小中学校の教師もしていて人々からの信頼は厚かった。念仏を唱えることができれば、祝詞をあげることもできるし、聖書をそらんじることもできた。だいたいの宗派の慶弔事をとりしきることができるため、この辺鄙な地区にはたいそうありがたい人物であった。

 吉村と目が合った僧侶は、おもむろに懐から先ほど遺族たちから麻雀で巻き上げたチップを親指と人差し指でつまみようにして取り出し、親指の腹でこするような仕草を見せた。僧侶は、虚無主義に陥ってはならない、現代の人間は歴史上の人間と違って長生きするから、若いときのいっときの熱狂だけで燃え尽きることはできない、人間は偶然を大切にしなければならない、と吉村に伝えたいらしかった。

 僧侶の意図を感じた吉村は泣くのをやめて、幼い背丈から僧侶を見上げた。僧侶の耳が赤く染まって見えたのは、夕日か照れか酔いのためか。

 吉村は整然と手入れされた田んぼを指差した。人間という存在はエントロピー増大の法則に反しているのだろうか、と尋ねたいらしかった。

 僧侶はぬるくなった缶ビールをあおった。人間の時空間スケールではそのように感じられるかもしれないが、宇宙的なスケールで見れば太陽から発せられるエネルギーだとか、たまさか地球に偏って存在する物質の性質の恩恵に過ぎない、と目付きで語った。

 さらに、僧侶は、すべてはちりぢりに移ろいゆく刹那に過ぎない、君も私もある日には死ぬし、地球もバラバラのつまらない塵芥になる日が来て、いつかは宇宙も雲散霧消するのだ、と酔った眼で説いた。

 その途端、たちまちのうちに吉村は気づいたのである。この世の物質はエントロピー増大の法則ゆえにいつかは混ざり合うのだろうが、しかし長い宇宙の歴史の中ではほんのつかのま、偶然に偶然が重なり奇跡ともいうべき偏りを見せることもあるのだろう、あたかも配牌で清一色ドラ三リャンシャンテンがやってくるかのように。

 僧侶は対面の山から牌をツモるような仕草をした。何か意味のない単語を発したところから判断するに、けっこう酔っているのかもしれない。原付で来たはずなので、今日は徹夜で遺族らと過ごす覚悟があるのだろう。

 我々は偶然の幸運を大事にしなければならないのだ。目の前に良い配牌があるのならば、それを上がる努力をするべきなのだ。我々はラプラスの魔にはなれないかもしれないが、マクスウェルの魔にはなれるかもしれない。自然は何もしちゃあくれない。水は低きに流れ、ビールは放っておけばぬるくなる。しかしながら、人間は善きものと悪しきものとを選別することができる。それこそが自由意志に違いない! 暮れなずむ外界とは裏腹に、吉村少年は自らの心の中にほのかな光が灯る思いがした。僧侶はビールを飲み干し、ゲフッ、と豪快に息を吐き、満足げにうなずいて見せた。

「じゃらいね」

「……ッス」

 僧侶とはそれっきりである。あの親戚がいなくなれば、かかる地域にはなんの縁もゆかりもなければたのしい観光名所もなく、訪れる理由など皆無である。おそらくは今生で出会うこともあるまい。しかれども、あのときの二人の語らいが吉村の人生観に多大な影響を与えることになったのはいうまでもない。

 自由とは決意である。人的スケールでのエントロピー増大の法則への謀叛であり、易き流れへの反撥である。

 例えばあなたは新年度に一念発起、毎朝午前六時に起床してNHKのラジオ英語講座を聴講することを、あなた自身の自由意志によって決めたとする。

 ここで、朝の六時というのはあなたのこれまでの長年の習慣にもとづく平均的な起床時間と比べればそれなりの早起きであるとしよう。したがって、昨晩こそ殊勝な気持ちでヘイ・ジュードなんて口ずさんでいたが、いざ目覚ましで六時に起こされてみると、やはり寝足らなさは否めないイエスタデイ。布団の外はまだ寒い。やれやれ、別にだれに迷惑かけるでもなし、二度寝するのだって自由だ、本能だ、自然な発想だ、とやりたくなる気持ち、筆者もおおいに共感できる。耳が痛い。

 だがしかし、である。なんらの困難を伴わない状態に陥ることを選択することは自由意志といえるだろうか? いいや、そんなものは単なるなりゆきまかせであって、水が低きに流れるのと変わらない。そうはならないことを我々人間は示さなければならないというのだ。

 かくのごとき理由によって、吉村は山に登るのである。水や石ころは決して山を登らない。もし自由意志によって活動する生物の概念を知らない何者かが地球を観測して、重力に逆らって斜面を駆け上がる登山者どもを目撃したならば、常識に反した物理現象にはなはだ驚愕することだろう。ときには吉村はそんなことを妄想して悦に入り、片頬を緩めることもある。

 吉村にとっての登山とは自由意志の実践であり、人生であり、存在意義なのである。そしてまたそこに苦労が多ければ多いほど、森羅万象を司り、人間すらつまらない存在におとしめようとするもろもろの法則だとか方程式にクソクラエをつきつけられると信じているのである。筆者はあまり共感できないが、吉村本人は日々の人生に充実を感じているようなので、はたがとやかく容喙することでもないのかもしれない。

 吉村はいまこの瞬間も山のことを考えている。おそらく世界の終りの瞬間までそうしていることだろう。

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