5話 密室殺人事件との戦い
次の日、Kはお昼に消防署の駐車場でロボと打合せをすることになっていた。
「ま、Kちゃんとロボがそう考えるんならそうかもしれんわな」
現場と警備会社の視察から帰った直後、Kの祖父に被害者の自宅や警備会社で仕入れた情報を伝えると、Kの祖父はすぐには返事を口にせず、何事かセリフを作った感じで返答した。ロボは「おそれいります」などと調子よくかしこまってみせた。
その後、夕食時に一連の顛末をKの父と母に話すと、Kの父は「一分はちょっとむずかしそうな気がする」と見解を述べ、Kの母は「あら、だから挑戦する意味があるんじゃない」と援護した。
Kは消防署に一人で行った。Kの父と母は隣町の役場に展示してある地元の人々が描いた絵手紙を見に行くそうで、Kにはほとんど興味がわかない方面であったが、Kの母はたのしげに予定を語っていた。
消防署の駐車場はやたらと広かった。隅々まで白線が引いてあったが、建物の近辺にいくらかの車が駐車してあるだけで、残りのスペースはさびしくひらけていた。消防署という施設に一般のお客さんがここまで大挙する日があるのだろうかとKにはわからなかった。消防職員の一日の活動というものもわからなければ、世の中わからないことばかりだった。
警察署とは目と鼻の距離で、今日は勤務日のロボは昼休みに合わせてやってくるとのことだった。
「よっす、お疲れ」
ロボは「よう」とか「おっす」とか「おはよう」とかもろもろ混ざった具合のいい加減なあいさつで現れた。Kも挙手して「こんちは」と適当に返した。
「いやもう、どうして連休だからってみんなどこそこ行きたがるかね。事故だの遺失物だの仕事が殺到して目が回りそうだわ」
「書き入れどきなんですね」
「商売繁盛でありがたいこっちゃ。大入り袋でももらいたいよほんと」
連休のさなか、なにゆえこんなひとけのない消防署の駐車場などにのこのこやってきたのかといえば、ロボが「おれにつてがある」などといいだしたからである。
「そろそろ時間だけど……おっ、いま建物から出てきたのがおれの知合い」
ロボが手を振った先には台車をのろのろと押してこちらに向かってくる消防職員の姿があった。台車にはマネキン人形か何かを積んでいるようである。
「いやあ、思ったよりめんどくさかった。こいつなかなか重いんだぜ。おっと、そんでこちらの子はどなた?」
「退官した大先輩のお孫さんだから丁重に頼むわ」
「そりゃ大変だ。どうもよろしく」
「お世話になります。Kといいます。よろしくお願いします」
Kはぺこりと頭を下げた。
事前に聞いた話によれば、この消防職員はロボの古い友人だそうで、名を梶田といい、児童、生徒、学生時分には毎日のようにいっしょに遊んでいたそうである。しかしながら、歳を食ったいまではすっかり疎遠になり、近ごろでは週に二回か三回か四回かせいぜい五回かそのぐらいしかつるむこともなくなったとのことである。
「で、これ使って何するの」
「ちまたで話題沸騰中の例の事件、あいつをおれたちが解決しようってわけ」
「ほんとかよ」
ロボと梶田はニヤニヤした顔を浮かべ合った。どうもロボの友人とやらは話半分ぐらいの体で聞いているようである。
「ほんとほんと……。へえ、この手の人形って初めて実物見たかも。確かに重いな、これ。ま、それはともかく、じゃあいまからおれの名推理を一発披露しましょうかね」
ロボの名推理とはこういうものである。
「会社役員の息子は父親に対して言葉巧みに錠管理システムの電源を強制的に落としたうえで自分を室内に招き入れるよう要求し、中に入るや否やあっという間に毒ガスでもって父親を殺害、その遺体を寝室までがんばって運んでベッドに転がして布団もちゃんとかけて、今生の別れを惜しむ間もなく大急ぎで家から脱出したのだ」
「ふうん、そういうもんかい。おれは警察の仕事っていうのはよくわからんからその推理の良し悪しはさておき、ともあれこいつが役に立つっていうのなら結構なこった」
ロボが梶田に用意してもらった人形というのは実際の人間の質量や骨格系を模したものであり、普段は訓練でかついだり吊り上げたりしているそうである。
「それでこの人形殿のお名前は?」
「セントルイス君だ」
ロボと友人が「くくっ」と笑い合ったので、釣られてKも意味もなく愛想笑いをしてしまった。何か損をした気分である。
「ほんじゃあまあ話はだいたいわかったと思うけど、いまからおれはセントルイス君を抱えて犯人の行動をシュミレーション(ロボはそう発音するのだ)してみる。これで一分切れるようなら、おれの推理にもとづいて犯行は可能ってわけだ」
ロボは駐車場をざっと見渡し、てくてく歩き、歩数で距離を測りはじめた。
「K、ねえ、あの家こんぐらいの広さだったかな」
「あ、そのことなら祖父から家の間取り教えてもらいましたよ」
Kが自宅を出ようとしたところで、平米がふらっとKの家にやってくると、
「あくまで一般的な話として、あの規模の家の間取りというのはこういうものであることが多い」
などと説明しながら、決田邸の間取り図とおぼしき資料をわたしてきたのである。
「寝室は二階ですね、二階の一番奥の部屋」
「ひゃー。あのね、気軽にいっちゃってくれるけど、セントルイス君はけっこう重いのよ」
「そそ、高齢者男性モデルだから六十キロかそこらかね」
しかしまあ、泣き言を漏らしたところでどうしようもないので、ロボは気合ともため息ともつかぬ具合に大きく一つ息を吐き、どうにかこうにかセントルイスを背負い、「ふんぬ」と立ち上がった。するとセントルイスが後ろ側に崩れて盛大に頭をアスファルトにぶつけた。生身の人間だったら重篤な被害が出ていてもおかしくないほどの勢いだった。
「いまので確実に死んだんじゃないですか」
「加害者は石橋を叩いて渡る性格だったかのかもしれん」
「その抱え方じゃあそうなるわ。普通のおんぶと違ってしがみついてくれないから。こうよ、こういうふうに抱えんと」
梶田がお手本を披露してきた。脚を腕で抱えつつ手をつかんで背負うのが正しいやり方だそうである。さすがはプロというべきで、やる気なくぐにゃぐにゃしたセントルイスのやつが消防士の背中にがっしり固定されている。
「おお、さすが。さすがついでに、寝室までやってくれるとありがたい」
「よくいうぜ」
ロボの友人はセントルイスを案外ぞんざいに下ろすと、「訓練用の階段を持ってくるから待っといて」といってどこかに行った。その間に、Kもセントルイスを持ち上げてみようとしたが確かに見た目の印象よりもだいぶ重く、Kにはこれを抱えて階段をひょいひょい駆け上がるなんて芸当はちょっと無理そうである。渦中の被害者の息子の図体を想像してみたが、やつもさほど腕っぷしに自慢がある手合には思えなかった。
「加害者らしきヒョンヒョ郎って人、そんなに力持ちには思えないんですけど、本当にこんなことをしたんですかね」
「わからん。けど、ここでおれらがどれだけがんばっても無理だということなら、この方針が正しくないということはわかる。ま、やるだけやってみるさ」
梶田が戻ってくるまでのあいだ、ロボは重りを抜いて軽くしたセントルイスにプロレス技をかけて暇をつぶした。ジャイアントスイングでぶん回して一定の満足感を得たがそれに飽き足らず、物言わず打合せも通じない人形相手に卍固めを成立させようとがんばりだした。ロボはいたってまじめにやっているのだろうが、その様はKには落語のらくだを熱演している人にしか見えなかった。
結局、ロボは卍固めはあきらめたらしく、半奇声を発しながらロメロスペシャルをセントルイスに仕掛けた。背広姿でよくやるものである。Kはやる気皆無な拍手を送ってあげた。
下に車輪のついた階段を押して梶田が戻ってきた。梶田といっしょに、初老手前ぐらいに見える皺が入った浅黒い顔の男性職員も階段を押してきた。背丈はKよりも少し低いぐらいかもしれないが、やはり鍛えているようでみっしり詰まった印象を与えてくる。
「おうおう、ルイスちゃんをあんま酷使すんなね」
初老手前の職員は大らかな態度で声をかけてきた。梶田の上司か何かに当たる人間なのだろうがよくわからない。歳をくった体育教師のような風情を男は出しており、若者らの行動にもはや手も口も出さず、一段上がったところから鷹揚に眺めることに収束した観があった。
「あなたが白木さんね。比賀です、はじめまして」
「はあ、まあ。よろしくお願いします」
お互い初対面のようだが比賀はロボの名は知っているようである。
「梶田君から話はかねがね聞いてるもんで、たいそうお酒が好きなようで」
「くふふっ」
比賀のごあいさつをロボは肯定も否定もしなかった。ただただ苦笑するばかりであった。なんとなれば、実際、ロボは酒をよく飲んで元気にはしゃぐ人間だからであり、つい先週もロボは梶田と二人で居酒屋で飲んだくれた挙句にご機嫌で繁華街をふらつき、何を思ったのか突如として畑正憲を彷彿させる勢いで三越のライオンの顔面をなめまわしたというのだからしょがないね。
梶田と比賀が階段を固定している間に、Kとロボは見取り図に従い、被害者の息子の行動を再現するための距離を検討した。
「二階の分の移動も含めるとこんなもんか。遠いな……」
「人形をかついでそこから階段を駆け上がって、てっぺんで下ろしたら急いであっちまで駆け抜けるという感じですね」
「被害者を殺害したり、寝室のドアを開けてベッドに寝かせる分も考えると、移動に使える時間は……三十秒ぐらいだろうか」
「できそうですか、ロボさん」
ひとめ、Kには難しそうに思えてならなかった。だが、ロボはやおらスーツを脱ぐと、淡々と準備体操をしながらこともなげに答えた。
「それが仕事だからな――」
結局のところロボのタイムは三分を超えた。ぜんぜんダメだった。途中で何度も脚を止めては「ふぬっ」と悲嘆とも鼓舞ともつかない謎のかけ声をあげた。階段をとぼとぼと歩いて下りる様には遠目にも濃い疲労の色が伝わった。
「無理」
Kからタイムを聞いたロボはその二音だけを発すると、息も絶え絶えに駐車場のアスファルトの上に大の字になった。空が青かった。
「いまのでコツをつかんだとかそういうことは」
Kの問いにロボは無言で弱々しく首を振った。確かにだれの目にも無理そうに見えた。試行を繰り返したところでいたずらに疲労を重ねてタイムを悪くしていくだけであろうことが容易に予見できた。
Kは自分もやるべきだろうかと迷った。やったところでロボよりも更にダメなことは明らかであるし、別段、やらねばならないという強要的な雰囲気も感じられなかった。しかしながら、おつきあいというか渡世の義理というか、ロボにばかり苦役を課して自分一人がおめおめ無為に過ごすというのも人道にもとるような気がした。
「次、いきます」
ともかく、一応やるだけやったという事実が重要なのだ。人の世のやってる感の馬鹿馬鹿しさを呪った。多少は元気になったロボが、けれども寝そべったままKの方に視線を向けた。梶田が近くまでやってきて心配そうな面持ちでいつでも手を差し伸べられる構えになった。
「ふああ!」
Kは天をも貫く気合を込め、セントルイスを背負ってどうにかこうにか立ち上がった。ロボが「おお」とひかえめな賞賛の声を漏らした。
しかしながらKの挑戦はそこまでだった。立ち上がったところで一歩も動けなかった。Kが有する全身の筋力は絶妙な平衡状態となっているらしく、その状態からわずかでも逸脱すれば転倒することがおのずと認識できていた。
「いいよそれ、そのままドサッと下ろして」
立ちすくんでいるKに梶田が救いの声をかけてきた。腕の力を抜くとセントルイスは地面に崩れ落ちた。ロボのようにぶっ倒れるまではいかなかったが、肩で息をする有り様であった。
「さて、続いて梶田選手、わかってるな」
「無論です」
比賀に促されると梶田はヘルメットをかぶり、Kの足元からセントルイスを拾い上げた。スタート地点でしばらく佇むと距離を見渡し、動線やペース配分を計算しているようである。
「任せとけ、シロ(地元の同級生はロボをそう呼ぶ)。プロの技、見せてやるよ――」
梶田がセントルイスを抱えてさっそうと駆け出した。堂に入っている。ホッ、ホッ、とリズミカルに息を立てながらペースを落とさず階段を登りきると、迅速かつ的確にセントルイスを最上段にかなぐり捨てた。ロボとは異なりまだ余力があるらしく、帰路の足取りもしっかりしたものに見えた。
「おおわっ!」
ゴール地点にたどり着くと同時に、梶田は達成感に満ち溢れた雄たけびを上げた。日々、鍛錬しているとはいえ、さすがに一仕事を終えた酸素不足のため膝に手を当てて息を切らしている。
「タイムは……、えー、二分ちょい切るぐらいです」
「うへえ」
梶田はひょうきんな嘆き声を吐き出し、がっくり、うなだれた。呼吸に合わせて上下する背中を比賀がポンポンとやさしく叩いた。ロボは茶化しと励ましを混ぜっ込んだ感じで「おしいおしい」と声をかけた。
Kの目から見て梶田の動きは十分に洗練されたものであり、ほかの比較対象がロボしかいないということを差し引いても、人体が発揮できるであろう屈強さと俊敏さの上限にけっこう肉薄しているように感じられた。したがって、これ以上がんばってもおいそれとは三十秒なんて切れないんじゃないかと悲観せずにはいられなかった。
Kは決田邸を想定した配置を改めて眺めた。訓練用の階段の最上段には先ほど梶田が打っ棄った人形が遺体のように転がっている。本当に被害者はこんなふうに殺されたのだろうか? はじめる前から思考の片隅で疑念がちらついてしかたがなかったが、やはりこの推理には無理があったのではなかろうか? Kは追い詰められた気分に打ちひしがれた。
ロボと梶田は「いい運動になった」とかなんとか互いの奮闘をほめたたえ合っているようでもあれば、身の程を確認して安心しようとしているふうにも見えた。あれが大人の世界なのだ。Kはなにがしかのわびしさを感じた。学校の勉強ならば必ず解ける問題が提示されるが、世の中の本当の問題というのは正解の有無すら判然とせず、にもかかわらず、結果が正しくないことはわかるようなのだ。かような世界で我が身を全力で燃やし続けて、なお純然たる正気を保ち続けられるものがいればそれこそ狂気というものではないのか。
Kは家に帰りたくなってきた。帰って、おやつ食べて、昼寝でもしたかった。ロボは梶田とじゃれ合っているし、比賀は悠然と謎のストレッチ体操を一人ではじめるし、孤独で、己の無力に堪えられそうになかった。
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