6話 密室殺人事件との戦い
「おう、ロボ。お前サボりか」
「めっそうもない。ヘッヘッヘッ」
束の間、Kにとっては不毛な時間を過ごしていると、警察署の方角から警察官らしき男がやってきた。季節外れのくたびれたコートをはおり、火のついていないちびたつまみタバコ片手に、ガニ股でのっそりと歩いてきた。言葉とは裏腹に、ロボをしかりつけたふうではなく、男は何事かおもしろがっている様子である。ロボもどこかおどけた口調で返している。男はロボをひやかしながらも、「まったく、うちの若いのが面倒かけちまったみたいで」と、如才ない手際で消防職員らにあいさつをした。
やってきた新手の警察官は刑部という名で、警部の階級だった。刑部もまた平米には大きな借りがある人間である。昇任試験がどうしてもうまくいきそうになく、平米に泣きついて、「例年の傾向からいってこういう問題が出るような気がする」という資料を手配してもらったのである。したがって、刑部もまたロボと同様、平米には全く頭が上がらぬし、いまでも盆暮れには田舎から取り寄せた名産品を平米に届けているのであった。
「やだなあ、警部。ちゃんと時間休申請しましたってば。それにだいたい、こんな天気のいい日に内でじっとしてるなんてそれこそ犯罪ですよ」
「おっ、いうねえ、ロボくん。そんならいっそ署員みんな仲良く自首して廃業しちまうか」
「フッ、フフフ」
Kは警察組織の空気や文脈なぞみじんもご存じないのだが、二人の警察官のやりとりは彼らにとっては慣れたネタの一つのように感じられた。それをつつがなくやり終えた刑部とロボの二人は、部外者が預かり知らぬところで組織だけが共有している隠し事を話題にしているらしき含み笑いを浮かべた。
「ところでこの子は?」
Kとしては、刑部がすぐに警察署に帰るのかどうか判然とせず、そのために、あいさつをするかどうかまごまごしていた。そんなKに対して、やおら刑部が口を開いた。しかし彼もまたK本人に素性を直接尋ねるべきか、ロボから紹介してもらった方がいいのか、この場に堂々といるのだから全くの部外者というわけでもないのだろうが、さりとて、役割がピンとこない風情で、Kとの距離をつかみかねていた。
「警部、こちらブルさんのお孫さん」
Kを紹介するとき、ロボはなんだかちょっとしたり顔になった。つられてKも愛想笑いを浮かべながら「お世話になります」とかなんとか、ペコリ、頭を下げた。
「たはー。てことは、あなたがKさん。いや、これは失敬。私もかねがねお名前は伺っていたんですけど、直接お会いするのは初めてなもんで。いやいや、さすがはブルさんのお孫さんだ。しっかりしていらっしゃる」
刑部は露骨にというほどでもないが丁寧な物腰に変わった。その敬意の根拠がK自身ではなく祖父であるとは知りつつも、それはそれとして身内がもてはやされることに悪い気がするはずもなく、Kは若干ヘラヘラした表情を浮かべた。
「Kさんのおじいさま、うちらじゃもっぱらブルさんって呼んでたんですけど、私もブルさんにはそりゃあもう大変お世話になりました。もちろん、こいつもですよ。なあ、ロボ」
「ええ、ホントうちの署はブルさんでもってたようなもんですから」
刑部とロボは「うんうん」と、どこかしみじみした具合でうなずき合って見せた。Kは祖父が現役だったころの働きぶりはほとんど知らなかったし、祖父が警察を辞めた、手続き上は馘首されたわけだが、その理由は経緯についてもごく漠然としたものしか把握していなかった。祖父が自分から話すことがなかったため、聞かれたくないことなのかなと思い、今日まで触れずに生きていた。しかし、こうしてかつての職場の人たちから慕われていた気配を感じるに至り、Kの人生における不安の一つが良い方向で解消されたように感じた。これだけでも、連休の一日をつぶした甲斐があったと納得できそうである。
「ときに、Kさんもメロンはお召し上がりになって?」
「はへ」
唐突に思いもよらない話題で不意打ちを受けた形のKは、あいまいな表情で肯定とも疑問ともつかないあいまいな返事でしのいだ。
「いえね、恩返しなんてがらじゃないんですけど、ブルさんへのせめてもの気持ちとして、毎年、田舎からメロン送らせてもらってるんですよ」
「あっ、あのあれですか。はい、おいしくいただきました」
「お口に合ったのなら光栄です」
Kは、祖父が毎年夏の始まりごろ、恒例行事のように家にメロンを二玉持ってくることを思い出した。実に立派なメロンで、Kは毎度おいしくパクパク食べていた。Kはメロンの味については興味があったが出所についてはあまり興味がなく、時々、祖父や父母が「ギョウブサンのメロン」と説明してくれていたのだが、それがギョウブという地方産のメロンであるのか、人間のギョウブさんがくれるメロンであるのか、いまのいままで脳みそのしわに刻み込まれないまま、いい加減に扱っていた。
しかし今日この瞬間、刑部という実在の人物を目の当たりにするに至り、まあ来週には刑部の顔もうろおぼえになるのだが、ともあれ、くだんのメロンとはこの警部殿から祖父への贈答品であることを主体的に認識するに至り、おおいに腑に落ちる思いがした。どうやら今日はKの人生の疑問が解決する星回りの一日であったらしい。
Kの屈託のない様に刑部はやや満足げに頬を緩めたが、すぐに業務中の社会人の表情に戻り、すんすんと駐車場を見渡した。何かの目印のように配置されたパイロン、個人で購入することは絶対にないようなゴツい階段、そのてっぺんで無造作に放置されている訓練用のダミー人形、友人らしき消防職員とペラを回しているロボの呑気なツラ、体操する初老の男性、これらの総合的な意義を見つけんと、刑部は少しだけ考えた。しかし、人生の浪費であると判断してすぐにやめた。
「ロボ、ひとつものを尋ねるが、こりゃあなんだ」
「ブルさんたっての頼みってやつです。例の資産家殺人事件のあれをどうにかしようってことで」
大恩人の名を出されて、刑部は改めて謎の設営を眺めてみた。例の事件をどうにかしようというのは、ホシをあげようという意味に違いあるまい。しかしながら――刑部は自分の歳を読んだ――おれの知るブルさんはこんなまどろっこしい人間じゃあなかったと小さく嘆息した。全盛期のブルさんならば、有無をいわさずくだんの息子をとっつかまえて、調書を血で染め机に歯が刺さるほどに殴りまくって、とっくに事件は解決していただろうに、と往時に思いを馳せた。
「それでこれはどういうシステムかね」
「セントルイスを抱えて階段登って、ここに戻ってくるのに三十秒かからなければ成功です。どうですか、せっかくですから警部も」
ロボはのっすんかったんした足取りで、階段のてっぺんで放置されているダミー人形を回収に向かった。Kはロボの説明に何か補足した方がいいのか、しかしそれもロボの顔をつぶすことになるのではないかと迷っているふうで、結局何もいわずにいた。警部は腰に手をやり、頭を振った。ため息が漏れた。
「気をつけてください。六十キロでしたっけ、意外に重いですよ」
ロボは階段からダミー人形を突き落とすと、梶田と二人で脚を持って引きずってきた。アスファルトでガリガリ削られているが、備品をそんなふうに扱っていいのだろうかと部外者ながら刑部は心配になった。
気づけば、刑部のもとにみんな集まっていた。どう考えても「やる」空気が醸成されていた。
「最近、すぐに腰が痛くなるようになって……」
事実そうであり、刑部は自らの身体の最大の懸念を正直に吐露したのだが、口にした途端、いかにもとってつけたいいわけのようになってしまって戸惑った。Kは「このおじさんは偉い職位みたいだし、いい歳もこいてるし、しかたないか。でもなあ」というまなざしを向けていた。
「しかし、ブルさんの頼みとあっちゃあ、あだやおろそかにはできんわな」
刑部は決意を固めた。かつて受けた平米への恩を思いつつも、ここで株を上げておけば次の昇任試験でも世話をかけさせてもらえるのではないか、といういやらしい思惑も内心で否定はしなかった。それから、なるべく日常的に体を動かすように医者から指導を受けていることを思い出して、これはいい運動になるんじゃないかとモチベーションを上げることを意識した。体動かした分、このあいだうまい鳥皮を出すというお店を教えてもらったので、今夜はそこで一杯ひっかけるのも悪くはない、なんて思いついたりもした。
「どうしますか、警部さん。中の重り抜けば多少は軽くできますけど」
梶田が不安げに声をかけたが、刑部はきっぱりと断った。
「それじゃあ、ブルさんに合わせる顔がない。私もね、こう見えて若いころ……」
刑部は気迫あふれるかけ声とともにセントルイスを背負った。しかし、予想よりも重かったのか、あるいは刑部の筋力が衰えていたのか、後ろ向きに倒れ込みそうになった。それで慌ててバランスを取ろうと前方に重心を移して、前方向へのはずみがついた。それらの物理学の解として、刑部は中腰の姿勢になり、さらにセントルイスの荷重によって彼の想定を凌駕する角度と勢いで突如腰を曲げさせられた。
「おっ」
ごく短い、ひかえめともいえるうめき声を漏らすと、刑部は突然石にでもなったかのように固まり、横向きにコテンと倒れた。致命的なその瞬間、刑部は自らの腰に「ピッ」とひびが入ったかのような嫌な感触があった。
「け、警部、大丈夫で、はないですよね……」
「ありゃま。お巡りさん、やっちゃいましたか。その辛さ、お察しします。梶田選手、湿布持ってきなさい」
羞恥と痛みのためか、刑部は返事もせずに憮然としていた。彼はすぐには体を動かそうとしなかった。腰痛との付き合い方を熟知していた。刑部は追跡者から隠れた哀れながらも利口な草食動物のように、息をひそめて冷静に敵の出方をうかがっていた。
長きにわたる戦いによって、刑部は敵の手口は知り尽くしているつもりでいた。まずは小手調べに、仰向けの姿勢から普通に体を起こそうとした。
すかさず痛覚が牙をむいた。
腰にズキンと痛みが走り、刑部は「ぐっ」とうめくと、直ちに来た道を引き返した。Kとロボはただおろおろとしていた。
しかしまあ、そんなことは予見していた。いまのはほんのあいさつ代わりってやつだ。刑部は一回だけ深呼吸をした。
続いて刑部は体をゴロリと横向きにして、片腕を地面に垂直に立て、それを杖のようにしてすがりつき、なるたけ腰回りの筋に力が入らないように上体を起こそうとした。これこそが刑部が彼なりに見つけたしのぎ方であった。
「うっ」
刑部の想定では、多少の痛みはあれど、そこを乗り越えれば立ち上がれるはずであった。だが今日は違った。想像を超えた痛覚が反射的に体を萎えさせ、彼は再びアスファルトの上になすすべなく体を横たえることになった。もはや万策尽きた。おれが野生動物であったならこれでしまいだ、とすてはちな気持ちになった。刑部は自らのうかつさを呪い、人の世の、過ちの程度に対する受ける報いの釣り合わなさに不合理さを感じずにはいられなかった。
「スプレーのやつと貼るやつありましたけど、どっち使いますか」
刑部がロボに「郵便局の裏手の細い道にある鳥なんとかって店、ロボは行ったことあるか? 鳥皮がうまいらしいの。あるんだ。へえ。今度行こうや」とか脈絡のない強がりを見せたり、Kに「あのおじさんはよく戦ったとおじいちゃんに伝えてください」と泣きを入れたりしていると、梶田が湿布を持って戻ってきた。これでようやく話の本筋とはなんら関係のない壮年男性のぎっくり腰の話題から移れるとみなが安堵した。
ともあれ、湿布よりもKとロボの注意を引いたのは梶田と一緒にやってきた消防職員とおぼしき人物で、端的にいってヒグマを連想させる図体と所作をしていた。素手で生肉をむさぼるといわれても信じてしまいそうな空気を総身にまとっている男だった。
「梶田選手、ご苦労。おお、吉村君ではないですか。やってくれますか」
「救急箱取りにトレーニングルーム行ったら、ちょうど吉村さん上がるところでしたんで、ちょっと来てもらったんです」
吉村と呼ばれた男は比賀の呼びかけに対して、「……ッス」と人類の自然言語の中に対応する単語があるか定かではない発音で息を吐いて、ゆっくりとうなずいた。Kやロボ、それからアスファルトの上に寝ている刑部を無視するというわけではないのだが、ちらりとひかえめな視線を一瞬送っただけで、それ以上の儀礼は示さなかった。遠慮しているようでもあれば、一線を引こうとしているようにも感じられた。
「カジー(地元の同級生は梶田をそう呼ぶ)、こちらの方は」
「吉村さんはうちのレスキュー隊のエースよ。市報にも載ったけど、見てない?」
梶田の説明によれば、吉村は消防組織のレスキュー隊の一員であり、市報二月号に出初式の様子として掲載されたとのことである。Kもロボも、市からの配布物にまともに目を通す習慣なぞ持ち合わせておらず、したがって、そんな記事には全く心当たりはなかったのだが、
「あ~、あれね。うん、あれあれ。や~、こうして直接近くで見るとまた違う印象がありますね。いや、どうもどうも」
などと精一杯知ったかぶって見せた。ロボのお調子ぶりにあいかわらず吉村は「……ッス」とだけ反応を見せた。
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